第二十九話 陽気な婚約者(2)
「本当にごめんなさい……」
「君が謝ることはないよ」
ようやく落ち着きと正気を取り戻したラニアは、物陰から遠目にこちらを見つめる仲間たちの様子と、壁や家具にめり込んだ複数の弾丸を認め、自らの暴走を悟ったらしい。
肩を落とすラニアの後ろから、レイトがそっと両腕を伸ばし彼女を抱き寄せる。
彼なりの慰めなのだろうが、少なくとも今のラニアには逆効果のようで。
「あんたに言ってるんじゃないわよ! アオイたちに言ってるの!」
震える両手を強く握りしめ怒声を浴びせたかと思うと、自らの鎖骨の上で組まれた手を無理矢理引き剥がす。
「い、いいよ。ちょっとビックリするけど、当たらないようにしてくれれば大丈夫だし」
碧はこれ以上苛立ちを増幅させないよう下手に、しかし言外に自制を要求する。そうでなければ死に物狂いで避けるしかないのだから、当然といえば当然の要望とも言える。
思えばリヴェルに来てからというもの、ラニアは怒鳴ってばかりであった。匂い立つ大人の女性然とした姿はそこにはなく、年相応に恥じらい癇癪を起こす普通の少女がいるだけだ。
見た目は成熟していても、中身は十五の子ども。現実を目の当たりにしてほっとしたような、少し幻滅したような碧である。
(すごい、笑顔のままだ。懐広いなぁ)
他方、ラニアが過剰に恥ずかしがらなければ乱射事故も起こらなかったわけで、理不尽とも言える怒りをぶつけられているレイトだが、その反応は言わずもがな。
レイトが何をするにも照れ隠しに怒り狂うラニアと、ラニアが何をしても微笑みを絶やさないレイト。意外にも好相性なのかもしれない。
「ん? なんか一人足りないんじゃないか?」
室内を見渡し小首を傾げたのはジラーである。
「白兎じゃない? 兎族の里でも逃げてたし」
ラニアが一発目を発射した直後、部屋の奥から猛スピードでリビングを横切っていく白い影を、見る者は見ていた。
そのうちの一人――碧の言うとおり、先ほどまで白兎が座っていたはずのダイニングチェアはひっくり返っており、獣人の姿はどこにも見当たらない。
「やっぱり悪いことしちゃったわね……」
秀麗な表情が再び暗く沈む。
「探しに行こう! そんなに時間経ってないし、どっちかっていうとこの町の人たちが心配だし」
銃声で我を忘れている今、人々を傷つけるかもしれない。そうでなくとも、滅多にお目にかかれない獣人を見て色めき立つ人間がいても不思議ではない。どちらにしても人間嫌いな白兎のこと、敵意や害意を感じ取れば問答無用で襲いかかるだろう。最悪、人と兎族の間に再び大きな禍根を残すかもしれない。
「そうね!」
碧とラニアは神妙な面持ちで視線を合わせ、足早にその場を後にした。
退屈しのぎにと間もなくカイズとジラーも身支度を始め、イチカに宣言する。
「兄貴! オレら外で修行してるぜ!」
「日々鍛錬、って言うし!」
「ああ」
慌ただしく扉が閉まる音がして、訪れる静寂。
レイトは四人が出ていった玄関から、たった一人残ったイチカに目を向ける。
「それで? 君たちはいつまで、ここにいられるんだい?」
「長く留まるつもりはない。明日にでも出発する」
修行のメニューを考えているのか、何事か話し合っている様子が窺える。
イチカはレイトとは逆方向の窓から、そんな弟分たちを眺めながら答えた。
「ふぅん。先を急いでるみたいだね?」
心なしか不満げな声だ。せっかく訪ねてきた婚約者が一日しか側にいないのだから、彼の反応はごく正常なものだろう。
イチカは多少罪悪感を覚えないではなかったが、当のラニアが自分たちと行動することを選んだのだから仕方がない。
「面倒ごとはさっさと済ませたいだけだ」
「面倒ごと、ねぇ。それがラニアの言ってた「女の子のお願いでアオイちゃんを護ることになった」ってやつかい?」
僕なら大歓迎だけどねぇ、と屈託なく笑うレイト。女好きな彼のこと、他人事ではなく本心であろう。イチカには到底理解し得ない。一瞥を投げ、レイトから視線を逸らす。
