第四話 若き銃士(2)
入念に柔軟体操を行い、深呼吸を数回。最後に胸の前で両腕を交差させ、緩やかに後方へ引きながら深く息を吐く。
準備が整った碧は積み上げられた瓦の前に立ち、腰の両側で拳を握ったまま軽く一礼する。
決していい服欲しさにやっているわけではない。頼まれると断れない側面があることは否めないが、素人でありながら憧れだけで瓦を割ろうとしたラニアに感銘を受けたことが大きい。
腰を深く落とし、意識を瓦に集中させる。
双眸を閉じて、神経を研ぎ澄ますこと数秒。波打つ心が徐々に凪いでいき、やがて無が訪れた頃。
(――今!)
「破っ!!」
漆黒の瞳を見開いたと同時、右腕を振り上げて下ろすまではまさしく刹那。けたたましい音を立て、破片を弾けさせ、五段重ねのそれは一枚残らず底まで割れた。
「……す……すごい……あなたすごいわ、アオイ!!」
碧の後ろで固唾をのんで見守っていたラニアは、歓声と共に惜しみない拍手を送る。こそばゆく感じながらラニアに視線を送って、碧は思わず仰天した。
(ラニア、泣いてる?)
頬に一筋の涙が伝っている。困惑する碧の視線に気付いたのか、ラニアは慌てて涙を拭き取った。
「ごめんなさい、あんまりにも嬉しくて。こんなに身近で瓦割りを見れる日が来るなんて、思ってもみなかったから……それに」
泣いてしまったことが照れくさいのか、微苦笑を浮かべながら弁解するラニア。その指先が、碧の胴体を指す。
「制服だってそう。図書館の資料に載ってたイメージと似てたから、まさかとは思ってたの。やっぱり実物は全然違うのね。見たかったものを二つも見られるなんて、あたしは幸せ者だわ」
(“図書館の資料に載ってた”? 制服が?)
悦に入るラニアとは裏腹に、碧の頭の中は混乱で溢れかえりそうだった。外見こそ欧米人だが、表記はローマ字、口語は日本語。日本に似た異世界かと思いきや、彼女らはどうやら間接的に日本を知っているらしいのだ。
(どういうこと? もしかしてこの世界、日本人が住んでたの? それとも、今も住んでる……?)
すぐにでも疑問をぶつけたい碧だったが、訊ねたい相手はすでに大急ぎで部屋の奥へと駆けていった後だった。戻ってきたら訊いてみよう、そう考えていた碧だが、間もなく帰ってきたラニアが抱えていたものを見て、用意していた言葉は吹き飛んでしまった。
「これ……服?」
「ええ。まあ、正確には鎧ね。昔祖父が名の通った職人から貰ったとかで、こんな立派な箱に入っちゃってるんだけど」
ラニアの細身の胴体を覆い隠してしまうほどの大きさのそれは、何重もの箱と布に覆われていて、見るからに高価そうだ。鎧、と称するからには相当に重量がありそうなものだが、か細い腕は難なく包みを支えている。
自らがしたこととあまりにも釣り合わない高級品に思えて、碧は落ち着かない。
「いいの、こんないい物貰っちゃって? あたし、瓦割っただけだよ?」
「頼んだのはあたしだし、そういう約束だったでしょ? それに、着る人もいないし捨てるのももったいないから一応取っておいただけなの。いい機会だし、あなたにあげる」
「ホントにいいの? 家族の人に相談とか、」
「いいの。あたし、もう家族いないから……」
悲しく笑って、ラニアがぽつりと漏らした。
「あ……」
(家族、いないんだ……)
彼女の口ぶりからすると、一時的な不在ではない。やむにやまれぬ事情で生き別れたか、あるいは亡くなったのか、そのどちらかだろう。ふくよかな唇こそ僅かに吊り上がっているが、伏せられた薄紅色の瞳は悲痛に揺れている。無理矢理微笑んでいるのは明らかだった。
「……じゃ、じゃあ、貰うね! ありがとう」
そんな姿を目の当たりにして厚意を無下にできるほど、碧は薄情でも挑戦者でもない。
彼女の反応を見て、影が差していたラニアの表情も柔らぐ。
「こっちこそ、ありがとう。着替えたら『AJITO2』ってトコに来て。待ってるから」
「うん、分かった」
扉が閉められると、碧は早速着替えに入った。
「……すごい……」
思わず感嘆の声が漏れる。
青を基調とした肩当て・胸当て・腰当てに、簡易的な肘当て・膝当て。
胸当てと腰当ては前後のパーツに分かれており、それぞれ両端に二カ所ずつ取り付けられている歯型の金具に輪状の金具を噛み合わせ、留め具を歯型の金具と反対方向に押し倒すことで着用が完了するようだ。
肩当ては胸当て上部に空けられた細長い穴にベルトを通し、肩当て側の留め具で留める。肘当てと膝当てはそれぞれ肘と膝の裏側にベルトを通して留める仕様。もちろん鎧の着方など知らない碧だが、それほど着用に時間はかからなかった。
特筆すべきは、それだけ身につけているのに、その場で数度飛び跳ねても支障がないほど重さを感じないこと。かなり質の良い軽鎧なのだろう。
鎧と併せて入れられていた、薄青色をした長袖の上衣と、膝下までの伸縮性と密着性を兼ね備えた黒いズボンも肌触りが良く、動きを妨げない。
「それにしてもこれ、変わった組み合わせだよね……たぶんこれスパッツなんだろうけど、なんか恥ずかしいな」
などと呟いていた、その時だった。
「――っ?!」
心肝から突き上げるような嫌な予感がした。しかしそれは、自身への警鐘ではない。
直感が碧の身体を動かし、部屋を飛び出させる。
これまで感じたことのない奇妙な感覚に戸惑いながら、先ほど別れたばかりのラニアたちの元へ走る。
(みんな……無事だよね……?!)
