第百二十八話 瞼の裏、浮かぶひと(1)
「……取引……?」
問いながら、ラニアは目の前の少女を注意深く観察する。
瘴気は感じられないが、初めて相見えた時もそうだったのだ。油断はできない。
それにしても、今回は特に殺気を感じ取りにくいと思う。
本当にただの取引のつもりで来ているのだろうか。だとしたら筋違いも良いところだ。彼らの目的はイチカや碧の抹殺のはず。一介の仲間でしかない自分に、一体何の取引を持ち掛けようと言うのか――。
「貴女を魔星に招待するわ」
無機質ながら放たれた提案に、息を呑む。
「その代わり、貴女は一定期間我々の監視下に置かれる。――監視と言ってもあらゆる行動は自由にできるし、もちろん魔星はそれに一切関知しない。極力人間界の空気に近づけるよう配慮もする。人間界の一般人に対する待遇としては、破格以上だと思うけれど」
「……そうね。破格すぎて怖いくらいよ」
自らの口から苦笑いが零れて、僅かに緊張がほぐれる。
いつの間にか全身に力が入っていたらしい。強く握りしめていた名残か、白く染まる両手のひら。
――『……ほ、ホラお前、実はスゴかったンだよな! あの時、エルフの羽根が一瞬だけど生えてよ! ひょっとしたらお前もエルフの生まれ変わりかなンとかだったりしてなー!』
まだ床に臥していた頃、白兎が教えてくれたことを思い出す。
あの時の記憶は曖昧だが、一瞬だけ、力がみなぎったのは覚えていた。そして、あの男の額を銃弾が貫通したことも。
状況に反して、思わず頬が緩む。
(あなたの言うとおり、あたし、実はスゴいヤツだったのかもしれないわ。白兎)
この場にいない友人に向けて、心の内で呟く。慌てようが目に浮かぶが、もう笑ってはいられない。
「その人間界の一般人を招待してくれるなんて、どういう風の吹き回し?」
「ある方が貴女に興味を示された。私は貴女を連れてくるよう命を受けただけ」
彼女ほどの魔族が“命を受けた”と言うあたり、相当の権力者なのだろう。
「期限は無し。気が向いたら返事をして頂戴」
寿命の長い彼ららしい台詞だ。しかし、ラニアの方はそこまで長く待たせる気はなかった。
――願ってもない好機だ。利用しない手はない。
「……一つだけ忠告を。彼、貴女が思っている以上に手強いわよ」
そんなことは言われなくても分かっていた。立ち上がることも、指一本動かすことさえ困難なほどの強烈な瘴気は、それから十数日も自分たちを蝕んだ。今後の安息のためには、関わらないことが一番だ。それも分かっていた。
けれど、彼女は諦めたくなかった。父を、母を、弟を奪ったあの男を自らの手で裁くことを、諦めたくなかった。
「手強かろうとなんだろうと、あたしはあいつを倒す……たとえ、相討っても!」
「……取引成立ね」
サイノアが薄く微笑んだ。
「色々と準備があるでしょうから、頃合いを見てお迎えに上がるわ。それまでに身辺整理を済ませておく事ね」
まるで余命を知らせに来た死神のようだ。こちらの勝利など万に一つもないと言っているようにも聞こえた。
悔しさを覚えないわけではなかったが、当然の反応だとも思う。今のままでは彼女の予想通りの結末を迎えることになるだろう。
そう、今のままでは。
(身辺整理……か)
真っ先に浮かんだのは、今は異世界にいる親友だった。
おそらく、あの魔族はそんな願望さえも見透かしていたのだろう。全く嫌な連中だと辟易しながらも、ほんの少し感謝もしていた。
ただただ、他愛のない話をしたい。そう思っていたから。
各々が決意を固めても、時は残酷に過ぎてゆく。
異形の魔族・怪の集団はとうとう各地に侵攻を始めた。レクターン王国も例外ではないが、すでに対策済みだ。
神託に基づき、王国魔法士団を各地に展開。迎撃体制も整っていたため、これまでのところ犠牲者の報告は上がっていない。
しかし、想定以上に魔物の数が多く、仕留め損ねた個体も少なくはない。
それらは魔法士団には目もくれず、王都方面へ一斉に飛び立っていったという。
「確かに、人口密集地の方が制圧という意味では効果的だな」
「感心してる場合か? いよいよ王都に魔族が来るってことだぞ」
「感心したつもりはない。情報を分析しただけだ」
堅物め、というミシェルの悪態はないものとして、オルセトはその場にいる者たちを振り返る。
ソファの上でくつろぐ緊張感のないウオルク。緊急事態にも動じない第一王女ネオン。一人青ざめ、今にも泣き出しそうな第二王女クリプトン。
「状況は今お伝えしたとおりです。魔族は明朝にも到達するでしょう。それまでに、非戦闘員の退避を完了させる必要がある。ネオン様はクリフ様と、」
「イ・ヤ」
腰に両手を当て断固拒否するネオン。
予想していたことではあるが、やはり奇妙な脱力感は拭えない。
「それぐらいは言うこと聞いとけよ……」
「絶対イヤ! この国の一大事よ? 黙って見てらんないわ! それになんだか……血が騒ぐじゃない?!」
ウオルクの勧めにも耳を貸す気配はない。
ちなみに王も王妃も、オルセトらが不安になるほど娘たちの動向には干渉しない。愛情がないのではなく、愛故に、本人たちの自由意志に任せているのだ。それを分かっているから、オルセトもミシェルも無下にはできなかった。
それでも、彼女が何と思おうと一国の王女であることに変わりはない。
「ネオン様。これは遊びではありません。正真正銘の殺し合いです。貴方様ご自身が命を落とす可能性も否定できない。それでも?」
