第百六十五話 変わる心、変わらぬ世界(1)
夜が迫る。
遠くにまだ昼間の余韻を残しながら、空が闇に覆われていく。
けれどもそれは、絶望の象徴ではない。明けても暮れても立ち込めていた暗雲は、今はもうどこにもない。嵐は消え去ったのだ。
もちろん、このたびの戦禍がもたらしたものは決して消えない。多くの命が奪われ、涙し、途方に暮れているだろう。
それでも、生きているのなら。生きてさえいれば。またやり直せる。何度でも立ち上がれる。これからしばらくは、生き残った者同士助け合いながら復興を目指す時代が続くだろう。
「にしてもコイツ、全然起きねェな……」
白兎は背中の温もりを背負い直す。規則正しい心音と寝息が聞こえる。一時はどうなることかと思ったが、最悪の事態は免れた。
その代わり、失ってしまったものもいくつかある。
「白兎ー! もうすぐ着くよー!」
「おー」
少し前を行く碧が振り返って大きく手を振ってくる。立て看板には『サイモン』の表記と矢印。サイモンへ続く道は大きな街道で、人通りも多い。互いに労り合う会話が聞こえる一方で、大声で呼び込みする露天商も見受けられる。
暗がりの中、白兎の長い耳が悪目立ちしていないのは幸いだった。一応毛皮の外套を被ってはいるが、頭部の不自然な出っ張りはなかなか隠しきれるものでもない。
(平和だなァ)
皆とはいかないかもしれない。けれども確かに前を見て、日常に戻ろうとする人々がいる。
(日常、か)
白兎にとっての「日常」は、兎族の里で過ごすことだったはずだ。それが今となっては、長年嫌悪していた人間と行動を共にすることが日常になっている。運命とは本当にどう転ぶか分からない。
「族長っ!」
里に戻るやいなや駆け寄ってきた兎美がその勢いのまま抱きついてきて、白兎はよろけそうになる。大げさな迎えだなと思ったが、涙ぐんだ目を見たらそんな言葉は引っ込んだ。最終的には白兎が自分で決めたこととはいえ、兎美の言葉が魔族の城へ向かうきっかけになったのは確か。たまたま出くわさなかっただけで、白兎だってあの魔王の側近たちと戦わざるを得ない可能性はあった。生きて帰ってこられる保証もなかったのだから、兎美の行動は無理からぬことだろう。
「良かった……ご無事で……」
「あァ。お前も大事なさそうで安心した。みんなは?」
「応!」
「見くびらねえでくださいよ、族長!」
大声で呼びかけるとそこかしこで声が上がる。負傷の大小はあれど、一人も欠けなかった。白兎は誇りに思う。
サイノアの姿はいつの間にか消えていて、有象無象の魔族も岬側の暗雲が晴れたと同時に消滅したらしい。
「族長!」
早足で歩み寄ってくるのは兎色だ。今でこそすまし顔ばかりだが、安堵で少しだけ崩れた表情は屈託なく笑っていた幼い頃を彷彿とさせる。
「お前もありがとな、兎色」
「水くさいことを仰らないでください。我々の里を我々の手で護った、それだけのことです」
「……そっか」
ついつい長としての目線で物を言ってしまいがちになるが、この里は愛郷心のある者ばかり。たとえ白兎が何も言わずとも立派に守り抜いたことだろう。
改めて仲間たちを頼もしく思っていると、兎色が何やらそわそわもじもじと落ち着かない。心なしか顔を赤らめている。
「ただ……その。私はいずれ、あなたのことも生涯――」
「兎色くん。兎母様が人手を欲しがってたから行ってあげて」
しおらしい様子からは打って変わり、無表情かつ無感情に遮る兎美。
「え? あ、ああ。兎美、何か怒ってないか?」
「どうして? わたしが今まで怒ったことある?」
「……いや。では族長、またあとで」
可憐な笑顔で返されては、兎色も納得するしかない。白兎に断りを入れるなり里の奥へ駆けていく。ただならぬ様子から何か早急に伝えなければならない用件かと思っていただけに、白兎は拍子抜けだ。
