第十二話 同士討ち!(1)
尖った耳が、微かに揺れる。
「クラスタシアか」
獣配士ヴァーストは虚空に向けて、仲間の名を呟いた。その直後、彼が口にしたとおりの人影が、ヴァーストの横に残像を纏って現れる。桃色のドレスと、高く結い上げられた薄黄色の長髪だけが、時間に取り残されたように緩やかになびく。
彼ら魔族はいわゆる「瞬間移動」を駆使するため、気配を察知したときにはすでに目の前にいる、という状況になることが多い。しかし獣並の聴力と察知能力を持つヴァーストにとっては、特に大きな問題ではない。彼は、僅かな音の違いで相手を識別することができるのだ。
「あーらまあ、思い切ったことするわね~~。首、はねられちゃうんじゃない?」
横たわる女を見るでもなく見てから妖艶に戯けてみせるクラスタシアに対し、ヴァーストは小さく息を吐く。
「お前もあの場にいただろう。許可を得た以上、容赦はしないさ」
「そりゃあそうよねぇ」
どことなく嬉々としながら何気なく視線を下ろしたクラスタシアは、その瞳を険しく眇める。
「ヴァースト? まだ生きてらっしゃるみたいだけど」
滑稽さはそのままに、皮肉を込めた声色。その声を合図とするかのように、倒れ伏していた女――烏女の手が動いた。
両腕を震えさせながらゆっくりと、しかし着実に華奢な身体を持ち上げる様を見て、ヴァーストが感嘆の声をあげる。
「ほう。魔族になったことで生命力が上がったか」
ヴァーストの独り言は烏女にとっては重要ではないようだ。両手を地に付け、激しく呼吸を繰り返す合間、涙で濡れた漆黒の瞳が二匹の魔族を睨み上げる。
「ま……おうさ……まが……許可、を……? じょうっ……だん……いわな、いでっ……!」
「冗談ではない。なんならこれを見てみるか?」
冷ややかな眼差しで烏女を見据えたまま懐をまさぐったヴァーストは、何かを無慈悲に地面に叩きつけた。
数枚の羊皮紙に認められたそれを、上手く力が入らない体で食い入るように読み始める烏女。どうやらそれは、ヴァーストらの進言書とそれに対する魔王の回答のようだ。
『――我々は王の手足であり、王の意のまま滞りなく任務を遂行すべき存在である。烏翼使忍者は鉄面皮にも二度にわたり王の顔に泥を塗った。任務を果たさず、いたずらに不利益をもたらすその存在を我々は赦すべきではないと考える。幾度となく失態を犯したその責任は重大であり、故に我々は、敬愛する王に対し烏翼使忍者の抹殺許可を賜りたくここに進言するものである』
『烏翼使忍者の抹殺を許可する。魔星第一区治権者 グレイブ・ソーク・フルーレンス』
たった一行、簡潔に書かれた『許可』の文字。改行後、右に寄せられた署名と寄り添うように押された判。
「そ、んな……!」
一通り目を通した烏女は、絶望に打ちひしがれた。信じられない、信じたくない――そんな思いとは裏腹に、心の奥底では認めざるを得なかったのだ。
(だってこの文字も、この押印の仕方も、ずっと側で見てきた魔王様のものだから――)
想いと共に溢れ出る涙が頬を伝い、血で生成された海に溶け込んでいく。
砂利を握りしめすすり泣く烏女に、ヴァーストは嘲笑を浴びせかける。
「くくっ。擬い物に注がれる愛情など、所詮はこの程度」
「当然よ~~。あの方々にとっても目の上のたんこぶだもの。魔王様にとってどっちが大事かなんて、考えなくても分かるわぁ」
「“あの方々”……ですって……!?」
「おっと。これ以上のことをお前に話すわけにはいかない」
クラスタシアの意味深な発言の意図を探ろうとした烏女だが、ヴァーストが遮るように立ちはだかる。彼の後方、くすくすと微笑むクラスタシアが垣間見えた。
「死ね」
呪詛の言葉が紡がれた瞬間、辺りに充満する異様な邪気。魔族特有の『瘴気』である。
それだけではない。魔族の住まう魔星からの生温い風――『瘴風』さえ吹きすさび、周囲はたちどころに暗黒に呑まれていく。
確かな害意は感じ取れるのに、その正体が掴めない。烏女を恐怖のどん底に突き落とすには十分すぎるほど、得体の知れない空気が彼女を取り囲む。
一層強い風が吹いて、烏女は思わず瞑目した。再び開いた双眸に獣配士を映したとき、その瞳はこれ以上ないほどに見開かれる。
「?! なに、よ……それ……!?」
