第百四十九話 言霊
穿たれた腹から口から滴る血が、灰色の床に赤い斑点を描く。
点描画のようなそれは、いつしか各々が結合して血だまりへと変化していた。
とうの昔に失血死していそうな魔法士の少年は、しかしまだ息があった。通常、何の治療も施さなければ短時間で事切れるはずだが、抗うかのように拍動は繰り返す。
口端に生ぬるい物が当たって、クラスタシアは無意識に舌を運んだ。頭上に掲げている少年から滑り落ちてきたのだろう。真新しい血の味と芳香の広がりを感じながら、唇が愉悦に歪む。
「大した生命力ねぇ。やっぱり殺すには惜しいわぁ」
言いながら内心首を傾げないではなかったが、四百年前に「遊んだ」中にも他より生き長らえた人間はいた。例外というのは一定数あるらしい。その人間もまたクラスタシアの眼鏡に適う美少年だった。結末はその他大勢と同じだったが。
「ねぇ魔法士。魔族にならない?」
この少年には彼らになかった付加価値がある。顔立ちの良さは前提条件として、ヒトとしての許容量を遙かに上回っている内含魔力は看過できない。観察対象としてすこぶる興味があった。
「アタシはこのまま漬け物にしてもいいんだけど、生きたままペットにするのも悪くないかと思って。どう? 死んで薬液漬けになるか、生きてアタシに飼われるか」
彼がこの二択を迫れば、大抵の人間は這ってでも逃げようとした。当然と言えば当然の行動なのだが、クラスタシアはそんな姿を目にすると急激に熱が冷めてしまう性質だ。興味を失った代わりに、御しきれないほどの殺意が湧く。原形を留めない状態まで損壊して、ようやく我に返ることが往々にしてあった。
逃げ出さなかった人間は判を押したように死を選んでおり、魔星のクラスタシアの自室には『コレクション』用の装置が何台も並んでいる。彼の部屋にもう一台増えることになるのか、はたまた無謀にも脱出を図り肉塊となるのか。どちらを選んでも、人としての生は終えることとなる。
「……ぼ、くは」
ぼんやりとしてはいるものの、濁りのない碧眼が一度瞬く。微かな呼気は規則正しく、とても死の淵にいるとは思えない。他方、掠れた声はようやっと絞り出しているのか弱々しい。
「いき、る……!!」
それでも、確かに吐き出された「生」の選択肢はクラスタシアを優越感に浸らせた。自ら愛玩動物を志願する人間は初めてなだけに、愛おしさが加速する。
貫通した腕をできるだけ差し障りのないように引き抜いてから、小さな身体を抱き寄せた。脱力してずり落ちそうになるその身を、潰さないように支えるのは彼にとって至難の業だ。けれど、力加減を覚えないことには今後この少年と暮らしていくにあたり色々と不都合が生じる。ちゃんと面倒見てあげるからね、と猫撫で声で柔らかな緑髪を撫でる。
違和感はその直後にやってきた。
腹の辺りに生じたそれは、徐々に痛覚を伴う。侵食していくような痛みから、刃物で刺されたことによるものだと理解した。
もっとも、魔族である彼にとっては刺突されたところで出血する以上の問題はないが、まさしく飼い犬に手を噛まれたことで機嫌は急降下する。
「ホント、大した精神力ね。でもこんなガラクタがアタシに通用すると思ってんの?」
一欠片の魔力もこもっていないので、魔法剣ですらない。文字通りがらくただ。皮肉を飛ばす合間、何かを呟くように動く少年の唇ごと覆い隠す勢いで顔を掴む。
「カワイイ顔して油断も隙もないのねぇ。どんな魔法を使おうとしたのか知らないけど悪あがきは止め――」
破裂音と共に、クラスタシアの腹部が消失した。
辛うじて残っている背面の筋肉でなんとかバランスを取ろうとするが、あまりに唐突な出来事に身体がついていかない。そのうち思い出したように喉の奥から熱が込み上げてきて、堪らず大量の血を吐く。
「ア、ンタ。一体、何を……?!」
上体を大きく前後させなければ後退もままならない。解放された少年もまた距離を取っていた。息は荒いが、腹に大穴を空けながらも足取りはしっかりしている。
「さっきの詠唱に、意味はないよ。強いて言えば、貴方の注意を逸らす目的はあったけど……その魔法を発動させるための条件は、それより前に整ってる」
「バカ言うな!! この戦いが始まってからお前が使ったのは【光刃】と【石壁】もどきだけだ!! 人間如きが無詠唱で魔法を起動したってのか?!」
魔法は元々魔族のものであり、後から猿真似で修得した人間が詠唱なしに発動することはできない。この通説はどうあがいても覆らないはずだった。
理屈では説明できない不可解な奇襲を受け、我を忘れて昂ぶるクラスタシアを少年は――極度に体力を消耗しているからかもしれないが――特段驚いた様子もなく眺めている。
