第百三十二話 十数年目の真相
チラシを配り始めて一月が経とうかというある日の午前、冬休みを迎えた碧は二階の自室で課題に向き合っていた。きよ子は外出しており、父は相変わらず単身赴任中。基本的に二人暮らしのため、家には今碧一人だけである。
静寂の中、突如響き渡る電子音。階下に備え付けてある固定電話の音だ。条件反射的に階段を駆け下り、受話器を取る。
「はいっ、蓮野です!」
「蔵月と申します。あの……」
きよ子と同世代か、少し上だろうか。落ち着いた、少し低めの声の女性はそのように名乗った。少なくとも碧は名前にも声にも聞き覚えがない。
母の知り合いか――あるいは。
女性は少しだけ躊躇うように間を置いて、はっきりと告げた。
「雨瀬逸香、知ってます。私の、甥です」
碧は息を呑んだ。とうとう『イチカ』を知る人物から電話が掛かってきたのだ。訊きたいことは山ほどあるのに、いざとなると頭が真っ白になって何も出てこない。
えっと、あの、と、口を無意味に開閉する行為を何度繰り返しただろうか。
「詳しくお話、聞きたいです。あたしの母と、三人で会ってもらえませんか……?」
少々前のめりな要望に、受話器の向こうの女性が面食らう気配。
「え、ええ。構いません。何のお役に立つかは分かりませんが……」
戸惑いは隠しきれないものの、蔵月は拒絶しなかった。碧はそのことに内心安堵しつつ、自らときよ子の日程を確認し、会う約束を取り付けた。
後日待ち合わせたカフェに現れた彼女は少し背中を丸めていたが、千紗の血縁とは思えぬほど穏やかな表情をしていた。
簡単な挨拶を済ませ、席に着いたのを見計らい、きよ子が本題を切り出す。
「急にお呼び立てしてすみません。うちの子が、逸香くんにお世話になったみたいで。本来なら親御さんにご挨拶するべきなんでしょうが、その……」
「千紗に、会ったんですね」
言葉を濁すきよ子の様子から察したらしい。悲痛そうな面持ちで確かめるように問うた蔵月に対し、静かに頷くきよ子。その上で、雨瀬家とは数年ほど親交があったことを伝える。蔵月は神妙な顔つきを崩さぬままきよ子の説明に聞き入っていたが、やがて「そうでしたか……」という呟きと共に重い溜息を吐く。
「信じられないかもしれませんが……逸香が生まれたときは、良香と同じくらい可愛がっていたんです、あの子。でも逸香が三歳になる少し前に、元旦那のDVが原因で離婚して……その頃から、「別れた夫に似てる」なんて言い出して……」
久しぶりに会う方が変化が分かると言うが、逸香の場合は正にそれだったという。些細な、けれど確かな違和感。
元々恥ずかしがり屋な面はあったが、これまで以上によそよそしい。正確に言えば、怯えている。それになんとなく、痩せたように感じた。
結果的にそれは、気のせいではなかった。
「良香が教えてくれたんです。自分にしてくれることを逸香にしてくれない、と。名前を呼ばないし、ご飯も作ってくれない、お風呂にも入れさせてくれないし洗濯もしてくれないと。だから自分がお母さんの代わりに全部やってるんだと、言っていました」
「児童相談所には連絡しなかったんですか?」
「正直最初は、子どもの言うことだからと深刻に考えていなくて……それに、まさか日常的にやってるとは思わなかったの。私も月に一回会うくらいだったから、たまたま逸香が悪いことをして、その躾の最中だったんじゃないかって」
「躾にしても行き過ぎですし、月に一回それって十分日常的だと思いますけど」
呆れと困惑が入り交じった表情できよ子が指摘する。蔵月は気分を害した様子もなく、素直に受け止めているようだった。
「そうですよね……冷静に考えたら異常だわ。でも、やっぱり信じたくなかったのかも知れない。妹が自分の子供を虐待してるなんて、認めたくなかったのかも」
きよ子も碧も歯がゆさを感じながら、彼女の心情を全く理解できないわけでもなかった。二人とも一人っ子ではあるが、近しい人物に置き換えて想像することはできたのだ。
もし、友人や知人が自身の子を虐待していたとしたら。それが確実と言い切れなければ見過ごしてしまうかもしれない。無意識のうちに、庇うための理由を探してしまうかもしれない。率直に言って、毅然とした態度で過ちを正せる自信がなかった。
「……良香くんは、それ以降は何も?」
「……いいえ」
蔵月は力なく首を左右に振る。
「『伯母さん早く助けて、このままだとイチが死んじゃう。お母さんがイチを殴る』って、いつも。さすがにおかしいと思い始めたときに、交通事故が起きて。頼ってくれてたのに、何もしてあげられなかった……」
声を詰まらせる蔵月。きよ子も碧もやるせなさに項垂れる。
「……こんなこと訊いたらダメなのかもしれないんですけど」
遠慮がちに声と手を上げたのは碧だ。
「事故は、どうして起きたんですか……?」
「碧それは……」
「……大丈夫ですよ、お母さん。お話しします」
咎めようとしたきよ子を制するように、蔵月は微苦笑を浮かべる。後悔や哀惜は見て取れるが、碧に対する非難の意図は感じられない。遠い昔に思いを馳せるその瞳はただ、束の間の懐かしさに浸っているようだった。
「二人は庭でボール遊びをしていたそうです。何かの拍子にボールが道路に転がっていってしまって、それを拾いに行った良香とトラックがぶつかって……」
トラックの運転手は咄嗟に急ハンドルを切ったものの、間に合わなかったそうだ。
