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第百五十六話 繋いだ手を今度は離さない(1)

 城が崩壊する。延命措置により辛うじて生き長らえていたその身は、支えを失い腐り落ちていく。

 

 地響きと降りしきる瓦礫の中、あおいとイチカは頭を守りながら必死で階段を駆け下りる。行くも帰るも一本道、この階段が壊れてしまったら地上に戻る術がない。命の危険と脱出できないかもしれない不安で焦りは募る一方だ。


(今、どれくらい降りてるんだろう)


 昇りよりはいくらか楽に思えても、足下がおぼつかないのはくだりも変わらない。加えて、落盤の音がどこからともなく反響してくる。ここもいつまで保つか分からないという恐怖の中、せめて中腹辺りまでは降りていてほしいと願う碧。


「ところで」


 不意に、前方から声が流れてくる。


「お前はいつまでおれたちに付きまとう気だ?」

「ひでぇ言いようだなぁ兄弟。同じ魂を持つ仲だろ?」

 

 そう、まだいたのだ。

 碧の後方、イチカとうり二つの魔剣士。走るのではなく飛ぶように付いてきているのは、依り代が鳥だからだろうか。魔王戦終盤以降全く口を開いていなかったので存在感皆無だったが、決着が付いても消えるでもなく堂々と存在している。魔王と直接因縁があるわけではないので、魔王を倒したところで「成仏」する要因にはならないのだろう。


「……おれを乗っ取る気か」


 呟くような問いかけに、碧の背筋を冷たいものが伝う。

 それは先の激戦のさなか、ソーディアスが予言していたことだった。

 

「ヒト聞きがわりいな。まあ傍目にはそう見えるのかもしれねえが」


 飄々としていた声調にやや棘が混じる。


「これまでのことで言えばお前さんの身体をちょっと拝借しただけだ。大体、おれ様が助けてやったから大事に至らなかったことが少なくとも三回はあっただろ?」


 押しつけがましい上に細かい。姑みたい、と碧が思ってしまうのも無理からぬことだろう。

 とはいえ、サイノアの急襲、クラスタシアの狂気、そして魔王との決戦――いずれも常のイチカでは考えがたい動きで窮地を脱したことは確か。そしてそのどれもイチカの記憶にはないか、あっても曖昧だ。

 

 彼の協力がなければここまで来ることもできなかったかもしれないと思えば、多少身体の主導権を奪われたぐらいで目くじら立てるのではなく、感謝するべきなのだろう。

 もちろんそれは、セイウに悪意がないことが大前提ではあるが。


「お前さんを乗っ取ったところでどうにかできるのはぺちゃんこ娘ぐらいだからなぁ。ヤレンに触れられるわけでもなし」

「……」


「ぺちゃんこ娘」という呼称に引っ掛かりはしたものの、その直後の切ない響きが気の毒に思えて反発の声を飲み込む碧。ヤレンが半霊体である以上、そればかりはイチカの身体を借りてもどうしようもない。仮に可能だとしても、それはそれで複雑なのでできればしてほしくない。


(嫌な子だよね、あたし)


 イチカが他の誰かに触れる。想像しただけで胸の内がもやもやして、得体の知れない黒々とした感情が沸き起こってくる。以前彼がラニアに人工呼吸を施していた時と同じ。それが「嫉妬」だということはさすがにもう分かる。友人どころか自身の前世にまで嫉妬するなんてと落胆に駆られてしまう。


(切り替えよう)


 軽く頭を振って雑念を振り払う。

 ふと、セイウに隠れて姿が見えない小さな黄色い鳥の安否が気にかかった。

 

「ねえ、きぃちゃんは――」


 まだ少し気が抜けていたのか。

 ついつい振り返ってしまい、足下の注意が散漫になった。 

 

「ぅわっ!?」

「!」

 

 一段と脆くなっていた箇所を踏んでしまったらしく、バランスを崩して次の一歩が宙に浮いた。

 壁に隣接した幅の狭い螺旋階段には手すりもなく、壁の反対側には底知れぬ闇が広がっている。落ちれば生存は絶望的だ。

 

「い、ちか……」

 

 間一髪のところで碧の手を掴んだのは、紛れもなくイチカだった。見方を変えれば手を繋いでいるという願ってもない状況だが、さすがに今回はそれどころではなかった。碧自身が危機的状況ということもあるが――イチカが踏ん張っている石段でさえ亀裂が入り、いつ崩落してもおかしくない危険な状態だったからだ。碧を引っ張り上げようにも踏面が狭すぎるし、仮に引き揚げてもらったとしても、その衝撃や重みで結局は二人とも落下してしまうだろう。イチカもそれを理解しているから、ただ碧の手を離さないよう堪えるしかできないようだった。

 

「も、いいよ……このままじゃイチカも、」

「言っただろう……っ、これ以上、誰も死なせない……!」

 

 碧は思わず目を見開いた。出会った当初は考えられなかった言動に、目頭が熱くなるのを感じる。

 けれど、窮境に陥っていることは変わらない。指のない左手で自身を支えているイチカの表情は、決意表明とは裏腹に次第に険しくなっていく。刻一刻と、最悪へのカウントダウンが始まっている。ならば、それを避けるために手を打たなければならない。


