第百十二話 戻らぬ幸福(3)
信じたい。信じられない。信じていい。信じては駄目。
そもそも何故、こんな取り留めのない問いを自ら繰り返しているのか、ラニアは分からなくなっていた。
ただ、身体だけはずっと寒冷地にいるかのように震えが止まらない。
言いようのない恐怖の中、信じるかどうかの狭間をさまよい歩く。
そうして地面の一点を見つめるでもなく見つめていたとき、視界の隅が一層暗く影を落とした。
まだ暗くなるのか。
恐れおののく彼女が見上げた先には、『光』があった。
常夜の闇と思われたそれは、彼女のよく見知った人物――婚約者の青年だった。
同時に、思い出す。彼が実は魔族で、自分たちの敵だという。
けれどもラニアは、先ほどまで抱えていた不安を一笑に付した。
今こうして自分の元に戻ってきてくれた時点で、そんなことはあり得ない。
彼のことだ、いつものように自分をからかっていたのだろう。彼らしい馬鹿げた茶番だったのだ。
「……げ、ろ」
「逃……げろ……!!」
兎族の少女の切羽詰まったような声が聞こえる。
一体どうしてそんな苦しげな声を出すのか、ラニアには全く理解できなかった。
青年が、おもむろに何かを差し出す。
花束か、装飾具か。
彼は不定期にいろんなものをくれた。
何をもらってもラニアは嬉しかった。
彼女から何かを贈ろうとすると、決まって断られる。
「僕が欲しいものはもうとっくにもらってるから」。そう言って抱きしめられたものだ。
恥じらいもあったけれど、それ以上に幸福だったのだ。
血に塗れたワッペンを見るまでは。
「その表情から察するに、まだ覚えてるみたいだね? ファズラ君もいいお姉さんを持ったねぇ」
ラニアの弟・ファズラは、幼くしてレクターン王国騎士養成所の門を叩き、見習いではあるが騎士隊員の称号と隊員証であるワッペンを得ていた。
以来肌身離さず身につけていたのに、あの日――魔物が彼と両親を噛み殺した日、どれだけ探しても見つからなかったのだ。
きっと、魔物に喰われたのだろうと思っていた。
それが今、信じられない形で、手元にある。
「君の両親は本当にお人好しだった……気の毒なくらいにね。ちょっと困ったふりをしただけですぐに招き入れてくれたよ。おまけに娘の許嫁になってくれ、なんて言われた日には、笑いが止まらなかった。こんな素性の分からない男を、疑いもしないんだからね。
その点君の弟は唯一僕を警戒していた。たぶん僕が人間じゃないことくらいは気付いていただろうね。生きていれば今頃……そうだね、イチカぐらいにはなってたんじゃないかな? だから彼は最期、君に警告したんだ」
玄関から点々と続く血の痕を、泣きそうになりながら辿る。
変わり果てた両親を、両親と認めるのに大分時間が掛かった。長い手足も、優しく見つめてくれた瞳もなかったからだ。
血痕は奥へ奥へと続いていた。
せめて弟だけは、と縋る思いで走った。
魔物が死屍累々とした部屋の中、姉弟の寝室に少年はいた。
両親とは違って腕も足も眼球もあるが、一方で着ていた衣服や肌の色が分からぬほど体中が血に染まっていた。
慌てて駆け寄ると、まだ息がある。
気配に気付いたのか、ゆっくりと顔を上げる。自分と同じ薄紅色の瞳が、少しだけ輝きを取り戻した気がした。
「……よかった……ねえさんは……大丈夫だった……」
「ファズ! どうして?! どうしてこんな……何で?!」
事態が飲み込めていないのと、動揺で言葉がうまく出てこない。
ファズラは儚く微笑みながらこちらを見つめていたが、不意にその表情が固くなる。
弟の手が何かを投げた、と思った直後、背後で人間の声とは思えぬ断末魔が響く。
そこには、額に短剣が突き刺さったまま絶命している異形の魔物。
只ならぬ光景に硬直していると、ファズラの消え入りそうな声が聞こえた。
「……ねえさん……たぶん、ぼくはもう……死んじゃう……」
「! 何言って……!」
冗談でも言って良いことと悪いことがある。そう咎めようとして、続かなかった。
瞳の光は先ほどまでとは比べものにならないほどくすみ、確かにこちらを見ているはずなのに、焦点が合っていない。
姉に迫る危機を排除しようと短剣を投げた、あの動きはまさに最後の力を振り絞った結果だったのだろう。
知らず知らずのうちに涙は溢れ出て、彼の死期が迫っている事実を認めざるを得なかった。
