第百十三話 戻らぬ幸福(2)
「ソーディアス君」
当惑する人間界の者たちをよそに、レイトはそれまで通りの調子で二刀流の魔族に声をかける。
「クラスタシア君を連れて、一旦引き揚げた方がいい」
なっ、と抗議の声を上げるソーディアス。レイトを注視し、押し黙ったままのクラスタシア。
「承服できません! これは我らが王より授かりし特務! 同胞とはいえ情報局長ともあろうお方にこの場を任せて退くなど、」
「ソーディアス君」
最初の呼びかけと変わらぬ声調だが、どこか有無を言わさぬ気迫があった。だからだろうか、ソーディアスはその先を紡がない。
「敏い君なら解ってるはずだ。今の彼の気が“誰”のものか……そして勝算があるのか、ないのか」
「……!」
ソーディアスは俯き、ぎり、と唇を噛み締める。レイトの意図するところを理解しているのだろう。
「お咎めなら心配ないよ。現に君たちは『結界女』を始末してる。グレイブ殿もそこまで気を悪くしないだろう」
「咎めなど! おれは、ただ……!」
何かを訴えるように口を開閉させるも、想いは悉く声にならなかった。
「ソーちゃん」
一対の剣を握りしめ項垂れるソーディアスに何かを察したのか、それまで無言を貫いていたクラスタシアが口を開く。
「帰りましょ」
童歌のような調子で促したと思えば、次の瞬間には転がっていた両腕を器用に蹴り上げ、自らの肩に引っかける。
そのまま颯爽と歩き去ろうとするクラスタシアに異見を唱えようとして、ソーディアスの藍黒色の瞳が見開かれる。
揺らめく銀髪、その行く末。
クラスタシアが引きつった表情で振り向いたその先には、既視感。切っ先が迫っていた。
しかし、またしてもイチカの剣がクラスタシアに届くことはなかった。人智を超えた速さにも関わらず、イチカはクラスタシアとは反対方面に転がっていく。まるで、巨大な手に掴まれ放り投げられたように。
「やれやれ、間に合ったみたいだね」
イチカの進撃を阻んだのは、やはりと言うべきか――レイトだった。
「以前の『彼』のままなら無詠唱なんて無茶なマネ通用しないだろうけど、身体が生身の人間だからかな? 思いの外あっさり捕まってくれたねぇ。まぁ何にせよ、これで二、三日は動けない」
レイトの言葉どおり、ただ転がされただけのように見えるイチカは微動だにしない。
口ぶりからして命を奪うような魔法ではなさそうだが、一体どんな作用が働くのかさえ分からないのは不気味だ。
そう、無詠唱ということを差し引いても――レイトが用いた魔法は、魔法大国のサラブレッドであるミリタムも了知するところではない。
(状況だけで判断すれば『風』魔法の系統。でも、風魔法そのものに失神させるような効果はない。状態異常は『闇』魔法の範ちゅうだから、『風』と『闇』の複合魔法と考えるのが自然だけど)
しかし、“風魔法そのものに失神させるような効果はない”というのはあくまで人間たちの見解である。この大前提が覆される可能性は否定できない。魔法は元々、彼ら魔族のものなのだから。
(そもそも、単体魔法でさえ専用の魔法具を介することで、最近ようやく詠唱を省略できるようになったのに。もしあれが複合魔法なら、当たり前のように無詠唱で発動させるなんてチートも良いところだよ)
もちろん、「無詠唱」というのもミリタムの主観である。自らにしか認識できないような声量で唱えていれば分からない。
ミリタムはそっと白兎を見た。彼女の耳や目ならば、何か兆候を捉えているかもしれない。
(喋ってねェし、動いてもねェ!)
