第百七十四話 おかえり(3)
結界を張り、キースモシを伴って村を目指す。三時間ほど掛けて村に辿り着き、件のカエルについて訊ねると、予想通りの答えが返ってきた。村人からの報告を受け村長が駆除を依頼したのだという。被害らしき被害は確認されていないそうだ。その脚で村長宅に赴き「そちらに危害を加えないよう細心の注意を払うから、駆除するかどうか見極める時間がほしい。報酬は要らない」と請うと、多少訝しまれたが了承を得た。
「ってことで、一ヶ月見張らせてもらうことになったから。落ち着かないかもしれないけど、我慢してね」
【好きにするがいい。無闇に騒ぎ立てられるよりは気が楽だ】
行きも帰りもイチカとカエルのことで気が気でなかった碧だが、小走りで戻ってくれば、互いの世界の話に花を咲かせている姿を目の当たりにして一気に脱力する。何も起こらなかったこと自体は喜ばしいのだが、あの流れからここまで穏やかな空気になっているなど誰が想像しただろう。
ともあれ、これで期限に追い立てられることもなければカエルの邪魔をすることもない。あの魔族侵攻以来、魔物はますます目の上のたんこぶ扱いである。どこかうんざりしているような返答からして、さぞ肩身の狭い思いをしていたのだろう。しかしそれなら、わざわざこんな敵地の真ん中ではなく魔星で抱卵すれば良いものを。
(なにか、事情があるのかな?)
「人間界にはどうして来たの?」
【魔星で産むのは私にも子どもたちにもリスクのあることだ。無防備な姿を晒すのはそれだけで喰ってくれと言っているようなもの。人間界ならばこれといった脅威もない。急きょ降りた先がここだった】
つまり、安全な出産のためにわざわざ降りてきたということらしい。人間の世界では赤ん坊が生まれれば祝福されるのが常だが、魔星では食料という意味で歓迎されてしまうようだ。
それより、急に産気づいて人間界に来たと言うなら、卵の父親は行方知れずの妻と子を思い気が気でないのではないか。
「旦那さん、心配してるんじゃない?」
【ダンナ? ツガイとかいうもののことか? あいにく私たちには縁のない概念だ】
想像すらしていなかった反応に碧は言葉を失う。
いわゆる単為生殖だろう。生命の誕生には必ずしも雌雄揃っている必要はない。この短時間で随分勉強した気になった碧である。
【それにしても、君たちは何故私を恐れない?】
思いも寄らぬ質問に、きょとんとする。
「恐れてないわけではないよ?」
事実、魔王軍並みとまではいかなくとも久しぶりに苦戦した相手だ。死の危険を感じるほどではないが、どうしたものかと考えあぐねるほどには畏怖を覚えた。
【恐れとは似て非なるものだ。普通の人間ならば、こうして言葉を交わせたとしても君たちのようにはいくまい】
確かに、報酬を払ってでも退治してもらいたいと訴えるほどには、村人たちにとってカエルの存在は恐怖の対象だっただろうことは想像に難くない。
【それに、どこか彼らにはない並外れた力を感じる。特に君が使った力、あれはなかなか跳ね返すのが難儀だった】
“君”のところでカエルは碧の方を向いた。難儀したとは言うものの結果的に跳ね返しているので微妙なところだが、第三者から“並外れた力”などと言われると悪い気はしない。なんとなく得意気になる碧。
「色々あって修行したりしたからかなあ~~。あたしは一応巫女なので」
【巫女……】
今度はカエルが押し黙った。
【風の噂で聞いたな。一区の王が前王を討った巫女に敗れたと。もしや君が……?】
目がない代わりに化け物を見るような雰囲気を醸し出される。化け物はそっちでしょ、と言いたいところだが、今の論点はそこではない。
「違うよ! ……ん、違わないのかな? “一区の王”っていうのがよく分かんないけど」
【魔星は四つの区に分かれていて、その一つ一つに王がいる。一区の王はグレイブ・ソーク・フルーレンス。親子二代にわたって人間界を襲撃した。金色の髪を持ち髑髏の装飾を好んでいたと聞く】
「あ、たぶんそのひとです」
カエルの簡潔で的確な説明に、碧は文句なく即答する。
「でも、あたしは“前王を討った巫女”の生まれ変わり。そんなに長生きできないよ」
【……そうか】
「それに、あたし一人で勝ったわけじゃないよ。イチカやみんながいなかったら勝てなかった」
さらに言うなら止めを刺したのは半魔の妹だが、あまりにも悲しい結末なのでここでは触れないことにした。
そもそも、一時はアスラントのことさえ忘れていたのだ。こうして再びこの地を踏めたのは何か大きなきっかけがあったからだと確信しているのだけど、それだけは一向に思い出せない。
【なるほど。恐れがないというよりは、すでに我々に対する耐性があったということだな】
「そうだね」
そう言われて、碧はすとんと腑に落ちた。市井の人々が魔族と関わりを持つことなどほぼないだろうから、カエルの解釈は的を射ている。
「魔族というのは、もっと人間に敵意なり軽蔑なりあると思っていたが」
沈黙を守っていたイチカが口を開いたのはその後だった。碧が帰ってくるまでに話し尽くしたというのもあるだろうが、カエルが思いのほか友好的――というか饒舌なのが気になったのだろう。
彼がそう思うのも無理はない。過去の因縁を抜きにしても、これまで出会った魔族は皆どこかしら人間を下に見る傾向があった。