「なんだったンだ?」
「さあ。それより皆さんお疲れでしょう? お茶をお淹れします」
本気で怒っている時ほど兎美は美しく微笑むということを、白兎も兎色も長年の付き合いから暗黙のうちに理解している。間違いなく機嫌が悪かったと白兎は確信しているが、何故このタイミングで怒りだしたのかまではさすがの白兎にも分からなかった。
「ミリタム?」
円形の天幕内で兎美の淹れた茶を飲んでいたとき、微かな衣擦れの音が白兎の耳を刺激した。音の方向を見ると、幼子が起き上がって呆然と辺りを見渡している。真っ先に駆け寄ったのは碧だ。
「ミリタム! 良かった、気がついたんだね! 苦しいところとか辛いところがあったら言ってね! 強力なのはまだ使えないけど、少しは効くはずだから……」
「おねえさん……だれ?」
寝起きの開けきらない目を瞬かせながら放たれた疑問は、一行に衝撃を与えるには十分すぎて。
「ミリタムお前、記憶が……!」
「あれ、白兎?」
固まる碧を押し退ける勢いで飛んでいき、ずっこける。
ミリタムはそんな白兎の醜態を気にした様子もなく首を傾げている。
「ぼく、どうしてまた兎族の里にいるの? 家でまほうのけんきゅーしてたはずなのに」
「バカ言うな、お前があたいらについてきたんだろ? 魔族を倒すのに協力するッつって……」
「なんの話?」
「……」
「記憶がないのはお前と最初に会ってしばらく後からか」
イチカが情報を整理したのを聞いて、白兎はピンときた。
「魔法の研究って言ったな。何の研究だ?」
「うーんと、年を取るまほう」
幻の島『この世の果て』で採れた薬草を、魔法と融合させて今の姿があるのだと言っていた。つまるところ、彼が元の姿に戻っただけでなく記憶まで失ったのは薬草なり魔法なりの副作用といったところか。
成長したミリタムを思い出しながら、彼との間にあったあれやこれやまで思い出してしまった白兎は、顔に急激に熱が集まるのを感じ近くにあったティーポットの中身を頭から被った。
「あッつ!!」
「族長?!」
「白兎?!」
「なンでもねェ。ちょっと被りたい気分だっただけだ」
「なんでもないことないと思いますけど……もうやらないでくださいね。火傷してませんか?」
「悪い」
頭からボタボタと雫を滴らせ弁解する白兎を物珍しそうに見つめながら、兎美はやんわりと注意する。手際よく用意した井戸水を掬ってかけ、患部を冷やす。熱い茶のあと冷たい水を浴びたことで白兎はようやく冷静になれた。最初から井戸水でやれば良かったのかもしれないが、井戸水が貴重なこの里では御法度である。そこは白兎もぎりぎり理性が働いた。
「あははっ。やっぱり白兎おもしろい」
(うるせェよ)
誰のせいでこんな道化を演じる羽目になったと思っているのか。
暢気に笑うミリタムを、心底恨めしげに見つめる白兎だった。
「ミリタム。あたしはアオイ。覚えてなくてもいいから、友達になろう!」
「イチカだ」
どことなく不安げだったミリタムの表情が解れたのを機に、二人が改めて自己紹介をする。ミリタムは心なしか驚いたような顔をしている。
「おねえさんたちとは初めて会うはずなのに……すごく知ってる気がする」
「ほんと? それなら、ほんのちょっとでも覚えててくれてるのかもしれないね」
うふふと微笑み合うミリタムと碧。イチカも遠目に見守っている。一時は緊張すら走ったミリタムの容態だが、想像していたほど深刻な事態ではなさそうだ。
「大事なさそうですね。今夜は宴ですから、皆さんも是非参加なさってください」
「……あァ」
兎美が皆に声を掛ける。
そう、宴。兎族の長が凱旋した以上、それを祝わない理由はないのだ。
宴と聞いて色めき立つ碧やミリタムとは正反対に、白兎はなんとなく気乗りしなかった。




