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第百五十三話 兄と妹(1)

「なっ……!?」

 

 驚きを露わにしたのは人間たちだけではなかった。魔王すら、自身に起こった異変を処理できていないようだった。目を見開いてそこを――大穴が空いた剥き出しの腹を見つめることしかできない。


「どうして……?!」


 あおいは直接的原因となった少女――サイノアを振り返る。

 唯一、碧だけがその一部始終を目撃していた。おもむろに掲げた右手。その中に形成されてゆく、握り込めるほど小さな黒い風の塊。右腕の方向と、俄に強まりつつある瘴気しょうきに気付いた時には、もう遅かった。


「言ったはずよ。“貴方たちには理解できない”と」


 四百年前の夢や現在の言動から推測すれば、母親は違っても血を分けた兄妹のはずだ。悲鳴のように問う碧に、サイノアは感情の読めない紅い瞳で淡々と返す。


 その冷たい眼差しを前に、緩み始めていた警戒心が再び強まる。人間界の兄妹とは何もかもが違うのかもしれない。そもそも、かつての日本においても権力争いを理由に実の兄弟が命を奪い合った歴史がある。サイノアもまた、王の座を狙っていたのだとしたら。


 予想外の事態に神経を張り詰める人間たちを後目に、サイノアは力なく横たわる魔王の側で片膝をつく。


義兄にい様。貴方の望みは人間界の侵略でも、父様の仇討ちでもない。貴方はただ、貴方の思うままに生きたかっただけ……そうでしょう?」


 平常通りの機械的な声調だが、不思議と幾分かの慈悲が込められているように聞こえる。それが人間たちの錯覚か、そうでないかを知る術はない。

 

「冥界を、捜していた」


 ただ、その教え諭すような声色に導かれるように魔王が呟いたのは確かで。

 

「分かっていたさ、無謀な賭けということくらい。それでも、オレはあいつに……烏女ウメに、会いたかった」


 高すぎる天井を見上げながら自嘲気味に語る魔王。弱々しく零れる切ない響きから、烏女への愛情の深さがうかがい知れる。


(ああ、同じ目だ)


 魔王を憂い、涙を流していた烏女と。

 

「イチカ。あたし、ちょっと行ってくるね」


 どこに、と訊くまでもない。この件については事前に打ち合わせていた。「魔王を助ける」と言っていたから、今がその時なのだろう。


 そうは思っていても、イチカはやや逡巡した。魔王の傍らにはサイノアがいる。彼女が何もしない保証はない。魔王も瀕死に見えるが、あくまでもこちらの主観。裏を掻かれる可能性も否定できない。かといって、駄目と言ったところで聞かないだろうことは目に見えている。

 そうこうしているうちに、沈黙を許諾と取ったらしい碧は魔王の元に走り出していた。

 

「御心配なく。危害を加えるつもりはないわ」


 小さく息を吐いたイチカの真後ろで、無機質な声が告げる。

 魔族のお家芸である瞬間移動を使ったのだろうが、敵意がないなら何故わざわざ死角を陣取るのか。気を逸らしていたとはいえなかなか危うかった。サイノアに殺意があったら理解する間もなく事切れていたかもしれない。

 

「どういう風の吹き回しだ」

「どうしてかしらね」


 声の聞こえ方からして相手も背を向けているようだ。はぐらかしたような物言いだが、彼女にも上手く説明できないのだろう。

 

「貴方たちのその人間臭さが『面白い』と思ったから、かもしれないわね」


 語尾を濁したことからも、彼女の内面の戸惑いが読み取れる。

 いくつかの感情を半ば無意識に「封印」していたイチカと違い、生来感情のないサイノアには「面白い」という響きすら新鮮なのだ。永らく敵対し忌避していた存在に、そんな感情をもたらされるなど想像もしていなかっただろう。


 サイノア自身、気付いているかは定かでないが――その感覚はまさに、彼女の兄が数百年前に出会ったそれと同質のもの。


「あなたに話したいことがあるの」

「オレに? それは興味深いな」


 窪んだ目の下に隈をこしらえながらも、言葉通り興味津々に目を輝かせる様は見た目よりも随分若々しい。多少の警戒心は持ち合わせていた手前、あまりの敵意のなさに碧は肩の力が抜けそうになる。


 だが、心を閉ざされ耳も貸さないよりは良い。碧は簡潔に事実を伝えた。

 

こっち(アスラント)に戻る途中、あなたの恋人に会った」


 しかし、幼子のような瞳の輝きは瞬時に失われる。

 

「何を言うかと思えば……世迷い言か。冥界は、存在しないのだぞ」


 緩慢な動作で視線を逸らされ、冷やかしなら帰れと言わんばかりの空気だ。それほど「冥界がなかった」ことへの落胆が大きいのだろう。


 死者に会ったなどと言われてあっさり信用する者はそう多くない。碧とて、魔王の立場なら「ふざけているのか」と問い詰めるところだ。

 魔王の反応は至極当然。けれども、だからといって早々に引き下がるわけにはいかない。

 

