最終話 Beautiful World(1)
朝日が顔を出し始める。
陽光に照らされて、自然と瞼が開く。
寝台の上で軽く伸びをしてから、身支度を整える。今日は週に一度の特別な日なので、普段着ではなく巫女服だ。もう何度となく袖を通しているのに、その着物を前にすると常に身が引き締まる思いがする。
『仕事』の傍ら、『巫女』としても活動していくことになった。二足のわらじという後ろめたさはあるものの、これが神様に仕えるということかと思うと未だに緊張する碧である。
着替えを済ませて階下へ降りる途中、甘い香りが漂ってきた。下宿先の主人が仕込みをしているのだ。早起きが得意な碧でも彼女には敵わない。もっとも、この町の人々は大抵朝が早いのだが。
「おはようございます!」
厨房内を動き回る褐色の肌の女性が振り向く。この菓子屋を営む店主である。
「おはよう。毎回精が出るね」
「一応、巫女ですから」
胸を張ってみせると、「一応だなんてとんでもない。立派な巫女様だよ」と効果音が聞こえそうな黄金比の笑顔に殺し文句を添えられる。
「昼食作っておいたから、向こうでお食べ」
「いつもありがとうございます、シェスタさん」
行ってきます、と忙しい背中に声をかけると、手を振り返してくれる。これもいつもの光景だ。
自営業が多いこの町では、早朝からあちらこちらで店開きの準備の音が響いている。飲食店の馥郁たる香りも漂うその中を、中央の広場に向かって歩いて行く。王国から来た行商の馬車に同乗させてもらうためだ。同じ行き先の馬車は昼にも出るが、朝一番に乗らないとその日のうちに帰れない。
目的地へと出発した馬車の車内で包みを開くと、柔らかい生地の間に卵サラダが挟まれた小ぶりのパンが二つ入っていた。具材は日替わりでどれも美味しいのだが、これは格別なのだ。昼が待ち遠しくて思わず顔が綻んだ。
それから三時間ほどで、馬車は停車。二年半前には僅かしかなかった畑がそこかしこに広がっている。作付けは順調なようだ。最近は暴漢による痛ましい事件も少なくなってきたという。
レイリーンライセル。かつて貧巷と呼ばれた町は、畑作という可能性を武器に再起しようとしている。
二年半前、災禍に呑まれたこの町でも多くの犠牲者が出た。ただでさえ人口減少が続く中、町の存続すら危ぶまれた。窮地を救ったのは意外なことに、大国暮らしに疲れ移住してきた人々だった。特に移住者の多かったサモナージ帝国は元々管理社会だったが、最近は一段と締め付けが厳しくなり、耐えかねて亡命する一般庶民が後を絶たないそうだ。
帝国民の特権であった『全ての魔法の使用許可』というステータスは剥奪されてしまっているものの、日常生活を便利にする準魔法を扱える利点は大きい。彼らに一役買ってもらい、元々農耕用に開発された神術も活用しながら、畑地を増やしていった。時折レクターン王国からミシェルを初めとした王国騎士の面々が応援にやってくることもあり、バックアップも充実。かつて暗い顔で路上に座り込んでいた人々は皆、栄養状態も良く生き生きとしている。
「巫女さま、こんにちはー!」
「こんにちは」
若い世代の移住者が増えたことで、数年前にはいなかった子どもの姿も見かけるようになった。朝から元気に走り回っている。思わず顔がほころんだ。
町の入り口からさらに一時間ほど歩いて、ようやく目的地に辿り着いた。海を臨む広大な草原の際――ひっそりと存在する小さな聖域。この地に『傾陽』と名付け、治めることに決めたのは仕事が一段落した頃。日本を思い出してなんとなく感傷的になっていたときに付けた名前だったが、それにちなんだ奇跡が起こっている。
「今日は会えるかな」
一人呟いてから、胸の高さほどの石柱を覗き込む。
この石柱の上半分は窪んでいて、雨水が溜まるようになっている。
【――た? きた? 映った?】
あれ、と思う。成功したようだが、聞こえてきたのは想定よりも年若い声だ。水面の向こうでなにやら慌ただしく行き来している。
と思ったら、見覚えのある顔が覗き込んできて。
【碧ーー!!】
「明海?!」
【ほら佐保も来なっ!】
【碧ちゃん……!!】
「佐保ぉ……!」
水鏡を挟んでしばし感動の再会である。
勝ち気なつり目と癖毛の明海。おっとり顔の佐保。忘れもしない親友たちの面影はそのままに、あの頃より少し大人びた容姿と見慣れない制服。感慨深さと同時に多少の寂しさも禁じ得ない。
【きよ子さんに聞いてさ、もうその日から暇さえあれば碧チャレンジだったよね】
【そうねぇ。今日繋がったのは本当に偶然だったわ】
碧が当初想定していた人物――きよ子が遅れて顔を見せる。
それはちょうど、今日のように風のない澄んだ空気の日のことだった。
何故そうしようと思ったのかは分からない。雨水を湛えた石柱に向かって、なんとはなしに呼びかけたのだ。
「お母さん」
初めは確かに自身が映っていたはずが、やがて自分によく似た、けれども違う人の顔に変化した。驚いて思わず身を退いたのに、水面の人影はぶれることなく映像のように浮かんでいた。
【碧なの?】
ひどく懐かしい声が響いた。反射的に駆け寄って、今一度水鏡を凝視する。幼い頃からずっと側にあった母の顔だった。
「うそ、なんで? 夢?」
とても信じられなくて、それでも目頭は熱くなって、溢れ出た涙は止められない。
【お母さんも夢みたいよ。洗い桶を見てたら急に娘の顔が映るんだもの】