一連の光景を目の当たりにしていた白兎は、最低限の注意を払いながらもただただ圧倒されていた。
白兎の人並み外れた聴力も、視力も、その瞬間のレイトの実力を裏付ける手助けをしたに過ぎなかった。
前回、相まみえた半魔の少女は、無詠唱であってもそれらしき挙動が見受けられた。しかし、レイトは指先一つ動かしてはいない。人間界で語り継がれてきた「魔族は無詠唱で魔法を発動できる」という話が改めて証明された形だ。
(それにアイツ、底が知れねェ。あの半魔と同じか、それ以上に)
そして恐らく、この中の誰よりも強大な力を持っている。
その気になればいつでも一瞬で、人間たちなど殺せるほどの。
「また借りができちゃったわね、情報局長サン」
引きつり笑いを浮かべながらクラスタシアが振り返る。女性が絡まなければ常に天真爛漫な彼にしては珍しいことだ。
「なに、気にすることはないよ。今回はたまたま利害が一致した、それだけのことさ」
人間たちには知る由もないことだが――元々、彼ら魔族には「助け合いの精神」というものはない。
『一魔王の僕』のように独立した精鋭部隊に所属していれば多少の仲間意識も芽生えることはあるだろうが、他勢力同士で持ちつ持たれつの関係になることは非常に稀だ。まさしく「利害の一致」でもなければ見殺しにしていただろう。
そう。同じ種族ではあれど、決して仲間ではない。
しかし、今のところは敵でもない。
ひとたび利害の不一致が認められれば、ぬるま湯は血の海へと変わる。
「……そォね。それじゃ貸し借りナシ、ってことで」
レイトを見据える眼差しは、いつものようにおちゃらけたそれでも、妖艶なそれでもない。真意を探るような目だ。
クラスタシアの持つ【千里眼】が本来の真価を発揮すれば、心の内に分け入ることも容易いだろうが――そう簡単に胸の内を明かしてくれるような相手ではないことは、これまでの応酬で分かっているはずだ。
諦めたのか、クラスタシアは再び歩き出す。
「じゃあね~魔法士~。ちゃんと清潔にしとくのよ~~」
腕が健在なら左右に大きく振っていたことだろう。
その後ろ姿を、ミリタム、白兎がげんなりとした表情で見送ったのは言うまでもない。
ソーディアスが、一度だけ残った者たちを見遣る。
雌雄を決することができなかったことへの未練か、あるいは別の理由か。人間たちにはうかがい知れなかった。
生ぬるい、一陣の風が吹き抜けて、二匹の魔族の姿は跡形もなく消える。
「久しぶりだね」
「――!?」
唐突にレイトが微笑みかけてきて、真意を測りかねた魔法士の少年と兎族の少女は一層警戒を強める。
その様子を見て彼はいつもの――少年らが何も知らなかった頃のままの、困ったような表情を浮かべた。
「あれ、ひょっとして忘れちゃったのかい? 酷いなぁ。つい先日別れたばかりじゃ、」
「なんのつもりだ?」
冷たい雫が体中に滴るのを感じながら、白兎はなけなしの気合いで言い放つ。
首をかしげる仕草がどこまでも人間くさくて、彼女は心底腹が立った。
「しらばっくれンな……! あのやり取りを茶番で片付けられるほどあたいらはバカじゃねェし、瘴気垂れ流して人間ヅラしても説得力ねェんだよ!」
怒りに任せて一気に畳みかける。
声が震えなかったのは我ながら大したものだ、と白兎は自らに場違いな称賛を送らずにはいられない。
白兎の怒声に驚いたように眉を上げていたレイトは、おもむろに隠されていた双眸を開く。
その瞬間、微量だったはずの瘴気が一瞬にして辺りを覆い尽くした。
同時に、呼吸すら困難なほどの圧迫感に見舞われる。普段の糸目はこの異様なまでの瘴気を隠すためだったのか、と妙に合点がいく。
「ごめんごめん。別に悪気はなかったんだ。ちょっと反応が見たかっただけさ」
むしろそれの何が悪いのか、と言わんばかりの語り口。口先だけの謝罪と言い、蹴りの一つも入れたいところだが、白兎は悪態をつくので精一杯だ。
