第百六話 束の間の休息を(6)
「……!」
イチカの左手に現れた変化を目の当たりにして、カイズとジラーが息をのむ。
弟分たちにもよく見えるよう、左手を目線の高さまで持ち上げ、目を閉じること数秒。第二関節から上のない、不格好な手が露わになった。
「なん……だよ、それ……!」
驚きと戸惑い、恐怖を前面に押し出して叫ぶように訊ねるカイズに、イチカは己の左手を見つめながら淡々と話し出す。
「これは魔族にやられた。手強い相手でな。救いの巫女が現れなければ、全滅していただろう」
普段通り沈着冷静なイチカと、役目をほとんど果たしていない左手。それらを交互に映していながら、それでも二人は現実を受け止めきれていないようだった。
出会った当初は、実戦経験もなく遙かに劣る実力だった。そんなイチカが、剣を拾ったことにより覚醒。その日を境にみるみるうちに上達したが、その裏には血の滲むような努力があったことも二人は間近で見て知っている。『兄貴』や『師匠』という呼称は伊達ではないのだ。いつの間にか並び立つまで急成長したイチカの大怪我は、それこそ到底信じられるものではない。
「切られた指は二度と元に戻ることはない……それでも体裁くらいはと、救いの巫女がまやかしをかけて、実際にはあるように見せかけることができている」
イチカは再び目を閉じた。すると、やはり数秒後、何事もなかったかのように爪先まで整った指が現れる。
「おれが奴らに勝つためには、おれ自身に足りないものを身につけなければいけない。それがさっきの戦法だ。型にはまらず、意表を突き、相手がそれに気づかないほど速く……あいつとの修行で、おれが教わったことだ」
「“あいつ”……?」
ジラーの問いに、イチカは一瞬視線を流す。答えを躊躇うように。その答えが、忌むべきものであるかのように。
「セイウ・アランツ。四百年前、アスラントに攻め入った魔王軍のひとりで、救いの巫女と共に封印された――おれの、前世だそうだ」
カイズとジラーは再び息を詰まらせた。眼前で目を伏せている少年の言葉を脳内で反芻しても、俄には受け入れがたいことだった。
「前世、って……兄貴が魔族だったってことかよ?! そんなワケ……!」
「おれも最初は信じていなかった。だが……皮肉だな。奴との修行を重ねるたびに、疑念は確信に変わっていった。戦えば戦うほど、戦法が馴染んでいくのが分かるんだ。おれはこうあるべきだったんだと、思わずにはいられないほどに」
十日弱の修行で、イチカは人智の及ばないスピードと技術を手に入れた。
初めは理解に苦しむ、卑怯な手口だとすら思っていた。しかし、修行を始めてから七日が経過した頃にはそんな抵抗すら薄れ、真っ当な剣術として己の身に浸透していた。
開き直ったというよりは、自分を再構築するような感覚。
自分のことが分からなくなることもあった。否、今もまだ分かっていない。
自分は『イチカ』なのか、それとも――
「師匠は師匠だよ」
ジラーがさも当然のように、深みにはまっていく思考を遮る。
「たしかに四百年前は魔族だったのかもしれない。でも今師匠は『イチカ』として生きてる。オレたちは今の師匠だから慕ってるし、昔がどうだろうと今さら何も変わらない。それでいいと思ってます」
ジラーの述懐を受け、カイズもばつが悪そうに後頭部を掻く。
「……まぁ、魔族に勝つためならしょーがねーよな。そん代わり、今の手合わせはナシな。つーかあんなの手合わせじゃねーし」
「カイズ、負けたからってそんな拗ね」
「拗ねてねえっっ!! あと負けてねえし!!!」
のんびり屋だが自分の芯は曲げないジラーと、負けず嫌いだが仲間思いのカイズ。
彼らの温かさに支えられ、ここまで来ることができた。イチカは強く確信する。
初めて出会ったとき、ガイラオ騎士団事件、そして今。様々な出来事が浮かんでは消え、その度に絆が一層深まったことを思い出す。
この世界に来て良かった。この世界で一番に出会ったのが彼らで良かった――。
イチカは感謝を覚えずにはいられなかった。その気持ちが、自然と口をついて出る。
「ありがとう、二人とも」
