第四十話 油断(1)
――「この世が誤った道を選んでいたとしたら、それはいつからなのだろうか?」
「解せませんか」
先頭を歩いていたサトナからの問いに、碧は弾かれたように顔を上げた。
彼女がついてこいと言ってから数十分もの間、誰も口を開かなかったので、耳を打つのは木々のざわめきや動物たちの鳴き声くらいのものだった。人の話し声はずいぶん久方ぶりに思える。
とはいえ立ち止まって親身に耳を傾ける気はないようで、サトナの腰まで届く濃灰のおさげが彼女の歩みに合わせて揺れている。
“解せませんか”。
それがどちらに向けられた言葉なのか分からず、碧は再び俯く。
碧自身、疑念は幾つかあったが、あえてそれを口にする気にはなれなかった。訊ねたところで、サトナが素直に答えてくれるとはどうしても思えなかったのだ。
「……解せないな」
逡巡する碧の代わりに、低い声が答える。
「技を教わりに来たのはこいつだ。何故おれまで救いの巫女に会わなきゃならない?」
彼の疑問はそのまま、碧の最大の『解せない』点でもあった。
ヤレンは最初から碧にだけ働きかけていて、他に仲間がいることを把握している様子はあっても、直接話題に出すことはなかった。巫女の森へ来るよう告げたのも碧一人だったはずだ。ヤレンからすれば碧が仲間を引き連れてくることは想定外だったのかもしれないが、それであればイチカもラニアらと共に残るよう伝えるはず。ヤレンとは何の接点もないイチカまでもが招かれる理由が見当たらなかった。
サトナはやはり振り向かず、前を見据えたまま淡々と告げる。
「ヤレン様は、異世界から来られたあなた方とお話がしたいとおっしゃっています」
「!」
それは確かに、碧とイチカのたった一つだけの共通項。
前もって伝えていたことならば、サトナの言い分も理解できたかもしれない。しかし問題は、知られていないはずのことさえ筒抜けになっているという点にある。
イチカは不快感を表すように眉間に皺を寄せ追及する。
「何故知ってる」
「ヤレン様の御力です」
こともなげに言ってのけるサトナだが、それだけの理由で納得するイチカではない。
「相手の思考を読み取る神術があるそうだな。こいつの思考からおれの情報も盗んだか?」
一顧だにすることなく碧を示す。静かな声調ながらも皮肉が見え隠れしている。暗に「お前のせいだ」と責められている気がして、碧は居心地が悪い。
「確かに、思考を共有する中で貴男の情報が紛れ込んだ可能性は否定できません」
サトナは脚を止めることなく、イチカの問いに対して淡々と応じる。
「ですが、一つだけ訂正させていただくならば――“盗んだ”のではなく見えていたのです。貴男やアオイさんがこの世界に来られるよりも前から、ヤレン様はあなた方のことをご存じでした」
「予言してたってことですか?」
「そうなりますね」
「そんなもの、後付けでどうとでもなる」
然りと頷くサトナの様子に納得しかける碧だが、イチカがにべもなく叩き斬る。
「ヤレン様の御力のひとつです。貴男もお会いすればその片鱗を感じ取れるでしょう」
サトナの口ぶりがいよいよ宗教じみてきた。教祖に心酔する信者というのはこういうものなのかもしれない。変な勧誘されたらどうしよう、と余計な心配が頭をもたげる碧である。
イチカも大体同じような感想を抱いたようで、もはや何を言っても無駄と悟ったのか小さく溜息を吐いただけであった。
(でも、予言されてたとしたらいろいろしっくりくるな)
ヤレンが未来を予知し、その内容を逐一サトナに伝えていたとすれば、これまでの不可解な言動もつじつまが合うのだ。
たとえば、初対面で碧とイチカの名を知っていた理由。
たとえば、「魔王と戦うその時はまだ来ない」とサトナが断言できた理由。
そもそも、ネオンや仲間との出会いもヤレンの予言に導かれてのもの。ラニアが挙げていた俗説では、彼女が生存していた四百年前にはすでに日本のことを知っていたそうだが、お伽話のような話が現実味を帯びてきた。
(亡くなった後何百年も意識として生きてたくらいだし)
「あ、そういえばサトナさん。あたしこの前サトナさんに訊こうとしたこと分かったんですよ。四百年前に生きてたヤレン様がどうやってあたしたちと会話してるのか、ってやつなんですけど」
それまで鈍りさえしなかったサトナの歩みが不自然に止まった。
碧は不思議に思いながらも先を続ける。
「あたし、【思考送信】できるようになったんです。あの答えって【思考送信】のことだったんですよね。あの時理解できれば良かったんですけど、あたしあんまり頭良くないんで」
「アオイさんに、謝らなければならないことがあります」
自虐ネタで笑い飛ばそうとした碧を、真剣な声色が遮る。
