第百五十四話 兄と妹(2)
碧の訴えに対する応答がなくなってから、どれほどの時間が過ぎただろう。緩やかに瞼を閉じた魔王は、それきり目を開くことはなかった。まるで眠っているようだが、そうではないことぐらい碧にも分かる。烏女の元へ旅立ったのだと。
『?!』
しんみりとした空気ごと吹き飛ばすような爆音と同時、強力な瘴気が一瞬にして広間を包み込んだ。部屋の一隅が破壊され、黒煙が上がっている。
「今こそフルーレンスに制裁をォォォォ!!!!!」
その向こう、鬨の声を上げながらなだれ込んできた集団は、一見すれば人のようだが、人でないことは各々が纏う気配が示していた。煙が晴れてくると、気配に頼るまでもなくその事実が浮き彫りになる。
(牛、猪、蜂……が二本足で立ってる)
人の姿をベースに獣の特徴が付与されている白兎たちとは次元が違う。八頭身の獣や虫が後ろ足で立ち上がり、人のように衣服や武器を身につけているのだ。中にはほとんど野生と変わりない四足歩行の者もいるが――九割方二足歩行である。
「義兄様が亡くなられた気配を嗅ぎつけたようね」
「そんなすぐに?! っていうかなんであんな殺気立ってるの!?」
「世襲制に強い不満を持っていた派閥、と言えば分かるかしら」
政治のことはよく分からない碧だが、魔王やサイノアが不満を向けられていた側だろうことは現状から理解した。
「澄ましていられるのも今のうちだぞ、フルーレンス。貴様らの城は既に我らが制圧した。人間の血を引く貴様はより惨たらしく殺してやる。血筋などというふざけた理由で二度と担ぎ上げられんようにな」
先頭に立つ蜂顔の魔族が、人のような指でサイノアを挑発する。蜂男の口ぶりからして城仕えの者たちは皆殺しにされたようだ。王やその側近がいないだけでこうもあっさりと占拠されるとは思えないが、反体制派の戦力が現体制を上回っているとすれば、あり得ない話ではない。
「兄様や『一魔王の僕』がいては手も足も出せないようだから泳がせていたわけだけれど。分かり易いタイミングで現れたものね。そのまま大人しくしていれば見逃してあげたのに」
「薄汚い半魔が生意気を!!」
文字通り猪突猛進、猪顔の魔族を筆頭に他複数がサイノア目がけて武器を振りかざし魔法を繰り出す。
「――」
武器は防げても、高速旋回しながら迫り来る魔法の軌道を読むのは至難の業だ。負傷は避けられなかったのか、不自然に片手を掲げ、血まみれのサイノア。
「え?」
異変はその直後に起きた。蜂起した者たちの身体が胴体から切断され、地面に崩れ落ちたのだ。溢れ出した血液があっという間に石畳を赤黒く染める。そして、差し出すような手のひらの上ではげっ歯類の生首が、驚愕の表情でサイノアを凝視している。
その場の全員が、彼女の身を染めているのは返り血だと気付くのにそう時間はかからなかった。
げっ歯類はそれでも飛びかかろうと牙を剥いたが、頭部が砕け散る方が速かった。サイノアの身に新しい血糊が吹き付ける。
変わらない表情とは裏腹に、血色の瞳が一層暗く影を落としている。
(これ、助っ人いらないな)
一部始終を傍観していた碧はそう結論づける。貸し借りも義理も一片たりともない以上、元々積極的に助太刀しようとしていたわけではないのだが、相手勢力ざっと百ほどに対しサイノアひとりと明らかに分が悪すぎると感じていた。
もちろんその「たったひとり」に全滅一歩手前まで追い詰められたことは忘れていない。ただ、少なくともドレスの魔族並みの瘴気を前に素知らぬふりをして逃げる気にはどうしてもなれなかった。
(そういえば、あのオカマの魔族をこてんぱんにしてたっけ)
それならやっぱり大丈夫かも、と納得しかけて、突如腕を引かれた。