見えてきた『AJITO2』の文字。扉を勢いよく開け放つ。
彼女を待っていたのは、温かい笑顔でも優しい声でもなかった。
成人二人分はあろうかという高さの天井すら窮屈そうに身を屈め、それは碧を見下ろしていた。
複数の楕円体を縦に繋ぎ合わせたようなその姿。淡い緑色の身体に毒々しい斑模様がある様は芋虫のようだが、体の両端には百足のように数十本もの尖った黒い脚が生えている。
芋虫とも百足ともつかぬそれの、顔面。正面に張り付くように備わった目は細長く吊り上がっている。平たい鼻の下方、端から端まで延びる線は恐らく口であろう。薄く開いた空間の先、虫とは思えぬ「歯」らしきものが垣間見えた。
「ただの芋虫じゃあ、ないんだよね。何者?」
碧は自らの落ち着きように、内心驚いていた。明らかに人ではない化け物を前にしているのに、鉤爪男たちと相対していた時のような恐怖心は不思議と湧いてこない。
「……儂ハ、魔王様ノ配下……」
芋虫――碧はそう判断したようだ――は器用に口を開き、腹の底から響くような声で応答した。一体どんな仕組みで発声しているのか興味はあったが、それは最優先事項ではない。
「じゃあ、ここにいたみんなは?」
この部屋に飛び込んで、最初に芋虫の姿を認めた。荒らされた室内、ラニアらの姿は見当たらなかった。急襲に気づいて逃げた後なのか、それとも。
碧の問いに、芋虫はやはり器用に口を歪め、細長い目を一層細めた。あたかも嘲笑を表しているかのようだ。
「ククク……皆、儂ノ胃袋ノ中ダ。直ニ消化サレヨウ」
「ウソ?! そんなワケない! みんな、あんたみたいなのに飲まれるような人たちじゃない……はず!!」
端から見ればかなり失礼な語尾を付け加えたが、碧は大真面目だった。
いくらファンタジーな世界観とはいえ、相手は喋る虫である。その上、絵描き歌にできそうなほど単純明快な見た目をしている。そんな存在に彼らが飲み込まれたなど、到底信じられないのだ。
「仲間ニ会イタケレバ、儂ノ餌ニナルコトダナ!!」
疑いの眼差しを向ける碧に、鎌のように鋭い脚の一撃が迫る。碧はこれを、縄跳びの要領で咄嗟に跳んで避けた。一瞬前まで立っていた場所が砕かれ、骨組みが露わになる。想像以上の威力を目にして、甘く見てはいけないと気が引き締まる。
「芋虫の餌になって死んだ、なんて言われたら恥だ……。こーなったら、とことん戦ってやる!!」
芋虫は巨体を巧みにくねらせ、上下左右斜め、あらゆる角度から攻撃を仕掛けてくる。あるいは飛び、あるいは屈みながら必死に逃げる碧。その度に床や壁が叩き壊されるが、この際構っていられない。
周囲に気をとられた一瞬、視界の隅を鋭い刃先がちらついた。
「こんなものっ!!」
避けていたのでは間に合わない。そう判断した碧は「はっ!」と気合いを入れ、接近していた脚を素手で粉砕する。
思わぬ反撃だったのか、芋虫が攻撃の手を止めた。前のめっていた身体を引き上げ、興味深そうに碧を俯瞰する。
普通に過ごしていればまず遭遇することのなかったであろう「人間よりも大きな虫に見下ろされる」という状況に、思わず苦笑が零れる。
「芋虫のくせに、意外……」
(みんな、ホントに飲まれちゃったのかも……)
不意に浮かんだ悪い考えを、頭を振ることで振り払った。そして、この世界で初めて戦う異形を見上げる。それは左右に大きく裂けた口を一層延ばし、うっすらと笑みを象った。
「小娘ニシテハ、ヤリオル」
「ん……」
