第百三十八話 カミカゼ(1)
イチカと碧はミリタムらと合流するべく、兎族の里へ繋がる街道を歩いていた。サイモンの村を出て早三日。以前はごく一部だった天上の黒い渦はいつの間にか勢力を広げ、人里にまで及んでいる。道中何体かあの異形の怪物と出くわしたが、たった二人でも捌ききれない数ではなく、今のところ怪我もなく順調だ。
今日はかつて訪れたアクシンが目的地だ。誰もが演者であり歌い手でもある陽気な町。少しくらいの憂鬱であれば滞在するうちに吹き飛んでしまいそうな晴れやかな風土なのだが、頭上に重く垂れこめる暗雲に、心細さは募るばかり。
深い溜息を吐く碧の耳に、どこか遠くからきぃきぃと甲高い音が届く。空耳かと思ったが、音はどんどん近づいてくるし、イチカが柄に手を掛け様子を窺っているのでその線は薄い。どうやら上空から響くその音は真上まで接近したかと思いきや、ひゅるるるという間の抜けた効果音と共に落下してくる。
いよいよ鞘から剣を抜き迎え討とうとするイチカ。しかし碧はこちらに降下してくるふわふわもふもふの黄色い物体を前にどうにも敵意が削がれてしまい、十分に断りを入れてからそれを両手で掬うように拾う。
ぽて、と羽根のように軽く両手のひらに乗っかるそれは綺麗な球形。その中央部に集中するつぶらな瞳とくちばし。尾羽は羽根というより毛玉で、逆立った額の毛は弧を描いて身体の後ろに流れている。
「きぃちゃん?!」
「きぃっ」
碧が声を上げると、雛鳥のようなそれは愛らしくさえずり返事をした。
その鳥は、碧の神力により巫女の森で孵った雛である。毛色から安直に名付けたというわけではなく、『キースモシ』というれっきとした固有名詞があり、そこから着想を得たのだ。ちなみに鳴き声だが、孵化してからこれまで一度たりとも鳴かなかったために二人とも初耳であった。
「どうして……」
ラニアを護ってほしくて置いてきたのに、こちらに来ては意味がない。もちろん護符や結界は抜かりなく施しているので、完全に彼女(?)任せというわけではないのだが。
焦燥を募らせつつも、目の前であるのかないのか分からない首を曲げて器用に羽繕いする姿に毒気を抜かれてしまい、怒りよりも呆れが先立つ。
そんな碧の思考に働きかける者がいた。さざ波のような音のあと直接頭の中に響く声は、決して幻聴ではない。
【アオイ! 戻って来てるんでしょ?】
「……ネオン?!」
某国の王女の名を叫んでから、はっとしてイチカを見る。付かず離れずの距離を保ちつつこちらを見守る銀色の瞳と目が合った。思わぬ事態に顔が熱くなり思考停止、口は無意味に開閉するばかり。動揺しているうちに、ついと視線を逸らされる。【思考送信】だと悟ってくれた上での仕草なら良いが、そうでなければ色々辛い。
【アレ? あなたたちそういう間柄だったんだ?】
「ちちち違うよっ?!」
しまった、と思い再度イチカを振り返るが、今度はこちらを見ていなかった。碧の絶叫に驚いたキースモシが、落下傘のような羽根を広げて避難した先がイチカの肩だったのだ。手のひらに移動させた幼鳥を指で撫でる姿はそれだけで絵になる。
うっかり数秒見とれてしまっていた碧だが、ネオンから根掘り葉掘り訊ねられる前に手を打とうと心の内での釈明に追われた。
【ふーん。そういうこともあったのね。他にも訊きたいことはあるけどそれよりも、一つ確認させて?】
「う、うん。なに?」
含みのある言い方から察するに、どうやら碧の身に起こったことは全て把握しているらしかった。これが『ご神託』というやつだろうかと内心感嘆しつつ、“確認”の詳細を待つ。
【あたしが渡した【切風】使ってる?】
「えっ……と……」
世間話の延長ぐらいのつもりでいた碧は爆弾を投げられた気分になった。王城の庭で試してからは、一度も使っていないのである。否、一度は使っているが、動けなくなった白兎を巫女の森へ運び込むために使っただけだ。考えなくとも本来の使い道からは大きく外れているだろうことは分かる。
ネオンに悟られないよう無心でいようとした。しかし、意識すればするほど心の声は漏れてしまう。
【いーのよ別に。魔族相手にあんな技使ったって効きやしないもの。むしろそんな使い方もあったなんてねー。感心感心】
いつも通りのあっけらかんとした声から怒りや呆れは感じ取れなかったが、それでも謝らずにはいられない。
「ご、ごめんね? そのうち必ず、」
【い・い・の。あたしはたしかに【切風】を伝授したけど、伝えたかったのは別のことだし】
「別のこと?」
思わずほっとしてしまう碧だが、気付かなかったのかあえてなのか、ネオンが追及する気配はない。
【そ。その時に言ったわよね。“意思一つで技の威力が変わる”って。あれはあたしの技だけじゃない、魔法でも、神術でも、全てのことに言えることなの。つまり、魔族に打ち勝つにはどんなに強力な神術よりも「必ず勝つんだ!」っていう強い気持ち。これが不可欠なのよ】