「えっ。どうしたんですか急に」
「私は常々、巫女という存在は公明正大であるべきと考えています。嘘偽りなく真実を伝え続けることが私たちの役目と。あの日、私は……貴女に七つも嘘をついて、真実を伏せました。本来ならば恥ずかしくてとても顔見せできる状態ではないのですが……この森の『守護』は私しかいませんので、どうかご容赦を」
振り返って歩み寄るや深々と腰を折るサトナに面食らい、碧は狼狽えるしかない。
「そんな、気にしないでください! こっちのことは分かんないですけど日本で嘘ついたことない人なんてたぶん一人もいないですから! 日本どころか、世界中? なんで、全然大丈――」
「……一人も?」
ゆっくりと顔を上げたサトナの顔は、碧の血の気が引くくらい無表情で。
「それは大変に由々しい問題ですわ。日本には悪人しかいないことになってしまいますから」
フォローのつもりで口走った一言は、サトナの地雷を盛大に踏み抜いたようだ。
それからまたしばらくは、草地を踏みならす音だけが響いた。先刻よりも空気が重くなったのは、きっと気のせいではない。なんでもいいから何か他愛のない話題を振りたい碧だが、イチカが安定して『話しかけるなオーラ』を放っているためにそれもできそうにない。
「もうすぐ、ヤレン様がいらっしゃる場所に着きます」
サトナの声に一瞬身構えた碧だが、この状況下においては吉報だ。
周囲は背の高さこそ違えど樹木ばかり。案内板などもないため現在地どころか帰り道も分からないが、今眼前にあるものは重要な目印になりそうだ。碧は前方をしっかりと見つめる。
そこには、天高くそびえる一本の大樹があった。
大の大人が数十人で抱えても抱えきれないほどの幹を持つその樹は、周りの木々とは違う色相をもっており、樹齢の長さを感じさせる。おそらく、レイリーンライセルの聖域にあった樹よりも高齢だろう。
何よりも目を引くのは、根本から最高部までが一直線に伸びていないということ。
「名は『アスラント』……別名『この世の果て』。最大にして最古の樹で、ちょうど創世のときから生きています。お気づきになったかもしれませんが、『アスラント』という世界名はこの樹から取ったものです。天変地異だとか突然変異だとか原因は定かではありませんが、ご覧になって分かるように『この世の果て』は傾いているのです」
そう。大樹・アスラントは根元から緩やかに、大きく傾いているのだ。
さる人物がこれを一見し、「これはこの世の果てを示している」と断言したことから、この別名もつけられたのだという。不格好なほど傾いた『この世の果て』は、しかし誇らしげに胸を張っていた。
『この世の果て』を通り過ぎて五分ほど経っただろうか。不意にサトナが立ち止まり顔を上向けた。普段よりも一層真剣な眼差しを天に向け、さながら神の声を聞いているようだった。
「それでは、私はこれにて失礼致します」
碧とイチカに深く礼をし、足早に去っていくサトナ。
案内役が多くを語らずいなくなってしまったため、状況がうまく飲み込めないままその後ろ姿を眺めていた二人だが、イチカの方が先に視線を戻し――
人影が現れたのは、そのすぐあとだった。
イチカが剣の柄に手を掛ける。そこに佇む影はか細く、霧もかかっていないというのに朧気であったが、警戒するに越したことはない。
「早まるな。私は魔族ではない」
「あ……?!」
落ち着いた口調で殺気立つイチカを制する影。
それまで静まりかえっていた森が、影を讃えるようにざわめき始める。
柄から手を離すことなく静止しているイチカの隣で、碧は目を見開いていた。姿に既視感はなくても、その声に聞き覚えがあったのだ。
脳内に響く、碧しか知らない声。
未来を知り、それを仄めかすような発言をする人物――。
「ヤレン……!?」
『暇だー』
「暇だねー」
「暇よねー」
状況が目まぐるしく変わる深奥部から一転、巫女の森境内。
こちらは三部合唱するほど暇なようである。『巫女の森』といえども巫女はサトナ一人。話し相手もいなければ娯楽施設もないのだから、自分たちで娯楽を作り出すしかない。
とはいえ即興の歌も長続きせず。四人は再び各々の楽な姿勢でぼーっと呆けていたが、ミリタムがふと後方の小屋を振り返る。
「白兎はやっぱり調子悪いの?」
「そうねぇ。例の水を飲んで一瞬は良くなったけど、結局は神力を身体に入れてるようなものだから。食あたりみたいな状態になって今は寝てるわ」
「踏んだり蹴ったりだなぁ」
白兎のいる小屋に同情の眼差しを送るジラー。ただ苦手なだけであれば努力でなんとかなるものもあるかもしれないが、根本的に身体に合わなければ克服のしようがない。
