第百二十二話 回り出す歯車(1)
――『すぐ終わらせる』。
その言葉通り、結末はあっけないものだった。
半液体の生物は、音とも声ともつかぬ『悲鳴』を上げ、霧となって消えたのだ。
少年が残った下半身を縦に斬りつけたことが、その決定打となった。
使っていた剣は鞘に収まった途端、背景と同化して見えなくなる。
「すごい……」
先ほど学校で会話した限りでは想像もつかない姿に、思わず声が漏れる。
「……は?」
「ごっ、ごめん! でもっ、」
その顔と声が明らかに不機嫌を表したそれで、碧はつい平謝りしてしまう。
「今の……剣でしょ?! あたしそーゆーの好きで……! でもそんなの漫画の世界のモノだし諦めてた……だから、嬉しかったの! 生まれて初めて見たから……」
「……!?」
色素の薄い瞳が見開かれる。
「あんたまさか……記憶が……」
「え……?」
眉間に寄せられた皺がさらに深く刻まれた。何かを探るように碧を見つめ続ける。
どれくらいそうしていたのか。
表情に影が差したかと思えば、くるりと踵を返してどこかへ走っていく。
「あっ、ちょっと!」
引き留める声が届いているのかいないのか、少年の姿はあっという間に小さくなった。
(“記憶が”って……どういうこと……? あたしのこと何か、知ってるの……?)
少年は今し方得た情報を伝えるべく、脳内で人物名を反芻した。
しかしそれよりも先に、「あちら」から呼びかけがあった。ホントにこういうとこは、とついつい苦笑してしまう。
【紫憂。見つかった?】
【……見つかった。そっちは?】
【見つけたよ。――でも、戦意喪失状態】
【戦意喪失か……こっちはもっとタチ悪いかもしんね】
【……どうして?】
大人しい性格を表すような静かな声に、一瞬言葉を詰まらせる。だが、考えている時点で既に相手には筒抜けだ。
小さく息を呑む気配がして、それでも「紫憂の口から聞くまでは」という決意が聞こえた。こちらも腹を括らねばならない。
【……記憶喪失。それに……神力も消えてる】
「彼、夏休み前に来てあの人気。家の事情とかで、長くても半年くらいしかいられないんだって。ハーフらしいんだけどなんか聞いたコトないとこで、話通じないことも結構多くてさ。不思議君ってヤツ? イマイチ掴めないんだよね。ってゆーか「たまにヘンなこと言うかもしれないけど気にしないで」って、自分で言ってたし」
――彼は自分のことを知っている。おそらく、この三ヶ月間どこにいたのかも。
始業式の朝、隣席にできた人垣を見て碧は思う。
異形の化け物と、それを勇者の如く切り裂いた剣。
夢でも見ていたかのような非現実的な出来事だ。けれども、決して白昼夢などではないことを、心のどこかで悟っていた。
一週間が過ぎ、それは確信に変わる。
明海もいやに鋭く、聞いてもいないのに彼の詳細を話し出す。
もっとも、聞いていないだけで知りたかった内容には違いないが。
「そーそーそーいえば“剣道が得意”とか言ってたよー? 彼氏作るチャンスなんじゃないのー? お互い知り合いなんだし、向こうも満更でもなさそうだしー」
「だから知らないんだってば……」
明海のお節介にげんなりしながら、流し目で隣を見る。
紫憂と目が合った。
満面の笑みを浮かべ、手まで振ってくる。
整った顔だ。彼の周りに集まる女子たちの気持ちも分からないではない。
しかし、この中性的な容姿の少年が、あの化け物を斬り殺したのだ。
あれは一体何だったのか。そして、あの剣は一体どういう仕組みで出し入れしているのか。
そもそも、彼はどういう経緯で自分のことを知って、助けてくれようとしたのか――。
そんなことをつらつらと考えていると、明海が焦ったように囁きかけてきた。
「碧。眼力強すぎ。睨んでる、それ」
碧の視線を「気がある」と捉えたのか。それとも元々「その気」があったのか。
その日以降、彼からのアプローチが始まった。
アプローチと言っても、登下校時の簡単な挨拶だけだ。どこからともなく名を呼びながら走ってきて、必ず肩を叩いて去っていく。
ようやく無くなったと思われた陰口が、主に女子生徒を中心に再燃したのは無理もないことだった。
「目立たないクセにさ、調子乗ってない?」
「なんで紫憂くんがあんな地味子なんかを……」
「一学期始まって、すぐにいなくなったアレ、どっかでそーゆーのベンキョーしてたんじゃない?」
微妙な死角から攻撃する声に向かって、明海がずんずんと近付いていく。
「え、なに?」
揃って困ったような笑みを浮かべて、戸惑っている体を装う。
録音などしていない以上、下手な言動を取れば、たちまちこちらが不利になる。
「お前らはまず、そーやって陰でグチグチやってるからモテないんだってことを学習しろ」