 目を閉じて、右手の温もりに意識を集中させる。

 もう一度逢えた。優しい言葉をかけてもらえた。助けてくれた。それだけで、十分だ。


 左手を伸ばして、大好きな人の指に触れて。

 

「何を、」

「あのね、イチカ。あたし……」

 

 “ずっとあなたのこと、好きだったんだ”。

 その言葉は胸の奥にしまい込んで、微笑む。

 

「イチカに逢えて、嬉しかったよ」

 

 不安定な足場でイチカも限界なのか、碧の力でも容易くほどけていく指。浮遊感に包まれたと同時、指のない左手が空を切る。見開いた目が遠のく。

 

「アオイーーーーー!!!」

 

 初めて聞く声に、響きに、涙が止まらない。最後の最後だけれど名前を呼んでもらえた。恐怖よりも嬉しさが先立って、泣き笑いになってしまう。


(色々あったなぁ)


 これまでの出来事が次々に蘇る。

 始まりは殺気と殺意だった。優しく強く朗らかな仲間たちとの出会い。強い嫌悪と拒絶。初めて戦った魔族。思いがけず明かされたこの世界との繋がり。責任感と優しさ。獣人たちや魔法との出会い。暗殺騎士との激闘、仲間との別離。魔族との熾烈を極めた死闘。修行を経て、またさらに強くなって。仮死状態と一時的な記憶喪失を乗り超えて。

 

(これが走馬燈っていうのかな、早すぎて分かんないけど……)

 

 多くの出会い、別れ。悲しくて、辛くて、嬉しくて、楽しい日々が目の前を高速で過ぎ去っていく。風が涙を吹き飛ばし、身体にまとわりつく。嫌な感触ではなく、撫でるように寄り添うように。


(慰めてくれてるみたい)

 

『覚えておいてね、アオイ。風はいつでも側で見守ってくれてる』


(あれって、こういう意味だったのかな)


 ネオンが【思考送信テレパシー】で教えてくれたことを思い出して、ありがたみを感じる。でも、できることなら見守るだけでなく力を貸してほしい。感謝したり不満を垂れてみたりとめまぐるしく変化する感情の合間、不意に思考が鮮明になった。


(――風?)

 

「そうだ!」

 

 仰向けに落ちるばかりだった身体を捩って方向転換し、両手のひらを水平に伸ばす。そして、希望を乗せた言霊を紡ぐ。

 

「【切風クロス・ウィン】!」

 

 自らを抱き締めるように両腕を交差させ、集めた風を全身に纏わせる。白兎ハクトを運んだ時のように他所に向けたことはあっても、自身に向けて使ったことはない。初の試みだけにうまくいく保証はないが、それでもやらないよりは。

 

「あとは……【サイ】!!」

 

 降下速度は体感的には落ちてきたものの、まだ安心はできない。ありったけの神力しんりょくを込め、自らの周囲に半透明な膜を作る。


 眼前に迫り来る地上。恐怖心は最高潮に達する。

 けれども、やれるだけのことはやった。あとは衝撃に備えるのみ。

 

(あたしやっぱり、生きていたい!!)





「くそっ!」


 イチカは無我夢中で階段を駆け下りる。


 こんな足場では救出は難しかったかもしれない。だが、そうだとしても何故自ら身を投げるような真似をしたのか。

 

 碧に対して戸惑いにも似た苛立ちを覚えながら、しかし最たる怒りの矛先は自身へと向けられていた。不甲斐ない。せめてこの左手に指が揃っていたなら。


「……オイ」


 何が『誓い』だ。仲間一人護れもしないで、理想だけは一人前で。こんなザマであと何人失うつもりだ。


「オーイ」


 魔族に対抗できる技術を身につけたところで、助けられなければ意味がない。どうしてそのことに考え至らなかった。一つできればそれでいいと天狗になっていたのではないのか。もっとあらゆる可能性や解決策を吟味しておくべきではなかったのか!


「ちょっと落ち着こうや、兄弟」


 後方にいたはずの、自分と見紛う風貌の男が目の前に立ち塞がって、イチカはようやく我に返った。戯けたような言葉の割に冷静な声が、かえって緊張感をもたらしたのかもしれなかった。


「人間の足じゃどのみち間に合わねえよ。おれ様がお前さんを動かしてぺちゃ娘より先に地上に降り、この鳥が強力な結界を張って落下の衝撃を最小限に抑える。闇雲に走るより完璧な段取りだろ?」

「……ちょっと待て」


 確かに、どれだけ速く走っても落下のスピードには勝てない。それならば人間以外の力を借りた方が早い。そこまでは腑に落ちる。


「お前のその言い方だと、いつでもキースモシと入れ替われると言っているように聞こえる」

「いつでも入れ替われるな」

「だったら何故! あの時入れ替わらなかった!?」


 どの程度の神術しんじゅつを使えるのかは未知数だが、何かしら打開策はあったかもしれないのに。イチカはあっけらかんとした物言いに憤りを感じずにいられない。

 一方、突き刺さんばかりの視線を受け止めたセイウは腕組みをしながら斜め上に目をそらし。

 

「……むしろアレは空気読む流れだろ」

「なんっ――?! ――」

 

 何故説教されなければならないのかと言わんばかりの呟きに激高するも、セイウに素早く憑依され、イチカの怒りは不完全燃焼のまま一旦消失した。

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