「無詠唱じゃない。限りなく、近い状態にはしたけどね」
「なんだと?」
仮に少年の言うとおりだとしても、局所的とはいえ消滅させるほど強力な魔法に繋がるような言葉は一つもなかったはずだ。
クラスタシアの疑念をよそに、少年は淡々と語り出す。
「僕が開発した『盾』……あれも、布石だ。実力差のある貴方に勝つには、相討つぐらいの覚悟がないといけないと思った。だから僕は、あえて一度負けることにした。そのために盾の改良には余念がなかったよ。持てる知識を総動員して技術を詰め込んだ。本当の切り札が何か、悟られないように」
平坦でありながら、不思議と情熱が感じられる語り口だ。命懸けの決戦に備えながら、魔法の開発にも没頭していたらしい。
「『言霊』って、知ってる? 魔族は口に出さなくても、念じるだけで強力な魔法を使えるでしょう。人間はその代わりに、言葉に思いを乗せることで、時には魔族をも凌ぐ力を生み出すことができるんだってさ。それがたとえ、魔力の通っていない剣でもね」
クラスタシアは鼻で笑い飛ばしたくなった。思いを乗せるだけで魔法が生まれるなど、そんな夢のような話があるわけがないと。仮に事実だとすれば、魔族を脅かすような人間が台頭していてもおかしくはないはずなのに、未だ人間は魔族の足下にも及ばないではないかと。
他方、少年の証言を除いて、あのような魔法を人間が放てることを裏付ける根拠はないのも確か。突き立てられた剣は言葉通りなんの変哲もない代物だった。【千里眼】でくまなく少年を調べてみても、魔法具を身につけているわけでもなければ、体内に仕掛けがあるようなこともない。
「でも、貴方が一撃で滅びなかったのは、予想外だったな……」
微苦笑を浮かべながらの少年の言に、クラスタシアを取り巻いていた焦りが昇華する。見るからに落胆を滲ませる表情が、いよいよ希望を捨て諦めたかのように映ったのだ。
「驚いた? 今のアタシは、不死身なのよ」
左右の腕に『生命の石』を仕込んでいる今、彼は自称したとおり不死者だ。ただでさえ長寿の存在は、この石を埋め込むことでさらに永遠に近づく。その証拠に、掻き消された肉片や臓器が何もないところから再生を始めている。少年が悠長に説明している間に、クラスタシアの腹は七割方修復されていた。
(そうよ、ちょっとよく分からない魔法使われたぐらいでアタシが負けるはずないわ)
半端な魔法など生命の石の前には無意味。仮に石などなくても、魔星随一を誇るこの力で魔法ごと吹き飛ばせる。クラスタシアは調子を取り戻し始めていた。自らへの絶対の自信と誇りが、消えかけていた瘴気を爆発的に増幅させる。
瘴気はクラスタシアの膂力と混ざり合って、吹き荒れるほどの暴風と化す。いつかの初顔合わせや暴走時の比ではない。ただそこに立っているだけで命を削り取られていくような、極めて危険な死の旋風。
「気が変わったわぁ。アンタはペットにしておくにはもったいなさ過ぎる。魔星にいらっしゃい。アタシとずうっと遊び続けましょう? ちょっとイジらせてもらうけど平気よ、あっという間に終わるわ」
狂気的な微笑みを浮かべながらの提案は、結局のところ「人間としての死」を意味するのだろう。魔星は高濃度の瘴気が充満していて、とても人間が住める場所ではない。「イジる」という言葉からして、“遊び続ける”ために肉体を改造させられるであろうことは想像に難くない。
ここで少年が「否」と言おうが、彼は少年の意思など一顧だにしないだろう。現に彼は昏倒を誘う邪気を纏い、少しずつ近づいてきている。いつまたその足に力を込め、鼻先まで距離を詰めてきても不思議ではない。
「そこまで僕のことを買ってくれて、誇りに思うよ」
艶美な死神がすぐそこまで迫っている。
最早時間的猶予はないというのに、少年は随分と落ち着いていた。
「だけど僕は、死ぬわけにはいかない。だから」
おもむろに両手を伸ばす。
クラスタシアは気付かなかった。少年のその手が、彼にとっては取るに足らない、腹部に埋まったままの短剣に向けられていることに。
「できれば五体満足でいたいけど、最悪命さえあればあとはどうなったっていい。魔力だって枯れてしまっても構わない。命以外なら喜んで全てを差し出すよ」
「なら利害一致ってことよねぇ!!」
クラスタシアは地を蹴る。どんな魔法を用意していようが声さえ封じれば無効だ。その後は適当に気絶させて魔星へ連れ帰ればいい。
喉を握りつぶさんと伸びる右手が首に掛かる直前。
僅かに少年の詠唱が先んじた。
「【僕は、生きる】」
