第百四十四話 子の心、親知らず(1)
国家戦力の要とも言える魔法士団。その団長と副団長が不在の中にあって、魔法大国サモナージ帝国は善戦していた。それというのも、魔法士団以上の実力を誇るとされる魔法士の名門一族が総出で最前線を担当していたからだ。
その中でも目覚ましい活躍を遂げているのは、御三家と呼ばれる面々である。
足先までの艶やかな銀髪を幾百にも束ねた女性が、中空に佇んでいる。大気に晒された額、円形の小さな眉と吊り上がった細目が特徴的だ。下瞼や口元に刻まれた複数の皺が年齢を感じさせるが、弱々しい印象はない。むしろ、余裕と悦楽を示すように吊り上がった唇が、かえって若々しさを醸し出している。
彼女が手に持った木製の杖を一振りすると、瞬く間に簡略化された高位の八大魔法が周囲に展開する。一つ一つに向けて指示を出すように杖を向けた直後、意思を持ったように全ての魔法が思い思いの方角へ飛び、その先にいた魔物の群れを一つ残らず消し去った。
無詠唱に見えるが、帝国魔法士団のように【制御型記憶】を用いているわけではない。彼女の場合は杖に仕掛けがある。八大魔法を特殊な素材に吸着させ、杖の精製の過程で練り込んだのだ。その結果、言霊を発しなくとも魔法の発動が可能となった。
ただし、吸着させる魔法は最上級のものに限定されている。魔法の数は現在確認されているだけでも数千種類と言われており、杖には到底収まりきらないからだ。発動の際は詠唱は不要でも相応の魔力を込める必要があるため、術者本人の魔力容量もそれに見合っていなければすぐに枯渇してしまう。
魔力容量は体力や生命力と密接に関わり合っている。若ければ若いほど熟達により大きく増えるが、老いとともに萎んでいく。早い者では大体六十代で表舞台から姿を消す魔法士界において、明らかな老齢者は不安視されるのが常と思われるが――体力も生命力も維持したまま数百年歳を重ねた彼女には全く関係のない憂慮だ。
ブリュクスフィア・メイナート。現メイナート家当主にして、齢は三百を超える。彼女もまた、ありとあらゆる願いを叶える『この世の果て』の恩恵を受けた一人である。
「おやステイジョニス。自慢の倅はどうした?」
守備範囲の魔族を一掃したブリュクスフィアは、正面を向いたまま視線だけを右に流した。
彼女の右後方、くすんだ緑色の髪にいくつもの白い筋が垣間見える初老の男が、やはり虚空に足場があるかのように立っている。ミリタムの実父であり、ステイジョニス家の現当主であるディークヴォルト・ステイジョニスである。ブリュクスフィアよりも老いた印象を受けるが、彼はまだ五十代前半だ。内に秘めた野心を窺わせる風貌にもかかわらず、やつれた表情と覇気のない瞳がその印象を著しく弱めている。
ブリュクスフィアの軽口を受け、鋭い目元に一層険が混じった。
「気に触ったかい? だったら悪かったね。そうさ、あんたも知っての通りあの子の動向はあたしたちにも筒抜けだ。あの歳で薬草まで持ち出して、よほどの覚悟があったと見える。馬の骨ならまだしも、兎の骨に惑わされてなきゃいいがねぇ」
「不確定情報だ」
「そういうことにしておこうか」
ようやく押し出された声に隠しきれない苛立ちと怒りを感じ取ったのだろう。ブリュクスフィアは会話を切り上げ、視線を転じる。
遠くに複数の遠雷が見える。御三家の中では最も歴史が浅いものの、秀でた実力から瞬く間に三番目の椅子に登り詰めた新星のものだ。元々巫女一族だったが、先代が命からがらこの国に亡命した。
彼が遺したのはたった二人の年若き兄妹。現在は妹が当主を務めているクリュー家である。
巫女の家系らしく濃茶の髪を持つ二人の髪質は、しかし対照的だ。天然パーマの兄・ヤイバに対し、妹のコユキは腰までの癖のない長髪を後頭部で一つに束ねている。二人とも『忍者』を彷彿とさせる黒装束に身を包んでおり、戦場となった魔法大国で一際異彩を放っている。
「ッ……オイ、コユキ!! 今明らかにボクを狙っただろ?!」
「まさか。尊敬すべき兄上にワタシが誤爆などするはずがありましょうか。でも……そう思わせてしまったなら仕方がありません。責任を持って切腹いたします」