粘着性のある何かが身体にまとわりつく感触で、ラニアは目覚めた。微かに頭痛を来し、頭を抑えながら身を起こす。
「えと……たしか、アオイに鎧を渡して……」
「気がついたか」
聞き馴染みのある冷静な声。
そちらを見やると、腕組みをした銀髪の少年と目が合う。
「イチカ……ここは?」
「芋虫の腹の中だ」
声調も表情も変化させることなく放たれた真実を、ラニアはむしろすんなりと受け入れることができた。
否、受け入れられたのは一瞬だけだった。事実を事実と認識した瞬間、美しい容貌が一気に絶望に染まる。
「芋虫……思い出した! イヤだわ、あんなヘンなヤツに飲み込まれるなんて、不覚っ!!」
「……寝てなきゃ気づいたんだがな」
狂ったように喚きながら頭を振り回すラニアを見て、イチカが遠い目でぼやく。温度差はあるものの、二人の感情を無理矢理まとめれば「屈辱」が最も近いだろう。
「姉さーん!!」
カイズとジラーが、こちらに向かって手を振っている。最低最悪な状況下だというのに、全く緊張感がない。そんな二人に脱力しないではなかったが、それ以上にラニアは安堵した。
「よかった、あの子たちも無事なのね」
生きて会話ができるのであれば、ひとまず“無事”と言って差し支えないだろう。
ラニアは呆れた様子で二人を眺めていたが、不意に引っ掛かりを覚えた。何かを忘れている気がして、芋虫の臓腑に入る前の記憶を呼び起こす。
ずっと憧れていた日本、その世界から来たと思しき少女。
「……アオイ……アオイは!? アオイはどうしたの!?」
「そのことなんだがな、ラニア」
赤黒く光沢を放つ空間を見回す合間、冷たく眇められる銀色の瞳と視線が交わる。
「なんでここにいる」
主部がないその問いには、明らかな軽蔑と拒絶の意思が込められていた。意図的に削られた主語と否定的な感情は、日本から来た少女に向けられている。
それらを悟ったラニアは、突き刺すような空気に怯みはしたものの、それ以上に辟易としながら答える。
「……あのねぇ。ここはアジトである前にあたしの家なの。あたしの家に誰を連れて来ようが、あなたに文句を言う権利ないと思うけど?」
ラニアの嫌みたっぷりな正論を聞いたイチカは、不機嫌さはそのままに、ふいとそっぽを向いてだんまりを決め込む。
まったく、と溜息を吐きつつラニアは何気なく内壁へと目をやった。虫とは思えぬ、人間と同じような身体のつくり。見つめ続けているうちに、生々しい内臓の肉感や色素が消えていく。
思わず食い入るように肉壁に手をやったラニアが見たのは、見慣れた室内の風景と、その中を走り回る異世界の少女の姿。
「あ、アオイ?!」
この芋虫が振るっているであろう硬質そうな手足を必死に避け、あまりにも間近に迫っていれば鋭い拳と足技の一撃で粉砕している。
碧がこの家にいることをイチカが知っていたのは、この仕組みで外の様子を目の当たりにしたからだろう。
今のところ負傷はしていないようだが、いつ流血してもおかしくはない不利な状況。それでも一人異形と戦う姿にラニアは胸を痛めた。
この分だと芋虫も相当激しく動き回っているはずだが、体内にいるラニアたちにその衝撃は全くと言っていいほど伝わってこない。
内臓から外の景色が見える構造と相まって、分からないことだらけだが――戦闘慣れしていないであろう少女が、懸命に戦ってくれていること。そして、彼女が今の自分たちにとってたった一つの希望であるということだけは、ラニアにも理解できた。
(アオイの頑張りに、応えなきゃ!)