警察は初めトラック側の不注意を疑っていたが、運転手の「子どもが急に飛び出してきた」という証言、血だらけの良香の側で「ごめんなさい」と泣き叫び続ける逸香、そして、そんな彼からやっとの思いで聞き出した「庭で遊んでいた」「ボールが道路の方へ飛んで行ってしまった」という状況。それらから、運転手側にも情状酌量の余地があると結論づけたという。
『おれのせいで、良香は死んだ』
自虐的とも言える言葉と微かに苦痛に歪む端正な表情が、碧の脳裏を過る。
あの時碧は、彼がどうしてそこまで自身を責め立てていたのか分からなかった。けれども今、ようやく分かった。
彼はずっと悔やんでいたのだ。幼い子どもの時分とはいえ、自らの未成熟な手足が招いた悲劇を。脇目も振らず駆けていく兄を引き留められなかったことを。
『もしかしたらイチカの勘違いだったのかも!』
十二分に自覚して後悔している出来事を「勘違い」などと言われれば、激昂するのは当たり前だろう。碧は自身が放った無責任な発言を今更ながら恥じる。中途半端な気遣いがどれだけ残酷かを思い知った。人知れず、両拳を握りしめる。
「……良香が亡くなってからの千紗は、本当に抜け殻のようでした。連絡もつかないので、見に行ったら逸香がいなくて。どこに行ったのか聞いても「うちは一人っ子だったでしょう」としか言わなくて……」
きよ子が見舞いに行ったときと全く同じ反応だ。最愛の子どもを失い、精神的に追い詰められていたのだろうか。その一点については、きよ子も碧も同情を禁じ得なかった。
「でも……時々、もっとおかしなことを言っていました。悪魔がどうのこうのって。気持ち悪いので聞き流してたんですが、とうとう「姉さん、私悪魔を退治したのよ」なんて言い出したものだから、つい気になって「その悪魔って何なの?」と訊いたんです。そしたら、「私から良香を奪った悪魔」って……。まさか逸香のことじゃないかなんて、考え出したら怖くなって……」
その日以降急に足取りが重くなり、少なくとも週に一度は訪れていた妹の家へはほとんど向かわなくなった。一刻も早く病院へ連れて行かなければという焦りは常に抱えていたのだが、「千紗に会いたくない」という思いの方が勝っていた。
しかし、逸香が気にかかるのもまた事実だった。せめて状況を確認しなければ、これではいけないと一念発起。電話をかけたが繋がらない。とてつもなく嫌な予感が走り抜け、突き動かされるままに千紗の家へと急ぐ。
もぬけの殻だった。貸家だったそこは、新たな入居者を募集しているらしかった。貼り出された広告に記載してある電話番号に、身元は伏せて「内見をしたい」と連絡を取った。
「大家さんの話では、家の中の物は全部捨てていったそうです。位牌や骨壺まで捨てようとしてたからさすがに引き留めてくれたみたいなんですが、『うちのじゃないから要りません』と……。『息子を迎えに行かなきゃいけない。どこにいるか分からないから、余計な荷物は持たない』と言って、ハンドバッグ一つだけ持って一人で出て行ったそうです」
以後消息不明のまま十数年。逸香を捜している人がいると知り、いても立ってもいられなくなったのだという。
「碧ちゃん、だったわね。逸香は……生きているの? だとしたら今、どこにいるの?」
「イチ……逸香、くんは」
縋るような瞳で見つめてくる蔵月を前に、碧は逡巡する。生死を答えることは簡単だが、居場所を伝えるのは容易ではない。彼は今、地球ではない異世界――アスラントで暮らしているのだから。
ありのまま全てを伝えたところで、信じてもらえるとは思えない。良くて逸香の実母のような反応が返ってくることだろう。
それでも、伝えなければならない。
碧は腹を括った。言葉を選びながら、慎重に話す。
「生きてます。でも……地球には、いません。信じられないと思うけど――違う世界にいます。とても優しくて、楽しくて、あったかい人たちと、一緒に暮らしてます」
案の定、蔵月の表情は戸惑い一色だ。勇気を振り絞ってその顔を見続けた碧には、感情の変遷が手に取るように分かる。
(うう……またおかしい子って思われた……)
正しいことをしているはずなのに、穴があったら入りたいほどの羞恥心に苛まれる。
「蔵月さん、お気持ちはよく分かりますが、この子は」
「それなら良かった」
微妙な空気を感じ取ったきよ子が擁護の声を上げきる前に、安心しきったような声が蔵月から漏れた。思わず耳を疑う蓮野親子をよそに、蔵月は心なしかすっきりした表情で碧に問いかける。
「逸香は、他に何か言っていた?」
「……“あの世界が嫌いだ”、って」
「……そう……」
あからさまに表情を曇らす蔵月を見て申し訳なさが募ったが、彼がこちらの世界を評するときは大抵嫌悪の言葉が使われていたのだ。肯定的な嘘はかえって薄っぺらくなる。碧にはどうしようもなかった。
「でも、小さい頃の逸香くんは可愛がってたんですよね! なんか、それだけでも嬉しかったです」
無関係なのにこんなこと言ってすいません、と妙に罪悪感を覚えて平謝りする碧に、蔵月は至って真剣な眼差しを向ける。
「そんなことないわよ? 今一番逸香を知ってるのは碧ちゃんなんだから。あの子を捜そうとしてくれて、あの子と仲良くしてくれて、ありがとう」
皮肉でも軽蔑でもない、心からの感謝がこもった声。暖かく柔らかな瞳に微笑まれ、碧の涙腺は不思議と緩み出す。
「あり、がと、ございっ……ます……っ」
初恋の人を、こんなにも想ってくれている人がいた――。
碧にとって、それが何よりの収穫だった。




