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第百二十一話 醒めない夢(2)

 その後は明海あけみ左保さほ、きよ子からこの三ヶ月の出来事を聞いたが、どれも全く頭に入ってこなかった。その間自分はどこで何をしていたのか、そればかりを考えていたからだ。


 学校へは、その日のうちにきよ子が連絡を入れ、早速復学できることとなった。

 今は八月半ばだが、来週一度だけ登校日がある。どこかで失くしたらしい長袖の制服も、しばらくは必要なさそうだ。


 ただ一つ、困ったことと言えば――


蓮野はすのさん?!」


「ホントだ、蓮野さんだ」


「えっ、マジで?!」


「あれっ、蓮野じゃん」


「どこ行ってたんだろーね」


「ヤバイことしてたんじゃないー?」


 正面から、横から、陰から注がれる好奇の目。


 行方不明になっていた人間が何事もなかったかのように登校すれば、あれこれ憶測が飛び交うのはやむを得ないだろう。

 しかし、あおいの隣の席、彼女の親友である明海にとっては我慢の限界のようで。


「るっさい!! 碧は珍獣じゃないんだからイチイチ騒ぐなッ!」


 激しく机を叩き、立ち上がる。

 その一瞬は静まりかえった教室だが、「おォー怖ぇー」「さすが鬼の委員長」と、今度は彼女に対する陰口が広まる。称されるとおりの「鬼の形相」で睨み付ければ、今度こそ囁く者はいなくなった。


「ありがとう」「お安いご用」と眼で会話していると、隣席――明海とは反対側――から裾を引っ張られる。

 同時に、声変わりしたてのような高すぎず、低すぎない声が届いて。


「アンタ……“碧”?」


(――うわ、)


 振り向いたその先の人物に、絶句した。


 下顎のあたりで切り揃えられた、ふわりとしたラベンダー色の髪。頬杖をつきながら、こちらをまっすぐ見つめる瞳は、細すぎず大きすぎない若葉色。中性的な顔立ちだが、この学校の男子が着用する制服を身に纏っている。


「あ、やっぱり碧だ」


(だっ、だだだ誰この美少年はっ?! ていうか“やっぱり”って何!?)


 碧が何か発する前に、彼の方で解決してしまったらしい。悪戯っぽい笑みを浮かべるその姿に思わずぼーっと見とれてしまったが、名を呼ばれるような知り合いでもなければ、碧の記憶に引っ掛かる人間でもない。


「なに驚いてんの? ……あ、そっか」


 泡を食う碧を不思議そうに眺め、またもや一人納得したのか、ぽつりと呟いて。


「おれ紫憂しうい。ヨロシク碧」


(なっななななな!?!?!?)


 簡単な自己紹介は根本的な解決にはならず、碧をさらに混乱させるだけだった。


 そして、その一連の流れを明海が見逃すわけもなく、移動教室中の格好のネタになる。


「なによー碧ー。イイ感じじゃん」


 肘で軽く小突かれるも、碧の方は全く心当たりがない。


「あっちが馴れ馴れしいだけだよ」


「向こうはあんたのこと知ってるっぽかったじゃん?」


「あたしは全然知りませんー」


「えー」


 明海は納得がいかないようだが、知らないものは知らないのだ。

 けれど――どこかで会ったことがある気がするのも事実だった。また追随がくるだろうから口には出さないが。


「どう思う、左保?」


「うーん……」


 当事者を置いて意見を交わす二人を横目に見ながら、碧は考える。

 これが既視感というものなのだろうか。あんな変わった髪と目の色を見れば、忘れるはずがないのに。


 それともこれが、前世の記憶というやつか。ということは、彼が前世の家族だったりするのだろうか。

 それとも友達か、恋人か――。


 膨らんでいく妄想の合間、サブリミナルのように浮かぶ顔があった。


(え……?)


「痛ッ……!?」


 突き刺されたような鋭い痛みが碧の頭部を襲う。


「どした碧」


「……? なんでもない……」


 明海がそう訊ねてきた頃には、その痛みは嘘のように治まっていた。


 今のは何だったのだろう。あまりにも一瞬で朧気だが、確かにあれは人の顔だった。

 この間の着物といい今日の顔といい、怖いことばかり起こるなぁ、と薄ら寒さを感じていると。


「おっ、蓮野。いーとこにいたな。放課後職員室に来い」


「えっ」


 それらよりももっと恐ろしい現実が、彼女を待ち構えていた。





 放課後、昼下がり。うだる暑さと、蝉の声。

 そして、塔のようにそびえる課題の山。


「まぁこれくらいにはなっちゃうよね~~……三ヶ月もほっつき歩いているからだゾ不良女子!」


「明海ちゃん! 碧ちゃん、私で良ければ力になるよ!」


「うん……ありがとう……」


「おおーさっすが学年イチの秀才さんは言うことが違う!」


「何言ってるの、明海ちゃんも手伝うでしょ」


「ぅええ?! ん、ん~……いいけど……数学だけはホントムリ」


 二人の優しさが不幸中の幸いだ。少しだけ放心状態から立ち直る。

 そもそも何故こんな事態に陥ったかと言えば、自分自身が『行方不明』になっていたからだ。それを考えると、途端に怒りが湧いてくる。


(ホントにあたし、三ヶ月もどこで何してたのよーー?!)