イチカは彼が苦手だ。自身が笑わないから、ということもあるのだが、初対面の時から本能的に「合わない」と感じていた。性格はまるで正反対な上、相容れない価値観。さらに、いつも似たような表情しかしないため、何を考えているのか計りかねるきらいがある。
もっとも、イチカも人のことを言えた義理ではない。
「兄貴ー、修行に付き合ってくれねーか?」
「師匠、お願いします!!」
弟分たちの呼び声が玄関から響く。
普段は沈黙など気にならないどころか心地良くさえ感じるイチカだが、レイトといるときばかりはそうもいかない。イチカにとってはあまり二人きりになりたくない相手なのだ。苦手意識を持っていることが前提条件にあるのは確かだが、非常に居心地が悪い。何か理由がなければ同じ空間にいたくない、と願うほどには。
だからイチカは、無意識のうちにカイズたちに感謝していた。
「分かった。今行く」
「あー、イチカ?」
「……なんだ」
あと少しで部屋から出られる絶妙な瞬間に呼び止められ、内心面倒くさく感じながら振り返る。
呼び止めた方は多少眉を下げつつも、笑みを維持したまま組んだ両手に顎を乗せて。
「そう煙たがらなくても、僕は君を取って喰う気はさらさらないよ?」
女の子にならそうするけど、という冗談はイチカの耳に届かなかった。頑丈に封をして鍵を掛けているはずの心の内を、見破られたのだ。額から滑り落ちた一筋の汗が目に入っても、瞼すら暫く動かせないでいた。
「……別に、煙たがっているわけじゃない」
やっとの思いで吐き出すように言うと、急に身体が軽くなった。好機とばかりに早足でその場を去る。
言い逃げのようで嫌気が差したが、そんなことはどうでもよかった。
ただ、妙に気詰まりするその空間からいなくなりたかった。
「すまない。遅くなった」
外に出てすぐ、イチカはカイズとジラーに頭を下げた。
兄貴分の思いがけない言動に二人は目を丸くし、手を上下左右に振り慌てふためく。
「あ、兄貴が謝ることはねーよ! オレらが勝手に呼んだんだから!」
「そうそう! それに師匠、あそこから出たそうだったし……」
心の内を見透かし、それでいて反応を窺うようなジラーの視線に、僅かに驚嘆するイチカ。少しだけ見開かれた切れ長の瞳が否定的に映ったのか、カイズがジラーを押し退けて補足する。
「あ、えーと、“出たそう”ってオレらの独断だから、間違ってたらごめん!」
「いや。修行始めるぞ」
微笑むことは無かったが、頼もしい仲間を持ったものだと感慨深いイチカであった。
一方。碧とラニアは、思いのほかすぐに白兎を見つけ出していた。
それも、全く予期しない形で。
「なんだーコイツ。動物かな?」
「おもしれー。ブルブルしてる」
「もっといじめてやろーぜ」
リヴェルの居住区中心部にある民家の隅でうずくまる、白い後ろ姿。
怯えた小動物さながら震えている様に嗜虐心をくすぐられたらしい。三人の悪ガキたちに木の棒でつつかれているのは、紛れもなく白兎であった。長い耳を折りたたむように両手で抑え付け、胸に付きそうなほど頭を下げているため、碧たちからは毛皮の一張羅と背中の一部しか見えない。そのせいか、子どもたちには新種の動物に見えているらしい。
銃声の効果は抜群のようで、あれからそれなりに時間は経っているにもかかわらず恐怖心が持続しているらしい。今すぐ豹変して人間を襲うようなことはなさそうだ。しかし、そのまま放っておいていいわけでもない。今のこの状況、あまりにも白兎が惨めである。
「ね、ねえ君たち、止めてくれないかな?」
意を決してラニアが声をかけると、案の定悪ガキたちは不服そうだ。
「えーなんでー?」
「これ、ねーちゃんたちの?」
問われて一瞬目を見合わせるラニアと碧。所有物ではないが、全く無関係というわけでもない。
「だって、かわいそうじゃない?」
「バカだな。かわいそうだからいじめ甲斐があるんだろ。部外者はすっこんでろよ」
碧の促しに二人の子どもは納得しかけたが、ガキ大将らしき一人が食ってかかる。完全なるいじめっ子の主張である。つっけんどんな物言いに碧もついついカチンとくる。
「あのねぇっ! もし自分の兄弟がいじめられてたら許せるの?! あなたがこの子をいじめてるって知ったら、お父さんやお母さんどう思う?」
