第百十九話 水面下(2)
「『この世の果て』だァ? あれは作り話だろ?」
四百年前の戦争を(真偽は別として)大部分の者が知っているように、その名もアスラントでは知れ渡っている。獣人の白兎も例外ではない。
「それが普通の反応だね。でも、『この世の果て』は実在してる。王族や、一部の貴族の間にだけ伝えられてきたんだ。その実態は、あらゆる無理難題を可能にする薬草が群生している桃源郷。『不老不死の島』とも呼ばれてる。ちなみに、巫女の森にある『この世の果て』の傾きは、島の在処を指し示してるって俗説もある」
「で、なんでそれが魔族の目的につながるンだよ? アイツらは何もしなくても不老不死みてェなモンだろ?」
眉間をこれ以上ないほど寄せ、疑念を露わにする。
「島にあるのは何も、不老不死の薬草だけじゃないからね。単純にその島を支配したいのか、それ以外の目的がまだあるのか、僕も本当のところはよく分かってないけど、魔族が望む何かがあっても不思議じゃない」
ミリタムの実家であるステイジョニス家も、先ほどの“一部の貴族”の一つ。『早熟』の薬草を、いくつかの魔法と掛け合わせると、今の彼のように年を取った姿になれるのだという。
このように魔法と相性のよい薬草も少なくはなく、魔族にとっても魅力的な島であることは想像に難くない。
「それに、ラニアのことだけど……羽根が見えたんだよね?」
「あァ。そういやアイツ“エルフの血族”がどうとか言ってたな」
白兎の言葉を受け、顎に手を当て神妙な面持ちで考え込むミリタム。
「……ラニアはなるべく一人きりにしない方が良いかもしれない。レイトじゃないけど、珍しい物好きは世の中にたくさんいるからね。そうじゃなくても、島の所在を知りたい人や人じゃないモノが狙って来る可能性だってある。エルフはその島の住人で、さっき言ってた薬草を栽培しているっていう説があるんだ」
「……場所は、巫女の森の樹が示してンだろ?」
「島の所在は日々変わるらしいよ。樹の傾きが変わってるかどうかまでは知らないけどね。それに、島に入るには「権限」が要る。ただ行くだけじゃ入れないようになってるんだよ」
「ンなこと言ったって、コイツは権限も島の所在も知らねェだろ……」
横たわる少女に視線を落とす。
閉じられた下瞼から頬にかけて残る、涙の痕。
「僕もそう思う。でもお構いなしの人もいるから」
やりきれなさに沈黙が落ちる。
人間にしろ、そうでないにしろ、欲望を満たすためなら手段を選ばない者がいるのは事実。
魔族との決戦は近いだろう。しかし、そんな場所に今のラニアを連れて行くわけにはいかない。
かといって、置き去りにするわけにもいかない――。
最良の方法を考える合間、荒い息遣いが徐々にこちらに向かってきていることに気付く。
まさか、と二人が同じ人物を思い浮かべた矢先、息も絶え絶えに彼はその部屋の入り口に寄りかかった。
「イチカ?!」「ポーカーフェイス?!」
崩れ落ちそうな包帯だらけの身体を二人がかりで支える。
しばらくは起き上がることもできないだろうと、先日回診に来た医師に言われたばかりだ。傷口はほとんど塞がっているが、もう一つの外的な要因が厄介だと。
「まだ瘴気のダメージが残ってるんだ! 動いちゃ、」
「……ぃ……が、」
「……え?」
「気配が……消えた……」
「イチカ?!」
糸が切れたように倒れて最悪の事態が脳裏を過ぎったが、気を失っただけだと分かり胸をなで下ろす。
戦力差がありすぎる相手と対峙した場合、短時間瘴気に触れただけで心身に変調を来すこともあるという。運が悪ければ廃人になっていた可能性もあるのだそうだ。
峠を越えられたことに安堵する一方で、自分たちの無力さを思い知る。
二度とあの紫の影と相見えることのないよう、祈ることしかできないのだから。
「“気配”って……?」
来るかもしれない未来よりも、現実を見る。
イチカの言葉の意味。
一体誰の気配が消えたというのか。
「!」
考えあぐねていると、白兎が不意に鼻を鳴らし始めた。その顔色が、みるみるうちに深刻なそれになっていく。
「アイツの……アオイの、ニオイがねェ……!」
最初こそ渋々部屋を貸していた宿主だったが、気弱ではあるものの人が良いのか、数日後には一行のために人数分部屋を確保してくれていた。今は皆別の部屋だ。
イチカを寝かせてそこを飛び出し、碧の遺体を安置していた部屋を開ける。
氷の棺は溶けずにあるのに、中はもぬけの殻だった。
同じ頃、巫女の森でも異変が起きる。
祈りを捧げていたサトナが、何かに気付いて弾かれたように顔を上げ、振り返る。
「ヤレン様?!」
思った通りの人物が、思いも寄らない姿でそこにいた。
ただでさえ朧気な姿は、輪郭も分からぬほど背景に溶け込み、疲弊しきったような表情も注視しなければ分からない。今にも消えてしまうのではないかと不安になるほどの儚さに、胸が締め付けられる。
「心配するな……」
「ですが……!! 一体、何が……!!」
いつも側で聞いていた少し低めの落ち着いた声が、今は遠い。そのことが、より心細さを加速させる。
そっと何かが肩に触れた感触があって、そちらを見遣る。ヤレンの手だ。
大丈夫だ、と真っ直ぐにこちらを見つめる瞳は力強くて、気持ちが落ち着いていくのを感じる。彼女が小さく微笑んでいることにも気付けた。
「禁術を使っただけだ……」
「禁術……?」
“だけ”って、と苦言を呈したくなるのを堪え、次の言葉を待つ。
「そうだ……一か八かだったが……成功したらしい……「今」、確認した……」
「なんの……禁術を使ったんですか……?!」
サトナの問いに、ヤレンはやつれた表情をしながらも、自信に満ちた笑みを浮かべる。
「異世界へ飛ばす術さ」