いやだ、いやだと泣き叫ぶ頬に、震える手が静かに伸びる。
「だから、どうか、お願い……ねえさんだけは、ダマされないで……大丈夫、ぼくが、ねえさんを……護る、から」
看取ったときは気が動転していたし、騙されないように、と諭されても一体誰に注意すればよいのか皆目見当もつかなかった。
それでも弟の最期の忠告は説得力がある気がして、一人になってからは彼女なりに気をつけていたつもりだった。
当時、未熟ではあるものの銃士としての鍛錬は欠かさなかったラニアは、魔物に後ろを取られた反省から気を張り詰めていた。よほどの相手でない限り、誰かがいればすぐさま気配を察知できるほどには。
幸い、それ以降は魔物と出くわすこともなかったが――だからこそ、目の前の青年の言葉は不自然に思えた。
「……あのとき、あの場所にいたのは、あたしとファズだけよ……」
もちろん、ラニアとてまだまだ駆け足だったから、気配を感じ取れなかったとしても不思議ではない。
それでも、彼女と弟の会話を聞き取れるほど近くにいたのなら、彼女の家の異常事態には気付いていたはずだ。
されど、ラニアが悲しみを引きずりながら近所へ助けを求めたとき、青年の姿は見当たらなかった。
それどころか、時を前後して数ヶ月ほど彼とは音信不通になっていたのだ。
側にいたのなら、何故何の行動も起こしてくれなかったのか。
「そうだね。使い魔の話じゃ、君以外は全員殺してきたってことだったし」
ラニアは悟った。
弟の命を懸けた言葉は、既に近くにいる者のことを指していたのだと。
「……じゃあ……あたしの家族を殺したのは……」
地面の砂が爪の間に食い込み血が滲む。
痛みなどなかった。家族が味わった苦痛や恐怖に比べれば、小さなものだ。
「そう。僕だよ」
言い終わるやいなや、響き渡る銃声。
人間の少女の怒りと憎しみが籠もった銃弾は、寸分違わず魔族の青年の額を撃ち抜いた。
あれほどの実力差があった相手に一撃を与えたのだから、奇跡としか言いようのない反撃、で終わっただろう。
しかし白兎の両眼は、ラニアの背中に純白の翼がはためくのを捕らえていた。
(なんだ……? 今、一瞬……)
他方、よほど負傷したことがないのか、静かに額を拭い、血のついた手のひらを物珍しそうに眺めるレイト。
暫くして思い出したように振り返り、何事もなかったかのように歩き出す。
ラニアは即座に銃を構え直そうとする。
相手は家族の仇だ。そのまま帰すわけにはいかない。
「っ待ちなさ……!?」
怒号は最後まで続かなかった。
あまりにも急激に、糸が切れたように倒れる身体を、ミリタムがすんでのところで受け止める。意思とは裏腹に、身体は言うことを聞かなかったらしい。
「驚いたよ。まだ『エルフ』の血族がいたなんてね」
気を失ったラニアを見て、レイトが静かながらも感嘆の声を上げる。
「エルフ……?!」
「獣人の君は見ただろう? 白い翼。大昔には“天使”なんて言われてたみたいだけどね。その実“天使”なんかにはほど遠い、魔法でも神術でもない感情一つで魔族をも凌ぐ力を発揮する、ある意味『結界女』よりも厄介な相手だったよ」
相変わらずの笑顔で、感情を読み解くことは難しい。だが、一瞬――ほんの一瞬、どこか遠い昔を懐かしむような、哀愁を漂わせているように見えたのは、白兎の気のせいだったのだろうか。
「……だけど、エルフは四百年前の戦争で絶滅したはずでしょう?」
「そう、そのはずなんだけどね。まぁ何にしろ、用心しておいた方が良いよ。魔族だろうと人間だろうと、珍しいモノを欲しがる連中はいるからね」
遠ざかるレイトの背中に、ミリタムは納得がいかないと言わんばかりに問い掛ける。
「貴方はっ! 本当に、ラニアを裏切るつもりなの?」
「……心外な質問だねぇ」
振り返ったその顔は、感情のうかがい知れない、緊張感のない笑顔。
「僕は“信用してくれ”なんて頼んだ覚えはないし、彼女は勝手にすがってただけだよ」
「……黙って聞いてりゃ……つけあがりやがって!!」
ミリタムが気付くより先に――裏を返せばそれほどの速度で放たれた怒りの跳び蹴りは、しかし空を切っただけであった。
かろうじて捕らえたのは、屈託のない笑顔で手を振る『敵』の姿。
白兎は、やり場のない怒りを地面に打ち付けるしかなかった。