「同じことを言わせるな。お前に話すことは何もない」
ローブに覆い隠された上半身を凝視する烏女に、ヴァーストはにべもなく言い放つ。
反論する余裕も、回避行動を取る隙も与えられず。
何一つ理解できぬまま、烏女は今度こそ息絶えた。
「ええーーっ!?」
そのあまりにも大きな声量に、木々に止まっていた小鳥が群れを成して一斉に飛び立った。
声の主はラニアである。今にも掴みかかりそうな勢いで、碧に詰め寄っている。
「“魔王の手下の一人に襲われた”ですって!? 大丈夫なの、アオイ!!」
「う、うん」
金切り声と剣幕に圧倒され、耳を塞いでひたすら頷く碧。一旦は落ち着きを取り戻したかに見えたラニアだが、数秒と持たなかった。包帯を施された碧の腕を認めたためだ。
「あーよかった……ってその腕は?!」
「え。ああ、その魔族のヒトに刺されて……」
鬼気迫る様子でにじり寄るラニアにどぎまぎしながら碧が答えると、大袈裟なほど顔に手を当て反り返る。
(こういうところはアメリカっぽいよなぁ)
状況も忘れて分析する碧に、ラニアが微苦笑を向ける。
「まあでも、その程度で済んで良かったわ~。もー少し遅かったら、どうなってたことか」
麗しい笑みは一瞬にして他意のありそうな含み笑いに変換された。目が笑っていない口元だけのその笑顔は、碧と反対方向に座るイチカに向けられている。
「何故おれを見る」
互いに睨み合うイチカとラニア。
物言わぬ冷戦が始まったが、考え事に耽る碧にとっては背景と化していた。
考え事――昨晩の声と、その内容。
(あの声が言ってたことは、本当だったんだ)
「やっぱりあれ、夢じゃなかったのかぁ」
碧としては何気なく呟いたつもりだったのだが、たった五人しかいない狭い小屋内にはよく響く。それまで睨み合っていた者もしくは仲裁していた者は、揃って碧を見てオウム返しをした。
『夢?』
「うん。実はあたしも昨日、頭の中でヘンな声が聞こえたの。“お前は魔王軍に狙われる。あと三人仲間が増える”って」
「それって……!」
「うん。イチカが会ったっていう女の子と、ほとんど同じことを言ってるでしょ? それに、本当に魔王軍が襲ってきた……偶然じゃない気がして」
碧の意見に同調するように、ラニアが頷く。
「その声と女の子は、何かしら繋がりがあるのかもしれないわね。それにしても八人って、大人数ね~~」
「いーじゃん姉さん。オレらの仲間になるってことは、それなりの戦力があるってことだろ?」
「待ってみるのもいいよな~~。八人になるの」
カイズ、ジラーがのんびりと首肯する。心なしか楽しそうな二人の様子を見て、ラニアも「まあ、特に問題があるわけじゃないけど」と考えを改めた。
「みんな、ありがとう」
「水くさいわよアオイ! 『旅は道連れ世は情け』って日本の言葉にあるでしょ?」
「そ、そうだね」
どうやらラニアは日本の諺までも知っているらしい。日本のことを広めたという巫女は、一体どの時代まで網羅しているのだろうか。そんな疑問が碧の頭をもたげるが、不平を並べるラニアの声が思考に割り込む。
「それにしても無責任よね、その声。どうして襲われるかくらい、説明してくれたっていいのに」
「たぶん、何か事情があるんだと思う。“理由は言えない”って言ってたから」
「事情ねぇ……」
「そろそろ次の目的地を考えるぞ」
「兄貴!」
「そのことなんだけど!」
ラニアはまだ不満顔だったが、イチカの一声で切り替えたらしい。表情から険が消える。それとほぼ同時、瞬く間に二人分の腕が天井に向かって伸びる。カイズとジラーだ。
「この近くに『巫女の森』っていう、旅人御用達の場所があるんだけどさ!」
「近くにリヴェルもあることだし、そこ行かないか?」
「へ~~それってどんなところなの?」
新たな地名に興味を示す碧の疑問に、ジラーが答える。
「『巫女の森』は、この世界を救った巫女様が治めていた聖域だっていう言い伝えがあるんだ。それだけすごい人が治めてたんだから、御利益も大きそうだってみんな思ったんだろうな~~。長旅をする人なんかはここに寄って、旅が無事に終わるように祈るんだ」
「あー、そうだ。昨日から思ってたんだけど、その『聖域』とか『治める』とかがよく分かんなくて。そもそも巫女さんってどんな人なの?」