「言ったでしょ、オルセト。“レクターンでは誰も死なせない”。あたしも含めて、ね」
強い意志を宿した碧色の瞳。そこには迷いも揺らぎもない。
「……承知しました」
一度決めたらてこでも動かない王女だ。これ以上の議論は平行線を辿る一方だろう。
オルセトは今度は第二王女に向き直る。
俯いていて、表情は確認できない。身体の前で組まれた手が震えている。ただでさえ小さな身体が、一層小さく、儚げに映った。
「クリフ様」
「……も……」
か細い声が鼓膜を揺らす。
「……わたしも、おねーさまみたいに戦えれば良かった……そうしたら……一緒にこの国を、護れるのに」
鈴を転がすような声で絞り出された本音に、目を見開く。
想定外だった。得体の知れぬ相手への恐怖心もあっただろう。しかし彼女はそれ以上に、共に立ち向かえないことに歯がゆさを感じている。
「……クリフ様」
姉と同じ色の瞳に浮かぶは、悔し涙。
それを悟ったから、オルセトは視線を合わせるため屈んだ。
「ただ戦うだけが、“国を護る”ということではありません。ネオン様の御力は確かに心強い。しかし、それでも敵の侵入を許してしまうこともあるでしょう。そこでクリフ様には、『この城に留まり民を護る』という役割を果たしていただきたいのです」
涙を見せまいとする心の表れか、逸らされていた瞳が遠慮がちにこちらを向く。口には出さずともどういうことか、と訊かれている気がして、知らず微笑が浮かぶ。
「貴方はよく我々の目を盗んで王城内を探索していらっしゃるから、どういう所が安全なのか、そうでないのか熟知しているはずです。非戦力の者たちをそこに誘導することが、貴方に与えられた役割です……できますね?」
その自然な笑みを見たクリプトンの双眸が見開かれ、同時に、恍惚とした表情へと変わる。
「……うん!」
やがて花開く、年相応の無邪気な笑顔。
一つ前の表情の真相はオルセトのあずかり知らぬ事ではあったが、第二王女に活力が戻ったことを喜ばしく思うのだった。
翌日、夜半。国王キセノンによる激励のあと、ネオンら一行は広間を後にした。
王と王妃の側で唇を引き結び、皆の背中を見つめるばかりのクリプトンだったが。
「オルセトっ! 絶対に帰ってきてね! じゃないと許さないからねっ!!」
部屋中に響き渡るようなラブコールを送って数秒、はっとして。
「ミシェルも! おねーさまもっ!!」
「ついでですか」
何事か叫び続ける第二王女に笑いをかみ殺しながら、戦地へ向かう。
その声が遠ざかるほど、歩を進めるほど、引き締まる表情。微笑ましいやりとりは当分、胸にしまい込まねばならないのだ。
城外には既にレクターン王国騎士が集合していた。皆一様に空を仰いでいる。
早朝の空に、細長く白い物体が数十。
この世界に『飛行機』は存在しない。そして、羽を広げず飛ぶ動物もまた存在しない。
誰からともなく構えを取った、直後。細長い物体はその姿のまま、槍のように降り注いだ。
あちらこちらで砕け散る石畳。まだ破片や砂埃が舞う中、鋭利な何かが煙の向こうから突き抜けてくる。
反射的に斬り捨てた半透明なそれはその一瞬、動きを止めたものの、あろう事か牙を剥いて食らいつかんとしてきて――
『水』が物体を串刺しにした。
周囲に水気はない。あるとすれば、空気中。
四大元素を意のままに操る術は、この世界にたった一つ。
「楽しそーなことしてんじゃん?」
軽薄な声が上空から問い掛けてくる。
白を基調としたローブが暗闇に良く映える。亜麻色の長髪は首の付け根で束ねられ、風になびいている。姿だけを見れば中性的な魅力のある青年、といったところだ。
彼と最近接点があったのはミシェルだが、貧巷での浮ついた様子を彷彿とさせる台詞に、変わってないな、と苦笑いを浮かべるしかない。
「あのー皇子? これは決して楽しいことでは……」
「レミオル皇子! こちらが要請した部隊は手配していただけましたか」
オルセトにとっては些末なことなのだろう。ミシェルの苦言を遮り、用件だけを尋ねる。
「ああ~ソレな! バッチリ」
緩く告げたと同時に、彼を取り巻くように白い集団が音もなく現れる。
口元だけを外気に晒した集団は一斉に右腕を上げ、騎士たちに向けて振り下ろす。すると、各々の武器が青白く輝きを放ち出した。
大魔法【絶対者の息吹】。物体に魔力を宿すことができる魔法だ。
「これでアンタらもマトモに戦えるってこと。良かったな~。人手が足りねーんでこいつらはこれでお暇するけど、あとでむさ苦しいのとうさん臭いの来るから! それと~……」
視線を彷徨わせ、誰かを捜しているらしい。やがて菫色の瞳が歓喜で見開かれる。
「おぉ~! 橙の髪と左二の腕に大きな古傷……ウオルク・ハイバーンだな?」
「……確かにオレがウオルク・ハイバーンですけど?」
騎士隊長らの「皇子」という呼称を耳にしていたためか、彼にしては珍しく敬語で応答する。誰かから伝え聞いたような問い方に、多少警戒していたこともある。
他方、「皇子」レミオルは感慨深げに頷いていたかと思うと、やおらびしっと人差し指を向けてくる。
「アンタに伝言! 『この戦ののち帰ってくるならば、以前の件は不問にする』。ガイラオ騎士団団長名だ」
呆けていられたのは僅かな時間だけだった。魔物たちの攻撃が再開されたためだ。
いつまで続くのか、終わりは来るのか、誰にも分からない戦争。
しかし、少なくともウオルクの心には、もう蟠りはなくなっていた。