何事か理解する前に石の塊が目の前を落下して、事の重大さに全身から血の気が引く。
「気をつけろ」
「あり、がと……」
静かな呆れ声。イチカが腕を引いてくれたようだが、高揚感や感動よりも安堵で気の抜けた声しか出せなかった。
「兄様の強化魔法が解けた以上、もうじきこの城は崩れるわ。今のうちにお逃げなさい」
「“強化魔法”?」
天井落下はてっきり先ほどの攻撃の余波かと思っていただけに、サイノアの言葉が引っ掛かる。
「魔族ならば強化魔法など使わなくても千年持ち堪えられるぐらいには堅牢に造る。この城は少なくとも五百年以上前に人間が建てたものよ。不安定で脆い人工物を好んで根城としたのは後にも先にも前王と兄様だけ」
ほんの少しだけ哀愁漂う響きに思えたのは、背を向けるサイノアが儚げだったからだろうか。元々幸薄い印象があるだけに、かつて死闘を繰り広げた敵にもかかわらず碧はどうしても後ろ髪を引かれてしまう。
「勝てるの?」
「さぁ、どうかしら」
「じゃあ、」
「自惚れないで頂戴ね。貴方たちとの戦いは確かに我が兄の敗北で決着がついた。そして、彼ら含めほとんどの魔族は貴方たちとは無縁。これ以降の関わり合いに意味はない」
助け船を出そうとした碧の主張は完全に拒絶された。はっきりと明言したわけではないが、端的に言えば「金輪際魔族に関わるな」ということだ。
唇を噛み締める。押し切って加勢したとしても、先ほどの様子を見るにかえってサイノアの足手まといになるだけだろう。それに、サイノアに付くことで無関係だった魔族との間に新たな禍根を生む可能性もある。
遠くで崩落の音が響く。もうあまり猶予はないらしい。
「……行こう、イチカ」
碧に判断を委ねていたようだ。これまで一言たりとも口を挟まなかったイチカが「ああ」と返事をする。
方針が決まった以上一刻も早く走り出すべきなのに、碧の足はそれでも動かない。睨み合いの只中にあるサイノアも、あの警告以降無言を貫いている。
「あたし、あなたがヤレンやみんなを傷つけたことは許せない」
ヤレンに手を下した張本人だけあって、とんでもない強敵だった。クラスタシアが止めに来なければ、碧らの命運はそこで尽きていたと確信できるほどに。
けれど、この城で再会した彼女はこれまでとはどこか雰囲気が異なっていた。なんらかの心境の変化があったのか、幾分和らいだ空気感。実の兄を殺したのも、しがらみや苦痛から解き放ってやりたいがための、彼女なりの思いやりと映った。
魔王が生きていればまた「信用が過ぎる」と苦言を呈されたかもしれない。甘すぎると言われても否定できない。それでも。
「でもあたし、あなたには――生きてほしい」
もっと環境が違えば、時間があれば、許し合える未来もあったのだろうか。
考えている暇はない。今は一秒でも早く脱出することを第一に。
依然気配が動かないことから、何か言い足りないのだろうとは思っていた。
半分は予想通りだった。
『許さない』
別に許してほしいわけではなかったが、これまでの自らの行動を鑑みれば順当だ。これを皮切りに恨み節が延々続くのだろうが、先ほども忠告した通りこの城はいつ崩壊してもおかしくない。魔族よりも遙かに脆い生き物は、落下物が当たれば簡単に死ぬ。命よりも重要な恨み言などあるのだろうか――そう考えていた矢先。
『生きてほしい』
思いがけず掛けられた言葉に不覚にも気を取られた。それが『驚き』と気付いたのは、気配が随分遠のいてからだった。
(やはり、人間は不可思議ね)
一瞬、胸の奥に灯が灯ったように微かな熱を感じたが。
それを掻き消すように痛苦が鋭く突き刺さる。
「……っ」
「これは驚いた。まさか王家ともあろうものが人間と親しくしていようとは。己の半身に流されて情でも移ったか?」