決意を胸に立ち上がり、ラニアは歩き出す。
腰のベルトから銃を取り出し、至る所を無心で撃ちまくるその姿は、なかなかに迫力がある。
銃弾は肉壁にめり込んでは落ち、金属の塊と成り果てる。それでもラニアはめげずに発砲し続けた。銃声が虚しく内部に木霊する。
「何をしている。無意味だぞ」
未だ座り込んだまま、半ば呆れを含んだ口調でイチカが投げかけると、聞き捨てならないと言わんばかりに彼を睨み据えるラニア。
「なんでそんなこと分かるのよ」
「お前たちが気を失っている間にやれることは試した」
すでに諦めの境地に達しているらしい彼をもう一度睥睨すると、ラニアは再び前を向く。
「後は死ぬのを待つだけって? 冗談じゃないわ。原因を探さないと」
「原因?」
「ええ。何かの本に載ってたんだけど、コイツは四百年ぐらい前に滅びた、『セルフィトラビス』っていう芋虫みたいな魔物なのよ。それが今、ここにいるってことは……」
「一旦滅びた生き物が何らかの理由で生き返ったということか」
「そーゆーことよ……っの、びくともしないわね!!」
「で、その原因とやらをそんな闇雲に探って見つかるのか?」
「可能性を信じるのよ! アオイが外で頑張ってるんだから、あたし達も頑張らないと!」
複数形で助力を求めるが、分かっているのかいないのか、イチカが動く気配はない。
ラニアを見習い、カイズとジラーも自らの武器であちこちを攻撃し始めるが、芋虫の皮膚は弾力性が高く、あらゆる攻撃を跳ね返してしまう。その上潤滑油のような粘液が軌道をそらし、傷一つつけられない。
ラニアは一人、上方――口腔を目指す。
粘液に足を取られ何度も滑り落ちながらも、ようやく喉の辺りまで登り切った。
口元であろう光の差し込む隙間付近を狙い撃つが、防壁のようにそびえ立つ歯に阻まれ弾き返される。
「あれは……?」
それでも諦めず辺りを見回して、何かを見つけた。
口腔の上方、不自然な腫れ物。その部分に向かって、慎重に照準を合わせる。
(絶対になにか、ある!)
「ドウシタ小娘。息ガ上ガッテオルゾ?」
「い、芋虫なんかに……!」
先ほどとは打って変わって、碧は防戦を強いられていた。
初めこそ避けきれなければ力任せに叩き割ってきたが、何度も破砕しているうちに限界が来たらしい。手足に激痛が走った。赤く腫れ上がり、所々出血も見受けられる。これ以上無理を重ねれば治療すら危うくなるだろう。反撃の手段は潰えた。
相手の方はまだまだ余力があるらしく、数十本もの手脚を容赦なく振り回してくる。軌道を読んで勘でなんとか回避するものの、その頃には次の攻撃が迫っている。そうして逃げ回っているうちに、疲労も溜まっていく。
「諦メロ。オ前ノ仲間タチモ無駄ナ足掻キヲシテイルラシイガ……一度儂ノ胃ノ腑ニ入リ再ビ外界ノ空気ヲ吸ッタ者ハオラヌ」
肩で息をする碧を憐れむように、淡泊な目元と口が凶悪に歪む。
「直に消化される」という言葉が本当であれば、時間がない。しかし、負傷して使い物にならない手足では、攻撃もままならない。周囲に武器になりそうな物もない。碧にできることと言えば、奥歯を噛み締めて目の前の異形を睨み上げるくらいのものだった。
(みんなの命がかかってるのに……!)
「グゥ……ッ!?」
変化は唐突に訪れた。
余裕の笑みを浮かべていた芋虫が、突如呻き声を上げ苦しみ出したのだ。
訝しげに見上げていた碧は目を疑う。芋虫の額が、淡く紫色に輝いている。何度も瞬きをしてその一点を見つめるが、見間違いではないようだ。
「グッ……! オ、オノレ、人間ガァッ……!!!」
そうしている間にも芋虫は忌々しげに身を捩り、自らの脚で己の身体を攻撃し始める。今ひとつ状況が掴めていない碧だったが、この好機を利用しない手はない。
痛む足に鞭を打ち、助走をつけて跳躍した。
苦痛に喘ぐ芋虫の顔、真正面へ。
「光ったら大抵弱点なんだよねっ!!」
「ヌォッ?! シマッ……」
間の抜けた顔面上部、殴りかかる勢いで指を差し込む。
生温い肉の感触に嫌悪感を覚えるが、小さく固い何かが指に当たり、意識がそちらに逸れる。手早くそれを掴み、勢いよく引き抜いた。
「取った!!」
碧の手を追いかけるように、どす黒い血が噴き出す。
床に降り立ち、掴んだ物を観察する。血に塗れて分かりづらくはあるが、それは確かに瑠璃色の輝きを放つ五角形の小さな石だった。
「バカナ……! 儂ノ……命ノ源ヲ……ォォ……!」
焦燥したような表情を浮かべる芋虫の皮膚に、一筋、干上がった地面のようなヒビが入る。裂け目は一カ所を皮切りに網目のように広がり、際限なく刻まれてゆく。魔物を形作っていた肉と皮は、砂のごとく細やかな粒子となって断末魔とともに流れ落ちていく。
後に残されたのは、本物の芋虫には決してあり得ない、大型動物のような骨格。その骨もやがて支えを失い、音を立てながら地面を覆い尽くす。
勝ったのだ。それを実感した途端、全身から力が抜ける。
そのまま地面に座り込み、呆然と骨の山を見つめていた碧はふと我に返る。
「みんなは……!?」
再び胸中を襲った緊迫感と不安に後押しされるように、碧は芋虫の残骸へと駆け寄った。