 

 結局その日は、明海と左保、場合によっては教科担任に教わりながら、夕方まで課題に明け暮れた。

 ほんのり橙色に染まる住宅街を歩きながら、労いの言葉を掛け合う。


「あと一週間で終わる気がしないよ~。また手伝ってくれる?」


 弱音を吐くと、左保がすぐさま反応する。


「二学期まではほとんど毎日夏期講習が入ってるんだ……でも、夕方からで良ければ」


「全然大丈夫! なんなら泊まってってもいいよ!」


「じゃあ、明後日塾が休みだから、明日泊まってもいいかな?」


「もちろん! 明海は?」


「あたしも明後日は部活ないし、お邪魔しよっかな~」


「恋バナ恋バナ!」と意気込む明海に、「勉強も教えてね」と釘を刺すと、「分かってるよ~」と苦笑い。


 左保はこれから出かける所があるのだと言う。勉強に付き合わせたことを詫びると、これから待ち合わせだし大丈夫と返される。

 どうやら進学校に通う彼氏と会うらしいことを察して、思わずにやりとすると、明海も同じ考えだったらしく、根掘り葉掘りと聞き出す。


 一週間前まで抱いていた戸惑いや不安は、もうなかった。

 あるのは、これまで通りの幸せな日常。


 こうして友人たちと他愛のない話をして、家に帰れば母が美味しい手料理を作ってくれる。飛び上がるほどの幸せではないけれど、こうしていつも通りの日々を過ごせることを、心からありがたいと思った。


 ――それなのに、何かが足りない。空虚さを、埋められない。


 これ以上何を望むというのか、心に問い掛けても答えは返ってこない。

 けれど、心の奥底はそれが何かを知っているようだった。

 今の生活と同じくらい、碧にとってかけがえのないものがあるのだと。


 瞬間、またあの頭痛が起こる。

 耐えきれず上げた呻き声に気付いたのか、左保が覗き込んでくる。


「碧ちゃん?! 具合悪そうよ、大丈夫?」


「……ん……大丈夫……ちょっと頭……痛いだけ……」


「でも……」


「今日、用事あるんでしょ? ホントに大丈夫だから、気にしないで」


 申し訳なさそうに頷く左保に代わって、明海が申し出る。


「あたし、送っていこうか?」


「へーき、へーき……すぐ治ると思うし……」


「なんかあったら連絡してよ?」


「気をつけてね、碧ちゃん」


 後ろ髪を引かれる思いの二人に手を振って、碧は一人家路を辿る。





 暗い闇の中、浮かび上がる少女の姿を、忌々しげに見つめる者がいた。

 髑髏どくろの首輪、ベルト、斑模様の鎧を身に纏い、紺碧の瞳は黒く淀んでいる。


「小賢しい……」


 金色の、後ろ髪と同じくらい長い一房の前髪を掻き上げ、彼はどこともしれぬ空間に向かって宣言した。


「『シルマシ』を放つ」





 痛みは大分落ち着いてきた。自宅ももうすぐだ。

 しかし、何故だか身体が重い。引きずるように足を動かす。


 今日はやけに静かだ。いつもは近くの公園から子どもたちの声が聞こえるし、遠くで電車の音が聞こえたりするのに。


 そういえば、あれだけ煩かった蝉の鳴き声も聞こえない。

 急に心細くなって、後ろを振り返った。


 何かがいた。


「……! ……」


(えっ、声出ない)


 不審者に会ったら大声を上げろと言われてきたが、いざとなると喉の奥でかき消えて声にならない。

 まずもって、『それ』を人間に分類して良いのかどうかも怪しかった。


(なに、これ。化け物?)


 人型をしたゼリー状の生き物が、そこにいた。

 高さは成人男性ほどだが、いかんせんその手足が長すぎる。尖った頭部に顔はなく、矢形の模様が人で言う股の辺りまで伸びている。


 ずるっ、ぺちゃ、と不快な音を立てながら、その人型が近づいてくる。


(……逃げなきゃ。……あれ? なんで? 力入んない)


 ようやく脳が警鐘を鳴らすが、肝心の身体が言うことを聞かない。

 そのうち人型がゆっくりと片腕を上げて、こちらに向ける。


 指のない手が急激にドリルのように回転し、先端を尖らせていく。

 そのまま酷くのったりと、しかし確実に歩み寄って来れば、嫌でもあることに気付いてしまう。


(ウソ。あたし、殺されるの? こんなトコで、こんなよく分かんないヤツに? やだ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ)


 身体ばかりが震えて、足も腕もびくともしない。何故こんな不可解な化け物に狙われなければならないのか、それすら分からない。

 一つだけ理解できたのは、これまで意識したことのない死への恐怖。


 液体が身体にかかって、ドリルが目前に迫って――


 その胴体が、上下に真っ二つに割れた。


()()()()グズだな、あんた」


 聞き覚えのある声が、鼓膜を刺激する。

 少し遅れて人型の上半分が地面に叩きつけられて、その向こう側にいる人物を認めた。


 薄紫の髪、柔らかな黄緑色の瞳。

 その手には、銀色に輝く剣。


「……そこで見てな」


 何故彼が、何故そんな物を。

「何故」がない交ぜになって、相も変わらず力の入らない碧を横目に、彼は告げた。


「すぐ終わらせる」

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