「いねーよ」
矢継ぎ早な詰問と同じくらいの速さで即答され、碧とラニアは思わず聞き返す。
「え?」
「兄弟は元々いねーし、父さんも母さんも随分前に死んで顔も覚えてねえ。だから父さんや母さんがどう思うかなんて分かんねえよ。教えてくれる大人もいねーしな」
「そうだ。だからずっと、三人で頑張ってきた」
「誰も助けてくれないから……」
ガキ大将の言葉に同調するように、後方の二人が項垂れる。どうやら彼らは皆孤児のようだ。年端もいかない子どもたち同士で助け合い、これまで生活してきたのだろう。
現代日本ではまず出会うことのない状況に暫し言葉を失う碧だったが。
「じゃあ、兄弟みたいなものじゃない」
碧の投げかけに、初めてガキ大将がまごつく気配。後ろの二人もやや困惑した様子で、互いの顔を見合わせている。
「そうかもしれねーけど、血も繋がってないし」
「血の繋がりは関係ないよ。三人の中の誰かがいじめられてたら、どう思う?」
「……ふざけんなって思う」
碧の欲していた答えより多少攻撃的ではあるが、意図は伝わる。
「そうだよね。嫌な気持ちになるでしょ? 自分がされて嫌なことは、他の人にもしちゃいけないんだよ」
三人は少しだけばつが悪そうにそれぞれの顔を見比べ、揃って「ごめんなさい」と謝った。
他方、彼らより少し年上の碧はそれを見て少なからず罪悪感を抱く。言うは易く行うは難し。碧自身、それを実践できていると胸を張って言えるかと問われれば怪しい。彼女とてまだ中学生なのだから。
「じゃあ、お姉ちゃんたちもそいつと兄弟みたいな感じなの?」
当然と言えば当然の質問に、碧もラニアも言葉に詰まる。人間の彼女らと、(子どもたちからすれば)人間なのか動物なのか得体の知れない生き物。興味津々な視線から逃れるわけにもいかず、碧が必死に頭をフル回転させていると。
「兄弟ではないし、あなたたちみたいに仲が良いわけでもないけど……同じ目的を持った仲間だから、助けたいのよ」
絶妙なタイミングで出された助け船に顔を上げれば、ラニアがこちらに気づき片目を瞑っている。今の説明が最も事実に即しているし的確だ。三人も異議なしのようで、得心のいった顔をしていた。
「さあ白兎、帰りましょ。さっきはごめんなさいね」
ラニアが優しく声をかけると、返事はないものの大人しく立ち上がる白兎。その姿を見て驚くでもなく「なんだ~~人間か」と落胆する悪ガキたち。彼らには獣人の概念もまたないらしく、耳や尻尾は飾りだと思ったようだ。
「クソッ。だから人間のガキは嫌いなんだッ」
人里から離れるにつれて調子が戻ってきたのか、まだ若干涙ぐみながらも悪態をついている。そんな白兎に呆れた眼差しを送る碧とラニア。
中心部から遠のけば遠のくほど人家は疎らになり、隣の家まで数十分かかることも珍しくない。程なくして漂ってきた芳しい匂いは、まず間違いなくレイト宅からのものだ。彼の家は最も自然区に近く、周囲に家々もない。
夕日色に照らされた石壁の側面、突出した煙突から煙が上がっている。
「ラニアがたくさん友達を連れてきたから、腕によりを掛けて僕が作ってみたよ」
女性にだらしないレイトではあるが、何も四六時中ナンパに精を出しているわけではない。自炊はお手の物で、しばしば料理人顔負けのメニューを作ってしまうこともある。
晩餐会のような料理の数々にわぁっと歓声を上げる仲間たちとは裏腹に、イチカは素直に喜べないでいた。碧と白兎以外はレイトもよく知っている顔ぶれなのに、わざとらしい言い回しがどうしても鼻につく。
きっと悪気はない。
そう言い聞かせてみても、一旦走り出した猜疑心は止まらない。
イチカは過去のこともあり、あまり他人を信じられない性分なのだ。巫女の森での一件然り、今回然り、ついつい邪推してしまう。
口にさえ出さなければ、大抵読み取られることはないのだが――
「イチカ~~、そんなに警戒しなくてもいいって。僕は料理に毒を入れるような性格してないから」
僅かに見開かれた切れ長の瞳を見て、得意気に微笑むレイト。
「図星、みたいだね。そういうわけだから、安心して食べてくれ」
(なに考えてるのか分かるの(か)?!)