「冥界が存在するかしないかなんて、あたしにも分からない。でもあたしは、たしかに烏女さんの意識に触れたの」


 寂しそうな表情。悲嘆に暮れる声。生者のような手の温もり。その全てを、夢や世迷い言で片付けてはいけないと断言できるから。

 碧はあの場所で見聞きしたことを思い出しながら、矢継ぎ早に訴えていく。

 

「あなたが自分の全てだったって、あなたのこと助けてほしいって泣いてた。信じられなくてもいい、でも烏女さんのことは信じてあげて」





 魔王からしてみれば到底信じられる話ではなかった。何も知らない人間の小娘が、仇敵の生まれ変わりが、癪に障る妄言ばかり並べ立てているとしか思えなかった。今少し力があれば八つ裂きにできただろうが、瘴気も魔力も枯渇した身では指先一つ動かせない。

 

 この娘が――否、この娘の前世が存在していなければと何度憎んだだろう。

 寝ても覚めても烏女のことばかりを考えてしまう。表面上は立ち直ってもそれは変わらなかった。一目で良いからもう一度逢いたい――切なる願いが「冥界の探索」に繋がったのは自然の流れだった。


 人間界よりも文明の進んだ魔星ませいだからこそか、冥界の存在に懐疑的な文献しか見つからなかった。それならばと人間界に白羽の矢を立てたが、『一魔王の僕(フィーア・フォース)』を統率する立場上不用意に出歩くことはできない。


 一か八かで協力を持ちかけたのが義妹だ。にべもなく断られることを覚悟していたが、意外にも二つ返事で了承を得た。内心どう思っていたかは分からない。しかし追及も苦言もないまま、まさしく手駒のようにサイノアは動いてくれた。


 その甲斐あって、いくつかの存在可能性を謳う文献に出会うことができた。中には『とある時間に人間界のとある場所へ行くと冥界への入り口が開いている』と具体的に記されたものもあった。サイノアの体が空いている限りあらゆる場所を巡らせたが、結局全てが空振りに終わった。


 可能性に触れるたび沸き上がる高揚感とは裏腹に、いつからか心のどこかで冷静に否定し続ける自分がいた。サイノアもそれを分かっていたのだろう。


『義兄様の予想通りだったわ』


 表向きの、ではなく。


 朗報も凶報も同じ声調なのに、直感的にどちらの意味か悟ってしまえたのは、やはり半分は血の繋がった兄妹だからだろうか。


(兄妹、か)

 

 思えば随分と、兄妹らしさのない兄妹だった。

 もっとも、家族という概念がほとんどない魔星では比較対象に乏しいが。


(オレは一体、どこを基準にしているのだかな)


 ふっと力なく自嘲が零れる。

 あまりにも毒されてしまった。それもこれも、全てはあの雪の日の人間界から始まったのかもしれない。


【――ま……】


 酷く疲れた。このまま眠ってしまいたい。


【――ぉ……さ……】

 

 一度瞬くと、周囲が淡く黄色く色付いている。常闇のような城内にいたはずだが、石床の冷たさどころか傷の痛みも疲労も眠気も感じない。


 無数の小さな光がきらきらと明滅する中、確かな輪郭を持つ何かがこちらに向かってきている。しかし、今の魔王には僅かの警戒心も生まれなかった。先ほどから聞こえてくる微かな声が、浮遊するように徐々に近づいてくるそれが、一糸まとわぬ姿の恋人だと気付いたからだ。驚き、悲しみ、喜び、切なさがない交ぜになっていたが、紛れもなく彼女のかんばせ。


「烏女」

【魔王、さま】

 

 気付けば両腕を伸ばして抱き寄せていた。空気さえ入り込む余地がないくらい、強くきつく抱きしめる。自らの背に回されたか細い腕の感覚が伝わる。細い肩が震えている。


【ごめんなさい。あたしが、あの子にあんなこと言ったから。あたし、魔王様に生きててほしかったのに。逢いたかったけど、こんな、こんな形になるなんて。ごめんなさい】


 どうやらあの少女は本当のことを言っていたらしい。しかし、死者の世界である冥界に生者である少女が行けるはずはない。ならば烏女と再会できたこの場所は冥界ではないことになるが、烏女の口ぶりからするとどうやら冥界であるらしい。


 だが、もうそんなことはどうでもいい。


「何を謝ることがある?」


 そっと身を離し俯く顔を持ち上げる。涙で濡れた漆黒の瞳が見上げてくる。愛しくて愛しくて、止まらない想いのそのままに、瞼に頬に唇を落とし、耳元で睦言のように囁く。


「生きていようが死んでいようが、どうでもいいんだ。こうしてお前にまた逢えた。オレにとって、これほど幸せなことはない」


 まだ何か反論したそうな恋人の口を、自らの口で封じて。

 朱が差し呆けた顔さえ愛おしくて、再度その身を閉じ込める。


 もう迷わなくていい。諦めなくていい。取り繕う必要もない。彼らを引き離すものはもうないし、たとえ現れたとて決して屈しない。

 ようやく辿り着いた安息の地で、ふたりはいつまでも抱き締め合っていた。


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