しおらしい表情のまま、詠唱を以て右上腕に雷光を纏わせるコユキ。電撃迸る鋭利な先端を自分の腹部に向けるのかと思いきや、瞬間的に伸びた光は鞭のようにしなって、ヤイバの胴体を薙ぎにかかる。ヤイバはすんでのところでそれを避け、自身も雷を右腕に纏わせ迎撃体制を取る。
「ボクが、だな?! ボクが切腹しろと言うんだな?! よぉーし分かった相手になってやる!」
「ご冗談を。兄上にはあちらの化け物たちがお似合いです」
互いに――特に妹の方が顕著だが――針を刺し合うような言動は、彼らをよく知る者たちからすれば日常茶飯事である。当人たちにしてみれば至って真面目に兄妹喧嘩をしているにすぎない。
仲間割れを始めたと思ったのか、半透明の魔族のうちいくらかが好機とばかりに兄妹へと向かっていく。さほどの知能は持たないと思われていたが、個体によるのかもしれない。敵勢力がすぐそこに迫っていることが分かっているのかいないのか、相変わらず口論は続いている。
「大体ワタシよりも魔力容量が少ないくせに、“相手になってやる”などとよく言えたものですね。クリューを名乗ってはいても実質ズブの素人ではないですか」
「ほほう、そんなことを言っていいのかな?」
そこまで辛辣な指摘を受けては心折れそうなものだが、しょぼくれるどころか不敵な笑みを見せるヤイバ。加えて何やら含みのある言い方に、コユキの眉間が訝しげに寄る。ヤイバは得意気な表情のまま懐に手を差し入れたかと思うと、複数枚の紙切れを指の間に挟み高く掲げた。ほどなくして何かに気付いたコユキが驚愕の表情を浮かべる。
「そっ、それはまさか!」
「ふふふ、そのまさかだ。お前が書いては捨て書いては捨てした世にも恥ずかしいファンレター。机の引き出しの奥に隠したつもりだろうが兄には全てお見通し。ばらまいてほしくなければ『偉大なお兄ちゃんごめんなさい』と言うがいい」
「くっ、なんて卑劣な真似を……!」
コユキは怒りに打ち震えているが、いくら兄妹とはいえ他者の机を漁る時点で卑劣以前の問題である。ヤイバの方は完全に開き直っているようで、手紙の束をちらつかせながらコユキに詰め寄っていく。
「さあさあ」
「其は天上の福音・恵み・言祝ぎ・やがて泪を落つる時・大気と混じりて地上へと届けよ 【大雷響曲】」
淀みなく紡ぎ出された詠唱は、ヤイバの手にあった紙切れ諸共、急接近していた魔族をも一瞬で消し炭にした。雷系では最高位の魔法だけに本来ならばヤイバも無事では済まないはずだが、耐性があるからか悪運が強いのか、微かに焦げ付いた形跡があるのみで五体満足である。
「お前っ、兄にまで最強魔法浴びせる奴があるか!」
「兄上は無駄に強運ですからそれぐらいは大丈夫かと」
コユキの言い分と遠い目からして、心中では魔族のように炭化してほしかったのかもしれない。
それからまた不毛な言い争いが始まったが、少なくとも妹の前では魔族の大群も敵ではなさそうだ。
ディークヴォルトは一通り見回してから溜息を吐く。
本来ならば揃ってこの場にいたはずの息子は、事実上蒸発してしまった。
前妻亡き後内にこもることが増え、後妻を迎えてからはさらに距離を置かれるようになっていた。前妻にはよく懐いていたようだから何かしら思うところがあったのだろう。しかし、後継も産めなくなった女に利用価値はない。
ディークヴォルトには一人でも多くの跡継ぎを増やし育てる義務がある。それも凡庸ではない、優秀な跡継ぎを。全てはステイジョニス家が創世期から続く名門だからこそ。今後も御三家であり続けるために、繁栄し続けるために父と同じ道を歩めと、それこそ乳飲み子の頃から教え諭してきた。ディークヴォルトにとって初めての子だったが、ほとんど苦労をした覚えがない。それくらい聡い息子だ。当然理解しているものと思っていた。
それが、実の父親にさえ何も告げずに行方をくらました。
(ミリタム……一体どういうつもりだ)
遙か北、面積を広げ続ける暗雲に自身の心境を重ねながら、父は息子の真意を慮る。




