幕間―1 ステイジョニス家について
時系列としては碧とイチカがレクターン王国を出発した直後くらいのお話です。
物心ついた頃には既に違和感があった。
病に苦しむ母を見舞いに来たことはない。そもそも母が病床に伏せる前だって、両親が一緒にいるのを見たことがない。
父は母に興味がないのだと思った。
正確に言えば、後継に足る子を産めなくなった母に。
だから早々に見切りを付けて、正妻であるはずの母を離れに追いやり、余命幾ばくもないのを良いことに後妻を迎えたのだ。
父が無関心なのは母だけではない。一つ下の弟も、二歳になったばかりの妹も、父の顔をまともに覚えていない。曰く「魔法士としての資質は二歳までに決まる」とかで、彼基準に満たなかったらしい。訓練と称した呼び出しがかかるのはいつも自分だけだ。妹はまだ幼すぎて分からないだろうが、弟は最近寂しそうな顔をするようになった。自分もその頃には大体周囲の状況を把握していたから、弟の表情の意味は分かる気がしている。
だからといって、父の『命令』に背くことは赦されない。
一度だけ、好奇心で瞳を輝かせる弟を連れて行ったことがある。まだ少し父に対する認識が甘かった頃だ。弟だって実子なのだから、そう邪険にはしないだろうと。
結果、それは大きな間違いだったことを知る。
父が弟を、その猛獣のように険しい目で捉えたのは一瞬で。
使用人を呼びつけ、無感情に言い放った一言が忘れられない。
『ゴミが入り込んでいるぞ。どこに目を付けて掃除している』。
大好きだった母を、能力的には見劣りするが血の繋がった弟妹を、物のように扱う父が大嫌いだった。
「あなた!」
頭の中がぐちゃぐちゃに掻き回されたかと思うくらいの揺れと、背中に受けた衝撃で、ミリタムはようやく自身が殴り飛ばされたことに気付いた。思い出したように口腔内に血の味が広がる。継母が悲鳴のような声を上げながら、ミリタムに駆け寄って抱き寄せる。むせ返りそうな香水の匂いのおかげで気を失わずに済んだものの、頬の痛みは関係なく最悪の気分だ。彼女なりに可愛がってくれてはいるようだが、あいにくこちらは赤の他人以上の感情を持っていない。力さえ入れば振り払っているところだ。
「なんてことをなさるの?! 悪いのは獣人でしょう!」
「そいつは自分から出て行ったのだ」
「でも、通達では攫われたと」
「真実を晒せというのか? 跡取りが兎族の娘にたぶらかされたと? ステイジョニスの名が地に堕ちるではないか」
眼光鋭く見下ろされ、継母はそれ以上反論ができないようだった。侮蔑の眼差しと冷めた態度から見るに、この「二番目の母」も長くないなとぼんやり思う。先日誕生した義弟の素質に芳しいものがなかったのだろう。
五歳時以降の記憶が全くと言っていいほどないので、正直なところ何故殴られなければならないのかと不本意だったが、今の会話で腑に落ちた。父はよほどのことがない限り嘘は言わない。言い換えれば、通達の件は「よほど都合が悪かった」ということだ。つまり、どうやら自分は本当に家出をしたらしい。“たぶらかされた”という点は疑問が残るが。
「ミリタム。お前には知識と経験が必要だ。見聞を広めるためならどこへ行こうが構わん。好きにすれば良い」
たった今息子に手を上げたとは思えない声色で、近づいてくる。
「だがお前はいずれはステイジョニス家を継ぐ身。お前の伴侶は然るべき時に俺が選ぶ。軽はずみな行動は慎め」
お前のためなのだぞと、ついでのように額を軽く小突いて父は去って行った。
窮屈で仕方ない。継母の腕の中も、この家も。
常に精神年齢を十くらい上げておかないと、とてもではないがやっていけない。
嫌だと言いたくても「分かりました」と言わなければならない。
笑いたくもないのに愛想笑いをしなければならない。
そんな道化のような生活に、疲れ切っていた。
だから、年相応の子どもでいられたあの一時が無性に恋しくなる。
人間社会とは一線を画した獣人の里があると知って、興味本位で訪れた。
行く手を阻まれて咄嗟に【滅獣】を放った、その相手に目を奪われた。
野心にまみれた父と、どこか覇気のない死んだような目をする者たちに囲まれて育ってきたミリタムにとって、決意と使命に燃える強い意思を持った瞳はあまりにも眩しくて。くるくるとめまぐるしく変わる表情が、感情を露わにする様が、あまりにも新鮮で。腹を探り合うのではなく、直情的にぶつかる姿勢が好ましくて――生涯の伴侶にするなら彼女が良いと、ついつい本音が口を突いて出た。
『結婚して!』
『……はァッ?! 何寝ぼけたこと言ってやがるクソガキが! 百年早ェ!!』
百年早いと言うが結婚できる年齢になれば良いのだろうと、鉄は熱いうちに打てとばかりに実家へとんぼ返りし、『この世の果て』に関する文献を読み漁った。御三家共用の倉庫に『この世の果て』で採取された薬草が保管されていることを知り、現在の管理者であるメイナート家に適当な理由を付けて申し入れた。御年三百を超える当主のこと、何もかも見通していたかもしれない。しかし、特に咎められることもなかったため研究を順調に進めることができた。その結果、思いのほか早く魔法との掛け合わせにも成功した。
そこから先の記憶は抜け落ちているのだが、あの少女への想いは以前よりも増した気がする。まるで、空白の期間を共に過ごしていたかのように。
『お前の顔なンか二度と見たくねェッつってンだよ!!』
(でも、困ったな。ぼくはまた、あなたの顔を見たいんだ)
どうしたものか。
未だ熱を持つ頬の痛みが気にならなくなるくらい、胸の奥に灯った小さな火がミリタムの心を穏やかにさせた。