人間業とは思えぬ特技を目の当たりにして、イチカとレイト以外は心の声が見事に一致するほど度肝を抜かれた。
一方のイチカはやはり何某かの抵抗があるのか、俯いたまま食事に手を付けようとはしない。
しかし、方々からの突き刺すような視線を感じさすがに居たたまれなくなったのだろう。仲間の薦めもあって、少しずつ食べ始めたのだった。
「レイトさん、ってさあ」
雑談を交えた夕食後。碧とラニアは外の草地に寝転んで、小さいながらも光り輝く星々を眺めていた。
どちらからも言葉を発することのない、静かな夜。
十数分経った頃、碧が思い出したように口を開く。
「すごいよね。あのイチカが考えてること、全部分かってるみたい」
「あいつね、昔からああよ。父さんや母さんの考えてること、全部当てちゃってた。なんでそんなに分かるのって聞いたら、“顔を見れば分かるよ”だって。普通分かんないわよねー」
空に浮かぶ無数の光をぼんやり映しながら、苦笑混じりに話すラニア。
ふと、その苦笑が止んで。
「あそこまで正確に、思ってること当てられると……スゴイを通り越して、怖い、って思えてくるのよね」
「……そっか」
ラニアの表情は複雑だった。恐怖に強ばっているわけでもなく、不安に苛まれているわけでもなく。一言で言い表せば『困惑』が近いだろうか。
全てを受け入れられるなら、それに越したことはない。
しかし、親子や友人関係でさえ、嫌なところが目に付くのだ。恋人同士であっても、理解しがたいことは生じうる。
なんとなく気まずくなった空気を明るくしようと、碧が身を乗り出す。
「でもさ、それでもラニアはレイトさんのこと好きなんでしょ?」
ラニアの頬が、暗闇でもよく分かるほど一瞬にして朱に染まる。
「まあ、慣れちゃったからね」
「きゃ~~! いいなぁいいなぁ! 美男美女でお似合いだし、羨ましいー!」
「~~あ、アオイはどうなの? 日本に好きな人とかいなかったの?」
「ん? 全然! それより、ラニアの結婚式楽しみだな~! ねえアスラントの結婚式ってどんな感じ? 何歳から結婚できるの? ここにいられる間にお祝いしたいんだけど――」
ラニアはなんとかして話を逸らそうと思ったようだが、碧の妄想はかえってエスカレートしてしまったようである。
「二人の赤ちゃん可愛いんだろうなぁ~~!」
「アオイーーっ!!」
止まない妄想に(恥ずかしさのあまり)耐えられなくなったラニアの、よく通る叫び声が夜空に長く響き渡った。
リビングの窓際から少女らを見守っていたレイトは、部屋の後方にある階段を振り返った。階段の軋む音がしたからだ。
「……うるさい」
うんざりとした口調でぼやきながら降りてきたのはイチカである。いつも通りの表情からして寝起きではなさそうだ。読書していたがあまりの煩さに嫌気が差した、とその仏頂面は物語る。一言注意するつもりで部屋から出てきたのだろう。
「そうかい? あれくらいの年の女の子なら普通じゃないかな」
イチカとて騒ぐことを否定しているわけではない。時と場合を考えろと言いたいのだ。真夜中というわけでもないが、世間はそろそろ就寝する時間。いくら人里離れた家であろうが、すでに床に就いている者がいる以上、節度は守ってもらわなければ。
そう。カイズとジラー、それに白兎はもう夢の中である。よほど熟睡しているのか、起きてくる気配もない。ゆえに、イチカ一人がやたらと神経質であるかのような構図となっている。
「アオイちゃん、可愛いねえ」
返事がなくてもお構いなしなのか、レイトの方は自由奔放に喋り出す。
独り言だと解釈したのか、興味がないのか、あるいはそのどちらもか。イチカは黙したままである。