「アイツが気になるなら見に行けばいいんじゃねえ?」
訳知り顔かつにやけながらのカイズの言に、最初は疑問符を浮かべていたラニアもその意図に気付いたのかニヤニヤしながら「そうよ、そうしたら? 邪魔しないから」などとミリタムに勧める。ジラーは二人の真意に気付いてはいるようだが苦笑いに留めている。
さて、下心満載の提案にミリタムの回答は。
「そりゃあ、獣人が聖域に入るなんてたぶん世界初だからね。分野は違えど一研究者として、どんな作用が起きるか興味はあるよ」
頬を赤らめたり取り繕う様子もなく真顔でそんなことを言うので、からかおうとしたカイズやラニアは固まったまましばしミリタムを凝視し、数秒ののち群れる。
「ねえちょっと、どうなってるのあれ。この前ちょっといい雰囲気だったのに全然そんな素振り見せないじゃない」
「オレだって分かんねーよ。実はもうどうでも良くなってんじゃねえの? 子どもの求婚なんてそんなもんだろ」
コソコソひそひそと意見を交わし合う二人を、ミリタムは物珍しげに眺めている。
「僕、なにかヘンなこと言ったかな?」
「まあ、七歳とは思えなかったなあ」
「そうでしょう。子どもはどうしても甘く見られるからね。努力した甲斐があったよ」
「たぶんそういうことじゃないと思うぞ-」
ジラーがやんわりと否定するが聞こえていないようだ。ふふん、と誇らしげに胸を張るミリタムはさぞや自尊心が高いのだろう。自身の努力が無駄ではなかったと確信しているのかもしれない。カイズとラニアが期待しただろう答えは出てこなかったが、本人が満足しているのならそれはそれでいいのではとジラーは思う。
得意顔もそこそこに、瞼を閉じ意識を集中させるミリタム。
聖域と言えども用心のためか、白兎の一件で使用していた探知魔法で周囲を探っているようだ。今回は手のひらを広げていないので、脳内に地図を展開させているのだろう。
「今のところ、魔族はいないみたいだよ」
「魔法ってすげーよなー! 何でもできるだろっ?」
その頃にはラニアとの密談を終えていたカイズ、何事もなかったかのように目を輝かせている。あれはあれ、これはこれなのだろう。ミリタムは一瞬目を丸くするも、再び双眸を閉じ探知を続ける。
ジラーやラニアも加わり興味津々に見つめる三つの視線に気づいたのか、集中を保ちつつ答える。
「何でもって事はないよ。それにメリットがある分、デメリットもあるしね」
「デメリット?」
「うん。魔法は『楽して何でも』ってイメージがあるみたいだけど、それは大きな誤解。準魔法ならまだしも、術者は常に平常心を保ってなきゃいけないし、結構体力も消耗する。決して楽じゃないんだよ」
「へぇ~……」
ミリタムが肩をすくめて説明すると、三人揃って感嘆する。
「じゃあさ、平常心を崩されたら魔法は使えねえって事か?」
「……そうだけど?」
カイズの問いに、両眼は閉じながらも怪訝そうな表情を浮かべるミリタム。
回答を聞いたカイズとラニアはまたもや彼から離れた場所で一斉に集まり、良からぬ意見を並び立てていた。
「ちょっと白兎のところに連れてって、どさくさに紛れてキスさせてみるのはどう?」
「抱きつかれただけでも崩れるんじゃね? 意外とウブな反応しそうだし」
ミリタムの眉が僅かに動いたことにも気づかず、次から次へと妄想をし始めるラニアたち。
しかし、さすがは魔法士と言うべきか。それでも平常心は保てているらしく、至って平然としたまま忠告する。
「言い忘れてたけど、【探索】はごく近い範囲なら気配の他に動きとか声だとかも探れるんだ。悪いけど全部聞こえてるからね」
盛り上がっていた二人の顔色が一気に悪くなり、その場に重苦しい空気が流れた。
ミリタムは依然、切り株に座って【探索】を続けている。だが何時それが、殺意に変わらないとも限らない。
「や、やあねえ! ジョーダンに決まってるじゃない!」
「そ、そーそー! 本気にすんなよ!」
冷や汗を垂らしながら弁解するラニアとカイズを軽く一瞥したあと、「別にいいよ」と冷めた口調で返すミリタムだった。
「それにしても、アオイたち遅いわね。もうそろそろ帰ってきても――」
言いかけたラニアが何かに吹っ飛ばされたのは、その直後だった。
否。その場にいた全員が、何らかの力によって弾き飛ばされたのだ。
枯葉のように転がる一同に、追い打ちのように強烈な圧が襲いかかる。
「……っ……!!」
「『結界女』と『裏切り者』は離れているか。これは好都合だ」
神聖であるはずの森に満ちた瘴気と、どこからともなく響いた声。
淡い緑のローブ、両頬に古傷、尖った耳。
獣配士ヴァーストは、新しい玩具でも見つけたかのような口調でラニアらを見下ろした。