「……よく言うぜ、化け狐。てめェ、あたいらのこと騙してやがったンだな……!」
「ヒト聞きが悪いなぁ……って言いたいところだけど。君たちの側から見ればそうなるのかな」
ふっと身体に掛かる重圧が引いた気がして、白兎らは顔を上げる。
どこまでも深い闇を思わせる瞳は瞼の奥へと追いやられ、見慣れた好青年風の表情がそこにあった。
「けど安心していいよ。僕は君たちに危害を加えるつもりはさらさらない。僕の目的は君たちとは別のところにあるからね」
魔族には、人間や獣人ほどの仲間意識はほぼない。あるとすれば、互いに利益が生じる場合だけ。
漠然とではあるが、この短時間で二人はそう解釈していた。
言い換えれば、協力に値するほどの有益な何かが裏にあるということ。
それが、彼の言う「目的」。
「さて、そろそろ失礼しようかな。君たちとのお芝居はなかなか楽しかったよ」
先ほどの魔族のように命を狙っているわけではなく、早々に引いてくれると言う。
できることなら終生、と言っても差し支えないほど関わり合いたくない相手だ。一連の出来事を顧みて本能から願う。
それなのに白兎は、引っかかりを覚えずにはいられなかった。
本能に抗ってでも、多少の手傷を覚悟してでも、その歩みを阻止しなければならない理由がなかっただろうか、と。
「待てよ」
彼女の想像とは裏腹に、言葉一つでいとも容易くその足は止まった。
「コイツのことまで芝居だとか言わねェだろうな」
白兎のやや後方。
あまりに過酷な現実を突きつけられ、十五歳の少女は力なく座り込んでいた。
その瞳は地面しか映さない。青年は振り返らない。
永遠とも思える沈黙を是と取ったのか、白兎は声を荒げた。
「全部、ウソだったッてのかよ。あンだけ……あンだけバカみてェにイチャコラして、気持ち悪ィくらいに世話焼いて……! それでも、コッチが恥ずかしくなるくれェに幸せオーラ振りまいてたのも、全部芝居だったッてのかよ?!」
白兎のあまりの激昂ぶりに、ミリタムはその場の状況も忘れて面食らう。
人間のこと、それも、他人の恋愛にそこまで関心があるようには見えなかったからだ。
当の白兎にとっても、ラニアという人間は事あるごとに銃口を突きつけ発砲する恐怖の対象だった。人間年齢相応に惚れた腫れたに興味はあっても、苦手な相手のことである。自身の安全確保が最優先事項だった。
それが、いつからだったろうか。人間というものを知っていくうちに、旅をする中で出会いと別れを経験するうちに、苦手意識は薄れていって。ぼーっと、人間観察をすることが多くなった。
直球の愛情表現を受け止めきれず、照れ隠しに怒ったり発砲したりするラニアは、さぞや扱いづらいだろうと思っていた。しかし、聞くところによると三年続いているらしい。ラニアのそれが愛故の照れ隠しだと分かっているから、ラニアの不器用さも全部包み込むほどの愛をレイトが与えることで、この関係は成り立っているのだと――少なくとも白兎はそう思っていた。それが微笑ましさに変わるまで、時間は掛からなかった。
だからこその逆上だった。白兎の心にはすでに、「里のために仕方なく同行しているだけ」の関係性を超えた何かが芽生えつつある。それこそ里の仲間に勝るとも劣らないほどの。
それ故に、真意を暴かねば気が済まない。
「……あぁ。君の言葉で一つ思い出した」
白兎の猛る思いに対する返答は、あまりにもあっけらかんとしていた。
確かに眼前にいた青年の姿が消え、追及する間もなく思考が停止する。
間もなく体中から吹き出た汗が“魔族”の再来を物語る。
背後に感じる気配に、しかし彼女は振り向くことができない。
振り向けば、殺される。
先ほどの「危害を加えるつもりはない」という言葉はおそらく関係なしに。