「日本にも巫女はいるんだろ? 同じじゃねーのか?」
ジラーが答えようとしたところに、カイズが割って入る。碧はとんでもない、と言わんばかりに両手を左右に振る。
「同じではないよ! 日本の巫女さんはまず戦ったりしないもん」
「戦わずに何してるんだ?」
「……お守り売ってる」
碧の中の巫女のイメージは、正月にアルバイトとして働いている年若い女性たちのそれでしかない。
困惑した表情を浮かべるカイズとジラーだったが、「まあ、こっちの巫女さんも四百年前の巫女さんが特殊なだけで、ほとんどは聖域を治めてるだけだしなぁ」とジラーが苦笑いを零す。
「改めて説明すると、まず聖域は、神様の力が宿るって言われてる神聖な空気で満たされた空間。「治める」っていうのはまあ、「管理」と同じ意味だと思えばいいぞー。なんでかっていうと、この世界が創られた頃まで話は遡るんだけど――」
古代、アスラントでは各地で天災が頻発していた。途方に暮れていたとある集落では、神の怒りを買ったのだと考え、生贄を捧げる儀式を行うことにするが、生贄選びは遅々として進まない。
そんなあるとき、集落にとっての朗報が届いた。近くに行き倒れの少女がいるという。皆良心が痛まないではなかったが、全会一致でその少女を捧げることが決定した。
集落の外れには不思議と必要以上の草木が茂らない空間があり、その不可思議さから『聖域』と呼ばれている場所がある。儀式はその場所で執り行われることとなり、少女はそれまで聖域に軟禁された。
「ひどい……」
「そう思うよな~~。でも、話はこれからなんだ」
儀式の日が近づくにつれ、人々は不思議に思い始めた。それまで一年中苦しめられていた天候不良が、全く起こらないのだ。また、生贄となった人間は聖域に軟禁されている間も徐々に体力を奪われ痩せ衰えていくのが常だったのだが、不憫に思った女たちが密かに世話をしていた少女に健康上の問題はない。
この世界では滅多に見られない茶色の髪と同じ色の瞳を見て、人々は認識を改める。もしかすると彼女は、神に見初められた存在なのではないか。だからこそ命を取られなかったのではないか、と。
人々は少女に集落で暮らすよう持ちかけた。衣、食、住を提供する代わりに、『聖域』を管理してほしい、とも。少女は快諾し、その集落に留まることになった。
結果的に、人々の予測は正しかった。季節を問わず降りかかっていた自然災害は十分の一程度にまで減少し、日照時間が増えたことで作物も育ちやすくなった。豊富な作物は家畜を肥らせ、嵐に見舞われることもない草原を悠々と歩くことで肉質も向上する。
やがて一大産地となった集落の変わりようを知って、訪問者が殺到した。少女のことを説明すると、我先にと少女の奪い合いになる。その様子を見た渦中の少女はこう告げる。「私やこの空間と同じ力を、世界中に感じます」と。
少女の一言を聞いた人々はそれぞれの故郷へ戻り、世界中に散らばっているらしい聖域と、少女に似た風貌の娘を探すことに躍起になった。聖域の発見にはそれほど時間はかからなかったが、少女を見つけることは容易ではなかった。すぐにそれらしい娘が見つかる地域もあれば、永らく空振りに終わる地域もあった。
確実に言えるのは、黒色、茶色、灰色いずれかの髪と瞳を持つ少女が聖域を管理するほど、天災は減っていくということだった。
いつしか、聖域に満ちる神力を一定に保つことができる彼女らを、人々は「巫女」と呼ぶようになる。また、神の気を落ち着かせられる彼女らへの敬意を込めて、「管理」ではなく「治める」が使われるようになっていく。
「今じゃ、巫女が聖域を治めることでその聖域の真価が増して、結果的に周辺地域の御利益が増すっていう俗説まであるんだ。巫女の森ほどじゃなくても、近くに聖域がある地元の人たちはその存在をありがたがって、足繁く通ってるらしいよ」
日本でも遠くの神社より地元の神社、すなわち氏神様を大切にせよと言われている。やはりこの世界はどことなく日本に似ている。
碧は小さな感動を覚えながら、たった今聞いた話を吟味するように数度頷く。出会った当初、髪の色を引き合いに出して巫女かどうかの議論をしていたのは、この昔話があったからこそなのだろう。