「なるほど……」
聞こえるのは声だけだが、人差し指を立てて説明するネオンの姿が目に浮かぶようだ。そのまま教壇に立っていても違和感はないだろう。彼女の解説はいちいち説得力がある。内容がどうというよりも、その堂々たる話しっぷり、耳を傾けたくなる声質。これが王族たる証と言われれば納得せざるを得ないほどには。
【それともう一つ。レクターンのシンボルはなんでしょう?】
唐突な出題に、そんなの分かるはずがない、と早々に音を上げてしまいそうになったが、はたと思い留まる。直感が働いたのだ。
「……風?」
ネオンが何故あの技の話題を振ったのかを考えれば、自ずと回答が出た。さながら授業の確認テストと答え合わせのようだ。
【うん、さっすが! ちなみにレクターンの紋章には風と、桜が描かれてる。なんか変な感じでしょ? 風は桜を散らす。風流を台無しにする敵、ってね】
碧の勘は正しかったようで、ネオンの心の声はいつも以上に溌剌としている。
【けど、風に舞う桜もなかなか趣深いじゃない? 相反するようで、実はお互いを引き立ててるのよね。だから、レクターンには『桜』も『風』もなくてはならないものなの。……日本もそうでしょ?】
「……うん」
長い冬を乗り越えてようやく咲いた桜花。毎年のこととはいえ、新しい季節を感じさせる開花は心弾むものだった。その一方で、一週間と保たず風に攫われ散りゆく光景は、切なさと風光明媚さとを刻みつける。
(桜、見たいなぁ)
急激に懐かしさが込み上げるけれど、今しばらくはお預けだ。間違っても「二度と見られない」などとは思わない。確かにそれくらいの覚悟で戻ってきたが、人生どうなるか分からないのだ。
【アオイ、覚えておいてね。風は向かい風で邪魔してくるときもあるけど、追い風で励ましてくれることもある。寒さを強めるときもあるけど、暑さを凌ぐときもある。薄情なようで、必ず側で見守ってくれてる】
「うん!」
つまり、「難点もあるが基本的には味方だ」ということなのだろう。物事には必ず良い面と悪い面があるから、どちらか一方ばかりに囚われて本質を見誤らないように、という戒めの意味もあったのかもしれない。
実際のところ、正しく理解できているか分からない、という不安を覆い隠すために必要以上に元気よく返事をしてしまった節はある。本音が筒抜けになるこの術の前には隠し事は不可能。ネオンにも例外なく直に伝わっているはずだが、大きく伸びをするように唸り声を上げただけであった。
【さってと! 伝えたかったことは伝えたし、もう一頑張りしないとね】
意味深な言葉に一瞬「ん?」と思いはしたが、勉強か公務を抜け出していたのだろう。また破邪の木にでも登っているのかもしれない――などと考えていると。
【あ、そーいえば言ってなかったわね。今レクターン、魔物だらけなの。まさしく国家存亡の危機よ?】
井戸端会議のようにこともなげに言ってみせるネオンだが、予想の斜め上過ぎる発言に碧の思考は一時停止する。
「……えええええ?! あたしと喋ってて大丈夫なの?!」
【大丈夫大丈夫! 今日は風が強いから】
声色にあまりにも緊張感がないため魔物だらけという証言自体を疑ってしまうが、【切風】の他にも国の象徴である風の力を借りた技を持っているのだという。
しかし先ほど「魔族相手には通用しない」と自ら言っていたはずでは、と考えていると、間もなくそれに対する回答が返ってくる。
【魔法を使えないあたしたちでも戦えるよう、サモナージ帝国が武器や拳に魔力を注いでくれたってワケ。それにあたしも、ちょっとなら神術使えるしね】
そういえば、と碧は苦笑する。当たり前のように【思考送信】をしているおかげで忘れていた。それにしても、緊急時にもかかわらずこれだけ悠長に会話をしていられるネオンには驚かされる。己の力を誇示しないため気付きにくいが、巫女の素質という意味では充分に基準を満たしているだろう。それどころか、サトナぐらいの実力を秘めているのかもしれない。そう思った途端、頭をもたげる劣等感。
【思考送信にも意外と神力消費するのよね】
「ごめん」
何故かその一言が針のように突き刺さって、反射的に謝ってしまう。
ネオンは奥歯に物が挟まったような言い方はしない。【思考送信】であれば尚更率直な思念が流れてくる。けれどその分、裏表がない。おそらく嫉妬にも縁がないので、誰かに悪意を向けたことすらないだろう。今の言葉にだって些かの悪意も込められていないのは碧も承知していた。ただ事実を口にしただけだ。それでも傷ついてしまったのは、「自分よりも優れた相手の手を煩わせた」という負い目からだろうか。
