第百七十話 心残り(1)
苦しい。身体を内側から引き裂かれている気分だ。
ヤレンはほうほうの体で大樹に辿り着き、寄りかかる。
あと数年は保つと思っていたが、やはり禁術の発動が良くなかったらしい。一度殺された時の痛みも相当なものだったが、半霊体でもこれほどの苦痛を感じるとは。
「これまでか……」
最低限、やるべきことはやった。
欲を言えば碧とイチカの今後まで見届けたかったが、神はどうやらそこまでは認めてくれないらしい。そもそも、意識とはいえ前世と生まれ変わりが同じ世界で共存していることそのものが大きな禁忌。他に比べ、二人に関する予知だけは精度が劣っているのもそのためだろう。それでも、多少なりとも視ることを赦してくれただけ神は寛大だとヤレンは思う。
無念を晴らしてほしくて、願いを託したくて彼らを喚んだ。自分勝手で独りよがりだと分かっていても、止められなかった。そんな浅ましい考えを『彼』の生まれ変わりは一刀両断で拒絶した。
今ではそれで良かったと思っている。第一、人の心を意のままにしようとすること自体間違っているのだ。これ以上干渉するべきではないし、しないとイチカに宣言している。
(宣言はしたが、もう少し見守りたかったな)
心残りは、それだけではないが。
耐えがたい痛みに冒されながら振り返り、大樹の肌に手を添える。
このまま消えたら、セイウに逢えるだろうか。今度こそ同じ場所へ逝けるだろうか。そこまで考えて、自身の強欲さを思い知る。四百年もの永きにわたり“延命”してもらっただけでなく、自らの生まれ変わりと接触するという前代未聞の経験をしておきながら、これ以上何を望むというのか。これでは神に呆れられるどころか、見放されてもおかしくはない。
(地獄へ堕ちるのかな、私は)
セイウが天国にいるとも思えないが、そう都合良く振り分けてくれるとも思えない。たとえ同じ地獄だったとしても、永久に引き離され続けるのだろう。
そうであるならば。せめてもう一度、あの姿を見られたら。
そんなことを考えていた矢先――
不意に、風向きが変わって。
固いだけの表皮に接していたはずの手に、温かい何かが触れた。
「こんなになるまで、お前さんは何をやりたかったんだ?」
半透明な自身の手を握っているそれは、確かに誰かの手で。
同時に降ってきた優しい声は、何よりも欲していた愛しいひとのそれで。
思わず見上げた先にあったのは、紛れもなくかのひとの顔で。
「……セ」
たった今まで否定していた現実に、うまく頭が回らない。確証が欲しくて、名を呼ぼうとした。それよりも先に強く抱きすくめられて、言葉は宙を彷徨う。
「おお。すり抜けるかと思ったら、ちゃんと感触あるな。生身には劣るがこれはこれでアリだ」
「ふっ……」
今にも砕け散ってしまいそうなほどの痛苦でさえ、彼の存在を感じたら霞んでしまった。思わず吹き出してしまってから、自らも広い背に手を回す。今や互いに心臓など持ち合わせていないはずなのに、心音が聞こえる気さえしてくる。
「温かいな。四百年ぶりだ」
「なら四百年浮気してねえってことだな。よしよし。さすがはおれ様の女だ」
「しないよ」
こんな身体で浮気などできようはずもない。
何より、彼以上の男はいない。大切な存在は一人できたけれど。
そういえば、抱き合ったことはあった。
「男ではないが、抱擁はしたな」
「誰と? ぺちゃ娘か?」
セイウの言う「ぺちゃ娘」が誰か分からないので反応のしようがない。髪を優しく梳かしてくれる感触が心地良くて、自然と口が動いていた。
「私の娘のような子だ。頭の良い娘でな。付き合いは長くないが、献身的に世話をしてくれた。母のようだと慕ってくれた。感謝してもしきれない」
心残りは、それだけ。
「禁術を使ったんだ。生まれ変わりを助けたくて。この身体はその代償だよ。そんな私を見て、ひどく取り乱していた。永くないことは悟ったかもしれないが、直接は言いづらい……あの子の悲しむ顔を見たくない」
「なら、顔を見なきゃいい」
え? と訊ねるよりも先に、急速に身体が浮き上がる感覚。気付けばセイウに横抱きにされ、広大な森を見下ろしていた。
「セイウ……!」
「おれ様は二度とお前を手放す気はねえ。娘だろうがなんだろうが知ったこっちゃねえな。お前を一番愛してるのはこのおれ様。お前が受け入れる愛もおれ様のだけにしろ」
茶化すような「お前さん」呼びから「さん」が抜けている。それだけでは足りんとばかりに、こつんと額と額をぶつけて圧を掛けてくる。目を据わらせているところから察するに、拗ねているのかもしれない。娘の“ような”と言ったのに聞いているのかいないのか。独占欲の強さには呆れる。
しかし、その独占欲を向けられていることに喜びを感じてしまうから惚れた弱みとは恐ろしい。
「それに、お前さんがそれだけ買ってる娘だ。ここからでも聞こえるだろ」
「……そうだな」
腕の中で身じろいで、森へと向き直る。こんな風に俯瞰したことがないので分からなかったが、本当に深い森だと思う。入り口すら見つけ出すのに一苦労だ。
けれど、そこさえ見つければ。おそらく今の時間なら、そこにいるから。
「サトナ! ありがとう!」
彼女がいるであろう拝殿に向かって、ありったけの声量で叫ぶ。
胸にぽっかり穴が空いたような寂しい気持ちは残るけれど、言葉にしたことで気分が幾分か晴れたことは確かだ。きっと彼女なら受け取ってくれる。
(寂しい想いは、させてしまうかもしれないが。お前は一人じゃないよ)
セイウに抱き直されたかと思うと、景色が急速に離れていく。頃合いと思ったようだ。巫女の森が遠ざかっていく。名残惜しさが顔に出ていたのか、こめかみに唇が触れた。「おれ様以外の奴のことを考えんな」などと言いそうなものだが、それ以上問い詰めるようなことはなかった。こういうときにあえて何も言わないような男だからこそ、ヤレンは好きになったのだが。
「さてヤレン。おれ様に四百年分愛される覚悟は良いか?」
加速していくさなか、セイウがそんなことを言いながら見つめてくる。
「お前こそ。私がどれだけお前を想っていたか嫌というほど思い知らせてやる」
売り言葉に買い言葉と不敵に笑みを浮かべて応じてみせると、目の前の男が切れ長の瞳を見開いて。
「……それは反則だろ」
何故か微かに頬を染めて視線を逸らされた。
「何が反則だ? お前がいつも言っているようなことではないか」
「おれ様が言う分には良いんだよ。お前さんに言われると、こう……破壊力がやばい」
「ほう。つまり打たれ弱いということだな? これは四百年ぶりに有益な情報を聞いた。そういえば、半魔に殺される直前にも命乞いのようなことをしていたなぁ」
「おまっ……おれ様の数少ない黒歴史の中でも消し去りたい過去断トツ一位を引っ張り出してきやがったな……?!」
嗜虐嗜好のある者が嗜虐される立場になると弱いといわれる原理と同じかもしれない。途端に戦々恐々としだすセイウに、ヤレンは余裕のある笑みを向ける。
「なぁに安心しろ。これからは誰の邪魔も入らない。精々お前の故郷より高い自尊心が傷つくだけさ」
「おれ様が四百年分愛してやるからそれでいいだろーが!」
「いいや、私が思い知らせてやらねばならん!」
痴話喧嘩を繰り広げながらも幸せそうな二人の姿はやがて、空気に溶け込んで見えなくなった。