すっかり気を許しているらしいキースモシの足下で、カエルはふっと苦笑するように口元を緩める。
【千差万別なんだよ。人間だってそうだろう。理由なく侮蔑する者もいれば、興味深く関心を持つ者だっている。治権者の性質に依るところは大きいがね】
「治権者?」
【王と同義だ。私はたまたま人間に好意的な王の統治下で、たまたま王の意向に賛同していただけのこと。……そういえば、魔星を出る前に面白い話が出回っていたな】
「面白い話?」
【エルフが匿われているそうだ】
思わずイチカを見る碧。イチカもまた双眸を見開いていたが、碧の視線に気付くとゆっくりと頷いた。
「あたしの、友達かもしれない」
カエルは呆けたように口を開け放っている。口ぶりからして流言だと思っていたのだろう。
【だが、エルフは四百年前に滅んだはずだ。それが何故現代に?】
「あたしも詳しいことはよく分からない。その子だってもともと普通の女の子だった。でも……すごく悲しいことがあって、その日から急に力に目覚めたって」
【ふむ。どうして魔星に来る必要が?】
「仇を討ちに行ったのかも。家族を殺されたから」
ラニアが魔星にいるとすれば、それしかない。確証などどこにもないし、どうやって魔星に渡ったのかも分からない。
そして、今なお無事でいるのかも。
【一つだけ確かなことは、その少女は運が良い。我々の王は人間に友好的で、かつ女の権利を尊重する。身の安全は保証されているはず】
碧の懸念を読み取ったのか、安心感を与えるかのように言い聞かせるカエル。もちろん、その庇護が仇との交戦まで及ぶか、そもそも彼女の言うことが正しいのかさえ分からないが――今の碧たちにできることは、信じて待つことのみだ。
カエルの側で野営と言う名の監視を繰り返すこと、ひと月。
白い魔物は珍しく穴の上から離れて、我が子に顔を向けている。いつもながら、目もないのにどこに何があるのかよく分かるなと碧は思う。
【間もなくだ】
何を、と問うまでもない。孵化が始まったのだ。内側から割られた形跡がある。
「楽しみだね。やっぱりそっくりに生まれてくるのかな?」
【そっくりもなにも、見た目は私そのものだ。何も楽しいことなどない】
取り付く島もないカエルに、碧は早くも挫けそうになるが。
「で、でもほら。子どもたちが成長する過程は楽しいでしょ?」
【私が世話を焼くのは卵が孵るまでだ。孵ったあとのことは知らぬ】
「……え?」
これまでの献身的な言動から打って変わって突き放すような冷たい声色。思わず声を上げる碧をよそに、カエルは淡々と続ける。
【腹の中か外かの違いだけだ。産声を上げたその瞬間から関わりを絶つ。それが魔星に生まれた命の定め】
「そんな……」
残酷なことのように思えるが、魔星に限らず大半の生物は一度親と離れればそれきりだ。自然界からすれば、産みの親と寄り添い続ける人間の方が特異な存在なのだ。
【フルーレンス王家はその点かなり異質だったな。生まれた後もしっかりと面倒を見る。それも半永久的に。もしや君たちもそうなのか?】
「そうだよ。人間はそれが当たり前なの。自立できるまでは親が見守ってくれる。でも、自立しても繋がりは続くの」
次々と殻が割れる。白い肌をした子どもたちが脇目も振らず、一斉に飛び出していく。すぐ側に親がいるのに甘えることもせず、生まれたてとは思えぬ力強さで。
【では、子と『親』は互いを認識しそれ以外を識別できるということか?】
「うん」
目は見えずとも情景は浮かぶのだろう。カエルは子どもたちが巣立っていった空を見上げる。凄まじい脚力は魔族だからこそか。本能的に魔星へ戻ることを選択したらしい子の姿はもう見えなくなっていた。
【私も幾度こうして子どもたちを見送ったか分からない。たまに年若い同族に出会うこともあるが、私の子だという確証もない。そのことが、たまに――少しもどかしく感じることがあった。どちらが良いとも言い切れないが……その一点では、君たちのことを羨ましく思う】
こんなことを考える私は突然変異というやつなのかもしれないな――カエルはどこか寂しげに微苦笑を零した。「孵ったあとのことは知らぬ」というのは、今のようにほとんど顔も合わせず別れてしまうから、気にかける暇もないというのが本当のところだろう。
白い魔物は約束通りこの土地を去った。次の産卵は百年以上後になるというから、もう二度と会うことはない。
「……ごめんね、イチカ」
「何がだ」
「親が見守ってくれるのは当たり前だなんて言って。イチカの気持ち、全然考えてなかった」
「事実だろう。おれのいた環境が劣悪だっただけだ」
責めるでもなく、なじるわけでも非難するわけでもなく。
ただ擁護されることがこんなに嬉しいとは思わなかった。もう自分は、彼にとって目障りな存在ではなくなったのだと。
「……なんで泣いてる」
「嬉しいの!」
また何か傷つけるようなことを言ったかと困惑顔のイチカに、碧は溢れていた涙をごしごしこすってとびきりの笑顔を見せるのだった。
それ以降、碧とイチカは本格的に『仕事』に取り組んでいった。時には単独で、時には二人で。難題が舞い込むこともあるけれど、最後には必ず報酬に繋げた。
そうして順調に資金集めを続けること、二年――。