【アオイ。まさかとは思うけどあなた、あたしがこうして協力したりするのは「ヤレンの生まれ変わりだから」とか思ってない?】
ほんの少し怒気を含ませた声質に変わっている。急激な変化に怯みつつも、そんなことはないと心の内で答えた。
ただ――
【“手間取らせた”? “いつも助けてもらって申し訳ない”? あたしはそんなつもりで関わっちゃいないわ。ましてやあなたを下に見たことなんて一度もない。いつだって対等よ。友人ってそういうものでしょ?】
普通の人間ならはにかんでしまいそうな台詞をさも当然のように言ってのける。言われた側の碧が居たたまれなくなるという珍事が起こるも、まっすぐに送られた言葉は卑屈になりかけていた心を解かす。
【前にも言ったわよね? あたしとあなたたちの間で水くさいことはナシ。今回はあたしが話したかっただけ。いい、アオイ? 絶対生き残るのよ。あなたも、あたしも、みんなね】
「もちろんっ!」
彼女に負けないくらい意気揚々と応えると、今度こそ声は途絶えた。
生温い風が頬を撫でる。思いがけず嬉しくなる出来事があって、少し涙腺が危ない。ぐっと堪えていると、何事か問いたげな視線に気付いた。キースモシが戻ってきたタイミングで、碧はぽつりぽつりと話し出す。
「ネオンも今、戦ってるんだって。レクターン王国、魔物だらけなんだって」
「そうか」
「早く、止めなきゃ」
「ああ」
新たに一羽を交えて、再びどちらからともなく歩き出す。
あの黒い空の果て、奈落の城へと。
【思考送信】を終えた直後、振り向き様に肘鉄をお見舞いする。まとわりつく不快な粘り気は、分け与えられた魔力のおかげか即座に昇華した。
もう何日戦っているのかも分からない。奇怪な魔物たちは絶えることを知らず、昼夜問わず襲い来る。兵士たちも疲労の色が濃くなっている。唯一の救いは、死人の情報が入ってこないことぐらいか。
ネオンもまた、慣れない長期戦により疲弊していた。元気が取り柄の彼女だが、さすがに「限界」という言葉がちらつき始める。
「……ジョーダンじゃないわ」
浮かんだ言葉を打ち消すように頭を振る。
たった今約束したのだ。必ず生き残ると。自分だけではない、この国の人間は誰一人として死なせない。満身創痍ながら決意を新たにする。
そんな彼女を嘲笑うかのように忍び寄る影があった。ほんの一瞬の移り気が、反応を遅らせる。ネオンが気付いたときには、半透明な『斧』が頭上に迫っていて――
まさに振り下ろされる直前、光る何かが異形の腕を貫いた。
羽ばたく鳥を象ったようなその光は自在に方向転換しながら、続けざまに魔物の頭部、胴体へ突っ込み、大穴を開ける。それらが決定打となったらしく、貫通した箇所が修復する気配はない。耳障りな断末魔を上げながら、魔物は消失した。
「無事かい、お嬢さん」
「……ええ」
気怠げな低音が頭上から降ってくる。役目を終えた光は巣に戻るかの如く旋回し、どこかへ帰って行く。その行き先を目で追って、宙に浮く人影を認めた。暗がりではっきりとは見えないが、随分大柄な男性だ。
呼称からして、眼下にいるのがこの国の第一王女であることに気付いていないのだろう。でなければ、いつまでも他国の王女を見下ろすような位置に留まるはずがない。
そう、「他国」だ。魔法を扱った時点でサモナージ帝国の誰かであることは確実。隣国の姫の顔など知らなかったとしても無理はない。そもそもこの常闇、ネオンから見えないのだから相手からも見えないと考えるのが妥当だろう。
「あんたみたいな女子どもまで前線に駆り出されてたとはなぁ。堕ちた、なんて言葉は使いたくねえが……レクターンもよほど切羽詰まってたか」
声量が抑えられていることから独り言であろうが、あいにくと激戦地からは離れているためネオンには丸聞こえだ。国王への不敬と取られかねないが、感情を押し殺したような声色からは、国家への軽蔑というよりもむしろ現況に対するやるせなさが感じ取れた。
誰もが武器を持ちうるこの世界でも、女性や子どもを戦に参加させることに難色を示す者は一定数いる。戦場に相応しくないからという排除派と、慈しみ守るべき存在だからという擁護派に分けられる。彼は後者の立場なのだろう。どちらにしても、彼を罰する意志はネオンにはない。
「今までよく持ち堪えたな。あとはオレたちに任せて救護所へ行くこった。おふくろさんも心配してるだろうから、なるべく帰ってやれよ」
「ええ。ありがとう」
随分と女性を重んじる男性である。ネオンが片手を上げたのを確認すると、方向転換して滑るように空を渡っていった。
さて、「任せろ」「帰れ」と言われて大人しく引き下がる女子どもではないネオン。敬語を使われなかった新鮮味はもちろんだが、気にかかることもある。見失わないよう、見つからないよう、男性の後を密かに追いかけるのだった。