所用から戻ってきたサイノアは少しばかり瞠目した。
元々今にも崩れ落ちそうな城だったが、一階部分が骨組みと階段を残して瓦礫の山になっていたのだ。幸いにも土台は万全に固めてあったようで、上階まで共倒れということはないものの、爆発に巻き込まれたかのごとき惨状に暫し見入ってしまっていた。
足を踏み入れて間もなく、瓦礫以外の物体を認めた。うつ伏せに倒れる緑髪の人間。確か魔法士の子どもだったか。
視線を巡らせると、鮮やかな薄紅色が目に入った。見る影もないが、同胞が身につけていたドレスの切れ端だ。程なくしてその持ち主も見つけたが、自らの仲間と認識するまでに時間を要した。彼たらしめるものが首から上しかなかったのである。几帳面に束ねていた黄髪もまた首元まで短くなっており、女と見まごうばかりの美貌が放心したように虚空を見つめている。
視線に気付いたのか、生首の目がおもむろにサイノアを映す。その瞬間、何の感情も宿していなかった表情がやんわりと緩んだ。
「あらぁ。ノアちゃんじゃない」
全くと言って良いほど緊張感がない。声だけ聞いていたら消滅寸前とはとても思えないだろう。
「無様ね」
「ノアちゃんの口からそんな言葉が出るとは思わなかったわあ。アタシ感激しちゃう」
思ったことを口にしただけなのだが、うっすらと朱が差す顔。それなりに付き合いは長いが、何かと褒めそやす彼の思考回路はついぞ理解できないままだった。そんなことを考えながらサイノアはクラスタシアの側に寄る。
生命の石は常人の力でも指で割れるほど脆いが、魔族の身体は頑強だ。首を裂いても腹を抉っても死ぬことはない。身体を二分するか、全身を引きちぎらない限りは。
だからこそ、サイノアの目に映る光景はとても異様なものだった。頭部以外は肉の一片も残っていないのだ。これほどの威力の魔法を彼女は知らない。正確には、「人の器で使用可能なこれほどの威力の魔法」だが。
グレイブから施された石はどうやら破壊し尽くされたようだ。「砂粒程度の大きさでも身に留まっていれば持続する」という再生力が発揮されていないことからも窺える。とてもヒトの身でなし得ることとは思えない。
「まあ結構楽しかったし、アタシは満足よ」
思案に耽るサイノアの横で、早々と自らの生を振り返っているクラスタシア。中空を映していたその瞳が、濁ってゆく合間に半魔の少女へと転じる。
「でも、唯一心残りなのは――……」
不自然に途絶えた言葉の意味を図りかねて、サイノアは視線を戻す。クラスタシアは、こちらを見つめたまま息絶えていた。微笑んでいるのに寂しそうな、不安そうな表情。
腹違いの兄であるグレイブでさえ、そのような表情を見せたことはない。彼が向ける感情はいつだって遠慮がちで、ともすれば恐れを伴っている。義妹が自身を脅かすほどの魔力を持っているとなれば、無理からぬこととはいえ。
先王の頃より『一魔王の僕』に属していたクラスタシアは、何かにつけてサイノアに接触してきた。女嫌いを公言していながら矛盾した行動を起こすので、いわゆる色恋方面の噂がひっきりなしに立っていたようだが、そもそも感情というものが理解できないサイノアにとっては対岸の火事であったし、当のクラスタシアも仄めかすような素振り一つしなかった。
『アタシはノアちゃんが心配なのよ~~』
特に訊ねたわけでもなく、一度だけ、過干渉に対する答えのような弁明の言葉を聞いたことがある。今際の際の顔は、その時とよく似ていた。
ひょっとしたら彼は、義兄との関係性を案じていたのかもしれない。とかく冷え切った交流になりがちな兄妹の間を取り持つために、道化を演じていたのかもしれない。今となっては確認のしようもないし、するつもりもないが。
サイノアには感情というものがよく分からない。
けれど、血の繋がりがあるグレイブよりも、クラスタシアがいる景色の方が違和なく思えたのは何故だろう。自分の世界に空気のように溶け込んでいたのは、何故なのだろう。
「私が人間だったら、その答えも分かったのかしら」
瞼を撫でるように、見開かれたままの瞳を覆い隠す。眠っているように見えても、もう二度と目が合うことはない。独り言に答える声などあろうはずもない。千切れた首の断面から粒子化が始まっている。
そっとクラスタシアの顔を拾い上げ、目を閉じて額同士を合わせる。手の内から重みと冷感が消えて無くなるまで、サイノアはずっとその姿勢のままだった。まるで冥福を祈るように。
冷たい石床から立ち上がり、少し離れた場所で倒れ伏す魔法士の少年を見据える。死んでいるのか、それとも辛うじて生きているのか。確証を得るべく、少年の元へ歩み寄った。