二度目の笑顔だ。
あの日、離脱すると告白した日も、彼はこんな風にぎこちなく笑んでいた。
その時を回顧しながら、カイズとジラーもまた、はにかむように微笑んだのだった。
「みんなー!」
聞き馴染みのある呼び声に振り向くと、訳知り顔でにやにやしているラニアと、大量のおにぎりが乗ったプレートを手に持って立つ碧がいた。二人ともいわゆる『割烹着』姿だ。村の奥方たちの手伝いに回っていたので、そのままの恰好で来たのだろう。
「これ、お腹空いてるかなーと思って。良かったら」
「おおーさっすがアオイと姉さん!」
「いただきまーす!」
差し出されたプレートに、即座に二人分の手が伸びる。
「イチカも、どうぞ」
無心で複数の握り飯を頬張るカイズとジラーに心なしか面食らいながらも、優しい眼差しを向けるイチカ。
そんな彼に、碧はやや緊張した面持ちで声をかける。イチカはああ、と頷き控えめに一つ手に取った。
「うんめえー! この絶妙な塩加減! なっ、兄貴もそう思うだろー?!」
同意を求めるカイズの語調が、どことなく作為的なのは気のせいではない。
しばらく無言で咀嚼を続けるイチカの反応を、気が気でない様子で待つ碧。そんな彼女を、やはり含みのある笑みを浮かべながら見守るラニア。
仕組まれたような空気の中、イチカがふと思い出したように口を開く。
「……悪くはない」
表情に険はなく、殺気も放たれていない。そもそも、おにぎりを勧めた時点で躊躇や嫌悪の気配は見受けられなかった。
端から見れば決して褒め言葉ではないけれど、イチカの中では最大級の賛辞。
これまで共に過ごしてきて、そのことが感覚的に理解できた碧は頬が緩むのを抑えきれない。
なお、他の三人は二人からさりげなく距離を取り遠巻きに眺めている。
「あれ握ったの、アオイ?」
「あたしも半分作ったけど、イチカが食べたのはアオイのよ。ていうか、素直に美味しいって言ったらどうなのかしら。そういうところは相変わらずなんだから」
カイズとジラー、内心ほっと胸をなで下ろす。普段なら、イチカが「悪くはない」と言った時点で弾丸の嵐だっただろう。ご機嫌斜めではあるが、すんでのところで行動を起こしていないのは、碧から「イチカが何を言っても発砲しないでほしい」と懇願されているからだ。訊ねたわけでも実際にその光景を見たわけでもないが、カイズもジラーもなんとなく事情は察した。
「で、どういう状況?」
「“違うのかもって思うときもあったけど、やっぱりイチカのこと好きかもしれない”ですって」
「じれったいな~~……」
もう一ついいかと訊ねているのか、おにぎりを指し示すイチカと、頬を朱に染めて小刻みに頷く碧と。
両者を見比べる三人の眼差しは、ほとんど年齢は変わらないにも関わらず保護者のそれであった。
所変わって。
一仕事終わり、特に何をするでもなく、暇つぶしに村内を散策している者が一人。
長い耳を隠すように頭から被った外套に、兎の毛で作られた一張羅。白兎である。
視線を方々に彷徨わせながら歩いていると、あるものが目に留まる。その先には、見るからに重量のある荷車を引きずる老女。
一瞬躊躇うが、白兎にも良心はある。
「バーさん、重いだろ。持ってやるよ」
「そんな、悪いですよ」
「いーからいーから」
この村に到着した時点では耳を曝け出していたので、白兎が獣人であることはこの村の住民たちにはとうの昔に知れ渡っている。だからといって、カイズやジラーと同様、手放しで受け入れられているわけではない。
一般的に、高齢者はそれ以外の世代と比較して馴染みのないものを排除しようとする傾向がある。そのことから勘案して、この老女もまた獣人の自分を忌避するのではないか、という懸念があった。しかし、どうやら杞憂だったらしい。申し訳なさそうではあるが、それ以上の感情は特に抱いていないようだった。
むしろ、問題は別のところにあった。
「すみませんねえ」
「あァー気にすンな気にすンなヘでもねェよ!」
(なんだコレ、想像以上に重ェ……このバーさん一体何者だ? 何が載ってたらこんな重量になンだよ?)