「じゃあ『リヴェル』は?」
「リヴェルは……あ、オレらから説明するよりも姉さんから説明した方がいいかもなぁ~~?」
意味ありげな薄笑いを浮かべるカイズとジラー。その視線を辿ると、湯気が出そうなほど顔を紅潮させ俯いているラニア。
「ラニア? どうしたの?」
「な、なんでもないわ。リヴェルの話よね?」
「う、うん」
どう見ても「なんでもない」わけがない顔色だ。平静を装っているが、額から滑り落ちたと思われる汗が幾筋も頬や顎を伝っている。
「リヴェルはウイナーの隣町で昔から交流が続いてるの。隣町って言っても、山を挟んでるからそう簡単に行き来できないんだけどね。山が近くて自然が綺麗なのを売りにしてる観光地でもあるのよ」
そうなんだ、と頷きかけた碧に被せるような冷やかしが響く。
「あれっ、姉さんそれだけ? 一番重要なこと言ってなくね?」
「大事な話が抜けてるなぁ~~」
「な、なに言ってるのよあなたたち」
どこか芝居がかった口調で何かを促す彼らに対し、後ろめたそうに視線を逸らしながらあくまでもシラを切るラニア。
「あっ、しらばっくれるのか~~。レイト悲しむぞー?」
「アイツなら言いそうだよなー、“婚約者の僕を忘れるなん――」
「カイズ!!」
裏返った怒鳴り声と共に響いた発砲音が、一瞬にしてその場を静まり返らせる。
銃弾は斜め上方、天井に向けて発射されたため、人的被害はないが、あまりにも急な出来事に碧は青ざめる。
他方、平然としている男性陣と、彼らとは対照的に顔を赤らめ、涙目になりながら二人を睨み付けるラニア。「なんで言っちゃうのよ」そんな心の声が聞こえてきそうなほどだ。
(もしかして、さっきカイズが言ってたことを隠そうとしたのかな……?)
だとすれば時既に遅し。ラニアにとっての禁句は、ギリギリのところで遮られることなく碧の耳に届いていた。
(訊いてみたい。けど、怖くて訊けない……!)
悶々とする碧の傍ら、溜息を吐く気配。
「姉さん。アオイ、ビビってんじゃん。とりあえずソレしまおうぜ」
「調子に乗ったのは悪かったと思うけど、一緒に旅することになるんだし、隠してたっていずれは分かることだよ」
二人に説得され、落ち着きを取り戻したらしい。吊り上がっていたラニアの目は元の綺麗な楕円形に戻り、申し訳なさそうに歪む眉。所在なげに彷徨っていた薄紅色の瞳は、やがて碧に定まる。
「ごめんね、アオイ……怖い思いさせちゃったわね」
「うん、ちょっとビックリした」
そうよね、と呟くラニアの表情は先ほどと比べて穏やかではあるが、やはり仄かに色づいている。躊躇うように視線を泳がせてから、観念したように深呼吸する。
「あのね、アオイ。リヴェルには、その……あたしの、婚約者がいて」
うん、と相づちを打ちながら、碧は内心驚嘆していた。これまでは余裕のある大人の女性に見えていたラニアが、自身と同じくらいの少女に思えるほど初々しく映ったからだ。
「隠したこと、悪気はなかったの。ただ、恥ずかしくて。だって婚約者なんて、貴族でもないのに。それも六年前に父さんが連れてきて、勝手に……。あたし、そのときまだ九歳よ?」
「え?」
六年前に九歳だったという事実に気を取られ、その後の話は碧の頭に入ってこなかった。
中学二年の春だがすでに誕生日が来ている碧とは、一歳違いということになる。
(一個違いで、その色気? その大人っぽさ?)
あまりの格差に一人打ちひしがれる碧をよそに、ラニアは完全に自分の世界に入っていた。何やらぶつぶつと言いながら頬を染めて俯いたかと思えば、突然弾かれたように顔を上げて恍惚とした表情を浮かべる。
「ら、ラニア、だいじょーぶ……?」
「大丈夫だアオイ。いつものことだから」
思わずそう訊ねてしまった碧に、ラニアに代わってカイズが答える。後ろではジラーが、悟りきったような顔で静かに頷いている。
一方。
彼らから少し離れた場所、これまで会話に一切加わることなく成り行きを見守っていたイチカは、何かを感じ取り小屋の外に顔を向ける。
「イチカ?」
「外を見てくる」
声を掛けた碧を顧みることなく、進行方向を向いたまま誰にともなくそう告げて。
小屋のドアが、静かに閉められた。