ただ、自らとあまりにも感覚的なズレがある青年を前にして、碧たちに対する苛立ちが昇華してしまったらしい。玄関に向かいかけていた身体は回れ右、たった今降りたばかりの階段に足をかけようとして。
「拒絶、か。でも本当にそれが、君の本心なのかな?」
奥歯に物が挟まったような問いの意図が読めない。その上、どことなく試すような口調が一層癪に障る。
「何が言いたい」
「別に?」
棘を纏った声色で訊ねるイチカに対し、あっけらかんと答えるレイト。どうやらただの好奇心から出た言葉だったらしい。
「それなら話しかけるな」とぶつぶつ文句を垂れながら、階段を昇り始めるイチカ。彼の要求通りレイトがそれ以上喋ることもなく、互いの距離は開いていく。
夜間ということに気付いて抑えたのか、建物の外から微かに聞こえる話し声は許容範囲の声量になっていた。イチカにとっては唯一の幸運だ。もう少しだけ読み進めてから寝るか――そんなことを考える傍ら、不意に浮かんだ懸案が足を止める。
踊り場まであと三段。
何故今このタイミングでそれが浮かんだのか、イチカにもさっぱり分からない。
何も閃かなかったことにして寝室に戻ることもできたが、少々の面倒よりもお節介が勝った。
「……おい」
「なんだい?」
ぼそり、という擬音がぴったりな呼びかけは、どこか不機嫌そうだ。
階下にはレイトしかいないから必然的に彼しか応える者はないが、他に複数人いれば誰に向けられているのかさえ分からなかっただろう。
「ラニアを裏切るような真似はするなよ」
「僕が彼女を裏切るとでも?」
不機嫌さはそのままに釘を刺すイチカに、速攻で訊ね返すレイト。
そこは「裏切るはずがないだろう」とかではないのか。そんな曖昧な返答で納得すると思うのか。そもそも、妙齢の女性と見れば片っ端から声をかける時点で信用ならない。と無言の背中は語る。
イチカが醸し出す数々の疑念を瞬時に察したレイトは、軽く嘆息して。
「誠意を欠いていたね。分かった、絶対にラニアを裏切らない。約束するよ」
普段のおちゃらけた調子ではない、真面目な声音。
イチカは何も言わないが、不信感で溢れかえっていたオーラは幾分か落ち着いたように見える。
「その無言は「承諾」っていう意味で取っておくよ。それよりもイチカ、ラニアはぼ・く・の婚約者だからね?」
まさか僕から取ろうって言うんじゃないだろうねと、敵意のこもった笑顔を向けるレイト。イチカは振り返ることなく鼻を鳴らす。
「そんなんじゃない。あいつはおれの仲間で、それ以上でもそれ以下でもない。おれはただ、あいつがどこかのへらへらした野郎に裏切られないか心配でならないだけだ」
「それはそれは。心配性だねえ、君は」
無論、“へらへらした野郎”とはレイトのことであるが、当の本人は特に気を悪くした様子もない。称したとおりの軽薄な笑みを横目で見やり、イチカは小さく息を吐く。
やはり、反りが合わない。
「先に寝る」
それだけ告げると、今度こそ上階へ向かう。
この家はかつて宿を兼ねていたが、高齢となった宿主が身体的負担を理由に経営を止めて里に下りたため、数年前から無人となっていた。それをレイトが買い取ったのだ。
客室の三分の一ほどは来客用としてまめに清掃しているため、今回のように突然の訪問者があってもまず困ることはない。
「おやすみ、イチカ」
声を掛けて見送るが、当然のように返事はない。階段の軋む音が遠のいていく。
レイトは溜息を一つ零し、窓を開ける。夜風と共に入り込んでくる年若い少女たちの声。
微笑ましくはあるが、時間も時間である。未だ盛り上がっている碧たちへ向けて、家の中へ入るよう促すのだった。