意気揚々と半ば強引に荷物を受け取ったはいいが、兎族の長として日々鍛錬を欠かさなかった白兎ですら、その荷重に圧倒される。
(イヤ、だからなんだってンだ。自分から申し出ておいて引き下がるなんざ、兎族としてのプライドが許さねェ。是が非でも目的地まで運んでやる)
自分自身と戦っていた白兎は、ふと老女が不思議そうにこちらを覗き込んでいることに気付いた。
「よその方、ですか?」
「あったりめェだろ、見りゃ分か――」
これだけ至近距離で、これだけ目立つ風貌をしていて。
驚くどころか、まるでそれすら見えないかのように、老女は柔和な表情で答えを待っていた。
「アンタ、目が」
見えないのか、と口に出さずともその先を理解したのだろう。老女はふふっと小さく笑う。
その様子がとても楽しそうで、白兎は戸惑いを隠せない。
「ええ、もう十年近くになりますかねえ」
「そんなになってまで重労働なんて、危ねェだろ……」
「ええ、よく言われます。でも、身体が覚えていますから」
なにやら抽象的な表現で、白兎は意味を取りかねる。それも察したのか、老女は淑やかながら洋々と語り出した。
「たしかに視力は失いました。でもね、五十年以上歩き続けた道はそう簡単には忘れません。土の感触や空気の流れ、川の音、木材の匂い……たとえ光を失くしても、ずっと変わらないものはちゃんと感じ取れるものなんですよ。だから、私が『仕事』を辞めるとしたら、それは私が死ぬときです」
にこやかに話す彼女はこの『仕事』が好きで、誇りを持っているのだろう。でなければ、老いてもなお死ぬまで運び続けようとは思わない。
今は亡き父と母を想う。
この老女と同じくらいの覚悟で職務を全うした彼らの遺志を、自分は違わず引き継げているだろうか、と。
九十年前、突如として与えられた『族長』という地位。幼いながらに、両親のように里に尽くす存在であろうとした。老女に負けず劣らずの誇りも持っているつもりだ。
脇目もふらずがむしゃらに突っ走ってきた自身のこれまでを、否定するつもりはない。
けれども、命を懸ける覚悟が自分にあるかといえば、即答できなかった。まだそれほどの事態に遭遇していない、ということもあるのだろうが。
白兎は少し、何かを学んだ気がした。
「……そっか。強ェな、バーさん」
「そうですか? ふふふ」
――あたいも、強くならねェとな。
そう心に誓い、白兎は無事老女の荷物を送り届けたのだった。
そんな白兎とはまた別の方角。
空き地の簡易椅子に座り、思案にふけるミリタムがいた。
ぼんやりと見つめていた地面の一点を、誰かの足が覆い隠す。
顔を上げれば、暑苦しいほどの白髪、白眉、白ひげの老人。
「お若いの。魔法の研究かの?」
「村長さん」
「どれ、少し老人の相手をしてくれんか? 儂で良ければ力になるぞい」
どこか茶目っ気のある村長の登場で、ミリタムの目が輝きを増す。
もしやこの人は、魔法のノウハウを知っているのだろうか。知っているなら是非教えてほしい。昂ぶる感情を抑えきれず問う。
「魔法分かるの?!」
「からっきしじゃ」
しかし、脆くも期待は打ち砕かれた。
冷やかしならよそへ行け、とばかりに顔を背けるミリタムに構わず、村長は彼の隣にどっこいしょと腰掛ける。
「だが、この村は地理的にサモナージ帝国に近い。真東には巫女の森もある。その影響か、独学で魔法や神術を修得しようとする者が少なくなかった」
ミリタムは知るよしもないが、カイズの姉もその一人。巫女見習いとはいえ、才能に恵まれていたのだろう。聖域を所持することも夢ではなかった。
他方、厚顔無恥にも隣を陣取る老人に最初は軽蔑の眼差しを送っていたミリタムだが、興味を引かれる内容に耳を傾けずにはいられない。
「かくいう儂はそんな彼らを見てきただけじゃが……それでも、特異な能力の存在を信じずにはおれん」
「“特異な能力”?」
「『言霊』じゃよ」
言霊。聞いたことがあった。碧たちの故郷に古く伝わる、言葉の偉大な力。
「言葉一つで状況を好転させることができる。しかし、ただ言葉を発するだけではいかん。想いを込めるのじゃ。それが強ければ強いほど、言葉に乗せた念は現実となり、時に実力をも越えるほどの奇跡を起こす。一人一人の「こうあってほしい、こうなりたい」が具現化されたもの。それが、魔法の本来の姿であったはず……」
ミリタムの碧眼が大きく見開かれる。
魔法の威力は魔力の高さにのみ依存する。そう考えていた彼にとっては、目から鱗が落ちるほどの衝撃だった。
同時に、これまでとは別種の違和感を抱く。
この人は本当に一般人なのだろうか。それにしては、あまりにも魔法の核心を心得ているような気がしてならない――と。
「貴方は、」
「――と、風の噂で聞いたのでな」
え? という声すら発せず、その表情で固まるミリタムを尻目に、村長はよっこいせと立ち上がる。
「儂が知っていても宝の持ち腐れじゃし、必要としている者に授けられれば、と思っておったところじゃ。健闘を祈るぞ、少年」
ぼさぼさの眉毛に隠されて見えないのに、何故か片目を瞑っているように見える。
掴みどころのない老人は手を振り、よぼよぼと帰って行った。
「……ヘンな人だなあ……」
すっかり拍子抜けしていたミリタムは、一連の会話を思い出し苦笑を零すけれども。
ゆっくりと遠ざかる村長の背中を見つめながら、ミリタムは気持ちが高揚するのを感じる。その瞳は決意に満ち溢れ、揺らがない。
「言霊、かぁ」
――“想いが強ければ強いほど、言葉に乗せた念は現実となる”。
「――よし!」
村長の言葉を脳内で復唱し、勢いよく魔法書を開いた。
その様子を微笑ましそうに振り返って、村長は家路を辿る。
辿ろうとして、目の前に仁王立ちする人物に阻まれた。
何事か強い意志を瞳に宿し、重要な話があるのだとその眼は語る。
村長は頷く代わりに、人物――サルスの横を通り過ぎ再び帰宅の途についた。