喚きちらしたいのをぐっと堪え、最大級の皮肉を口にして、明海はひとまず退いた。
「えーなに今のー」
「こわーい」
「うちらなんかしたー?」
「っも、もういいよ、明海。ありがとう」
「明海ちゃん、もうやめなよ」
被害者意識さえ抱いて、互いに慰め合う女子生徒ら。
まるで本当に何もしていないかのような彼女らに再び怒りが湧く明海だったが、碧や左保がなんとか抑え込む。
このままではいけない。また友人たちに助けてもらっている。
言いようのない罪の意識が碧の胸中を支配するのに、そう時間は要さなかった。
「じゃあなー碧!」
「あのッ!」
いつもと同じ、肩を叩いて走り去ろうとするその背中に、碧は思いきって声を掛けた。
思いがけず声量が大きかったため、何人かの生徒が碧を見る。そんな中、彼もきょとんとした顔で振り返った。
「そういうの、やめてほしいんだけど」
気付いてもらえたことにひとまず安堵するが、和める状況ではない。
碧自身自覚できるほどには、表情は固く、強ばっていた。
「あたし、あなたのこと知らないし、それほど仲良くない。だから、毎日“碧”“碧”って言われるの、正直すごく怖い。それだけじゃない。あなたがそうやって、あたしに声を掛けるのが嫌な人もいるんだよ。たぶん、気付いてないと思うけど……」
彼は今、どんな心中で自分の話を聞いているのだろう。先ほどと同じような表情をしているため、感情の変化が読み取れない。
「あたし思うんだけど、誰かと勘違いしてるんじゃない? あなたの知ってる“碧”はここじゃなくて、別の所にいると思う。だから……」
紫憂は吹き出した。
「……えっ?」
それまで真剣に訴えていた碧だが、予想の斜め上の反応を返されたため、思考が停止した。
他方、よほど面白かったのか、ついには声を上げて笑い出す紫憂。
その異様さに、立ち止まっていた生徒たちは皆我に返り、足早に帰路についている。
「はは……っ、わりーわりー! えーっと、なんだっけ……あ、そうそう、“オレのこと知らない”? いーんだよ、それで! むしろ知ってたら色々メンドーだし」
自分の嘆願のどこが面白かったのか、何が“色々メンドー”なのか、碧にはさっぱり分からない。
「あと、あんたはオレの知ってる“碧”で間違いないよ。なんでかって? それはさ……」
次にはまた、にっこりと微笑んで。
「あんたとオレはまだ会ってないから! 挨拶は自分でもやりすぎてたと思うから、気をつけるわ。じゃっ!」
(はぁあああああ?!)
一方的に宣言して、夕焼けの下駆けていく紫憂。
挨拶の件は「気をつける」とは言ってくれたが、また新たな謎が生まれてしまった。
「全ッ然意味が分からない……」
「あれが不思議君の真骨頂よ……」
脱力する碧の肩を、明海が労りを込めて叩く。
「もしや彼、未来人なんじゃない?! ホラ今新婚ほやほやの親戚とかいないの?! 思い出してみ!」
「明海ちゃん落ち着いて」
鬼気迫った表情で碧に詰め寄る明海を見て、左保が慌てて間に入る。
碧ほどではないが、明海も年相応の好奇心は持っている。ひとたび不思議なことが起こると興味津々になるのだ。
「思い出せって言ったって……」
母は一人っ子だし、父方のいとこも今のところ結婚話はなかったように思う。それ以外は分からない。
けれど、どこか懐かしさを覚えるのも事実。
親戚でなければ、過去に会った人だろうか。
(え……?)
「っう……!!」
誰かの顔が一瞬浮かんだと思った瞬間、激しい頭痛が襲う。
まただ。
「ちょっ、碧?!」
「碧ちゃん!!」
呻き声を上げて蹲る碧を見て、明海も左保も慌てふためく。
「あ、あたしやらかした!? なんかトラウマ呼び起こしちゃった?!」
「だ……大丈夫……」
「でも碧ちゃん顔色が……!」
「よ……よく分かんないけど……ヘーキそう……」
事実、その頃には頭痛は治まっていた。
ゆっくりと立ち上がる。少し倦怠感はあるが、普段通り歩ける。その姿を見て、左保たちも落ち着きを取り戻す。
「ゴメン碧、調子乗った」
「彼の話題はタブーね」
彼女らも、何が碧を苦しめたのか直接的な原因は知らない。しかし、あの転校生が絡んでいるのなら、なるべく触れるべきではない。そのことだけは理解した。
「でもそんな症状出るくらいなんだから、やっぱりなんかあったんじゃ……」
「んーと……」
「ダメよ明海ちゃん」
その様子を、少し離れた建物の陰から見つめる紫憂。
小さな溜息を吐いて、全神経を脳に集中させる。
【橙綺】
【どう?】
【今のところダメそうだわ。思い出そうとするとストッパーがかかるっぽい】
【慎重にね】
【分かってるよ。そっちは?】
【変化なし。そろそろ白兎さんたちと接触してもいい?】
【あんまり踏み込むなよ】
【うん】