日常を彷彿とさせる母の言葉が、揺らめく碧の心に少しずつ平穏をもたらしてくれる。
「洗い物してたの?」
【そうよ。主婦に休みはないんだから】
それからしばらく他愛のない話をして、この二年間の出来事を聞いた。
明海も佐保も無事志望校に合格したこと。二人とも定期的に遊びに来てくれること。父は相変わらず単身赴任で戻ってこられないが、二人のおかげで楽しく過ごせていること。
碧のことは、「海外にいる父方の祖父母の勧めで急きょ不定期留学することになった」と母校の傾陽中学校に伝えてあるらしい。あまりに荒唐無稽な話で、学校側からきよ子自身の精神疾患や虐待や事件性を疑われたようだが、くだんの祖父母の協力もあって事なきを得たそうだ。ちなみに祖父母は今も昔も日本在住である。
「そうなんだ……」
【碧は? イチカ君に伝えたの?】
速攻で痛いところを突いてくる。きよ子はあまり回りくどい言い方をしないから、やはり夢ではないのだと確信できるのだが。
「ま、まだなにも」
二年もあったのにこの体たらく、呆れられても無理はない。何一つ進展しなかったかと問われれば辛うじて否だが、かといって自慢できるようなことは何も起きていない。
情けなさに冷や汗を滴らせていると、水鏡の向こうできよ子がふふっと微笑んだ。
【お父さんそっくりね】
「そうなの?」
【付き合ってた頃にね。なかなかプロポーズしてくれなくて。こっちはいつでもお嫁に行けるからどんとこい! って思ってるのに、随分慎重になってたみたいで。後から聞いたら臆病風に吹かれてたのもあったみたい。最終的にお母さんが焦れて半分逆プロポーズみたいな感じでもらってもらったけど】
母強しである。碧もまた、あまり自己主張をしない控えめな父だったと記憶している。
【だからって、強引になれとは言わないわ。お母さんとは状況が違うだろうし、碧なりに考えがあるんでしょう】
「ん。今のままでいいかなって」
言ってから、慌てて訂正する。
「諦めたワケじゃないよ?! 今もやっぱり、好きだし。ただ……焦りたくないなって。ちょっとずつ心を開いてくれるのが分かって、それが嬉しくて。だから、一日一日を大切にしたいっていうか」
【いいじゃない。青春は短いんだから、大事にしなさい】
「うん」
結局その日は、風が吹いて水面が波立った瞬間に会話できなくなってしまった。
その後も何度か試してはいるが、海に面した聖域ということもあり凪いだ日はなかなかない。今日が久しぶりの『交信』となる。
【てか碧、ガチでその格好なんだ】
【三ヶ月ぶりに会ったときみたいね】
「こっちでの制服みたいなものだからね」
指摘されたので両腕を広げてみせるが、少し気恥ずかしい碧。取り乱していたあの時とは違うデザインとはいえ、日本の一般的な巫女服よりもやや派手な見た目なのだ。四百年前の和風巫女服に現代の洋風巫女服を合わせているため、いわゆる『コスプレ衣装』に近い。
【いいじゃない。良く似合ってる】
元巫女であるきよ子からの太鼓判。世代は違うが心強い。
「ありがと」
【それ、例の彼の前でも着てんの?】
“例の彼”とは言わずもがなイチカのことだろう。明海の変化球にたじろぎながら言葉を探す。
「ん、まあ、着たり着なかったり……かな。ここに来るときぐらいしか着ないし」
【えーもったいな。ずっと着てればいいじゃん】
可愛いんだし、と明海は言うが、それで上手くいくならずっと昔にケリはついている。
イチカはそんなことではなびかない。というか、なびくなびかない以前の問題だ。
【そういう問題じゃないんだよね、碧ちゃん】
「うん」
心を読んだかのような佐保のフォローに、明海は膨れながらも納得したようだった。
【今度その彼連れて来てよ】
訂正、納得していなかった。
「いや、けっこう忙しい人だし、そもそもまだ付き合ってもないのに連れて来たらヘンじゃない?!」
【忙しいってなに、社会人なの?】
労働(仕事)の対価に賃金(報酬)を得ているという点では確かに社会人だが、明海の考えているだろう人物像とは大きくかけ離れている。
「そうだけどそうじゃないというか……とにかく、今はまだダメ」
【えー】
【付き合えたら連れてくるってことよね、碧?】
「えっ」
きよ子がとんでもない爆弾を投げる。
否、爆弾と思ったのは碧だけだろう。「付き合ってもないのに」と碧自ら口走った以上「付き合っていれば問題ない」という結論が導き出されるのは無理からぬことで。
【あ、そういうこと?! だから“今は”!?】
「や、違」
【楽しみねえ、佐保ちゃん】
【そうですね……!】
「ちょっ、佐保まって」
【碧ちゃん、待ってるね】
期待に瞳を輝かせる無邪気な顔を見てしまっては、それ以上否定もできない。
「頑張ります……」
三人に間接的にでも会えるようになったのは嬉しいが、かねてからの『宿題』が重くのしかかる。
【まあそれは半分冗談として。気負わなくていいのよ。みんなあなたに会いたいだけなんだから】
【あたしも調子乗ったけどさ。碧と話せればそれでいいよ、ぶっちゃけ】
【一番は碧ちゃんの元気な姿だよ】
そんなことを言われては、沈んでいるわけにはいかなくなる。
「みんな、ありがとう」
【どういたしまして】
今はまだ先も見えないけれど、いつか改めて紹介できるように。
碧は一人決意を新たにした。