蜂男が薄ら笑いを浮かべている。この魔族の得意技は追尾型毒針を方円状に展開、一斉発射する変形魔法。思いのほか隙を作りすぎていたらしい。数本避けきれず、掠った部位が熱を持つ。
「たとえ掠っただけでも猛毒で動けなくなるはずだが、さすがはフルーレンスと言ったところか」
道理で身体の動きが鈍いわけだ。並みの魔族ならば彼の言葉通りになっていただろうが、人間との混血であるこの身は、どういうわけか理屈ではない強い魔力による庇護がある。
「猪共ではどうにもならんはずだ。揃いも揃って役立たずが」
吐き捨てるような口調から、元々捨て駒のつもりだったのだろう。時機を見誤り勝手な行動を取った者は同胞だろうが容赦なく切り捨てる。魔族とはそういう存在だ。そして、かつては自分もそうだったはずだ。
それなのに、この身に迸る熱く激しい感情は何なのだろう。
「――、――」
声が出ない。
激情に任せて唱えようとした魔法は喉の奥で声になる前に消えていく。
「言い忘れていたがただの毒針ではないぞ。貴様が我々を研究しているように、我々も貴様ら王家の情報は網羅している。それでは灰龍は喚べまい」
迂闊だった。研究されていることは想定の範囲内だったが、よもやこれほどの技術を習得していたとは。
だが、声を奪われたからといって何もできないわけではない。
機は熟した。そんな雄叫びが聞こえそうなほど爆発的に瘴気が膨れ上がる。
有象無象がいくら寄せ集まろうと同じこと、無詠唱でも問題ない。確信しながら放った火属性の魔法は確かに炸裂、紅蓮の炎が広範囲に渡り敵を焼き尽くす――はずだった。
「……?!」
目を疑った。明らかに火力が弱い。中級魔族程度までなら効果はあったかもしれないが、相手はどれも上級の部類。降りかかった火の粉を軽く払えば事足りる。
「言っただろう、網羅したと。いかにフルーレンスの主戦力であろうと、声と魔力さえ封じてしまえば貴様はただの小娘だ」
所詮は格下と侮っていたことが裏目に出た。数百の魔法が息つく暇もなく身を裂き貫き捻り潰しにかかる。限られた魔力で足掻いてみるものの、攻撃魔法は焼け石に水。防御魔法も、それを遙かに上回る威力の前では紙切れに等しく。
生まれてこの方経験のない深手を負い、全身の焼き切れるような痛みと失血量で、サイノアは力なく倒れ伏した。ぼんやり映る天井がやたらと遠く感じる。ただでさえ手が届かないその先を、蜂男が遮った。
「威勢の割に呆気なかったな」
片手に持った巨槍を首筋に宛がわれ、いよいよ万事休す。
「アニキ、ちょっと待ってくだせぇよ」
割って入ったのは豚顔だ。否、顔のみならず体型も完全なる豚なので、そのまま四足歩行していてもなんら不思議はない。
「一発楽しむ余裕くらいはあるでしょう?」
下卑た笑みを浮かべながら鼻息荒くする豚。それを聞いていたその他大勢の中から賛同の声がちらほらと上がる。
「フン、節操のない。まぁいい、好きにしろ」
蜂男は興味がないのか後方へ下がり、入れ替わりに数匹が下心を隠しもせず寄ってくる。
「オイ、オレが最初だからな。こんな上玉そうそう味わえねえ」
牽制しつつ、こちらに腕を伸ばすことは忘れない。脂ぎった手が無遠慮に全身を撫で回してきて、なんとも言えない不快感と不愉快さが込み上げる。一体何に興奮しているのか知らないが、生ぬるい鼻息が一層熱を持ったかと思うと、性急に肩を掴まれひっくり返された。
「あぁ、堪んねぇ。時間がねえのが惜しいぜ。ぶひひ――ぴギっ」
耳障りな金属音と引き笑いが鳴り響き、のしかかられる直前。奇声と共に豚男の顔が半分無くなった。
突然の事態に誰もが状況を飲み込めない中、それは複数姿を現す。




