第九十八話 贖罪
何日経っただろうか。
霊体に等しいこの身体では正確な時間は分かりかねるが、おそらく三日は経過している。
ヤレンはふと空を見上げた。
森全体を覆っている結界は、外部からの悪意ある攻撃だけでなく、雨風をも防ぐ。一方、ただでさえ広大な樹冠に遮られ敷地内は常に薄暗いことから、日光はできる限りいつも届くように調整されている。
その主たる光源が真上にあるということは、四日目の昼ということになるだろう。
碧を連れて行ったサトナも、最低限の連絡しかしてこない。これはどうやら、本当に付き合わされているらしい。自然と笑みが零れる。最初この世界に召還したときはどうなることかと思ったが、杞憂だったようだ。
(あの意欲ならば、全てを“思い出す”日もそう遠くはない)
高位の巫女と言えど、その命が尽きれば普通の人間と同じ。
意識の欠片も留まることなく、ただ無に帰す――はずだった。
気が付けば、大樹の内側から外の世界を見つめていた。
傍らには、愛した男の頭蓋骨。隣には、幼少の頃からヤレンを気遣い、側で見守り続けてくれたエルフがいた。
眠っているようにも見えるが、もう二度と目を開けることはない。
ヤレンはなんとなく悟ってしまった。
この樹の中にいる限り、時間は進まない。その代わり、戻りもしない。
ただただ移りゆく世界を、変わらぬ空間から眺め続けるのだ、と。
(逃げたからだ。セイウと死ぬことに恐怖などなかった。ないはずだったのに……心の奥底で「死にたくない」と願ってしまった。神は私の、愚かな願いを聞き入れたんだ)
たった一人、苦悩を抱え、恋人や友人の亡骸とともに途方もない時間を過ごし。
今現在、この聖域の『守護』となっている年若き巫女に出会い、大樹の外へ再び踏み出すことができたのはその何百年も後のことだ。
(神が私に与えてくださった猶予が、あとどれくらいかは分からないが……その時が来ればこの身も、意識すら消え去るだろう。そうすれば私はようやく、お前の元へ行ける)
イチカと闘いを繰り広げる銀髪の青年へと視線を向ける。
セイウが存命だったときにその情報のほとんどを写し取った護符の効果により、かりそめと言えどもほぼ本人である。
そんな彼は今、ヤレンのことなど眼中にないのだろう。目前の敵の存在に狂喜し、その笑みも絶えることはない。
四百年前は自分だけに向けられていた瞳と、今は一瞬も交わらない。それが彼女には、少し悔しかったが――今は私情など必要ない。
それにしても、とヤレンはイチカを見た。
強靱な精神力を持っている、と思う。
碧に異常がない、ということはサトナからの【思考送信】で分かっている。
対して彼は三日三晩一睡もしていない上に、一切の食事も口にしていない。飲まず食わず寝ずでセイウの擬似体と戦い続けているのだ。
普通の人間ならば、そろそろ人格崩壊を起こしているか、そうでなければ一歩たりとも動けないはずである。
表情を見ても、四日前とあまり変化がないように見える。
やせ我慢をしているのか、あるいは――“人間”ではないのか。
人間に生まれ変わったとしても、魔族の性質を受け継ぐ確率はゼロではない。一生を地球で過ごしていれば問題はないのだが、この世界に来て魔星との繋がりができた途端、魔族として覚醒してしまう可能性もある。
前例がないため、あくまでも可能性の域を出ない。
しかし、たとえ僅かでもその危険があるのなら。
(この手で、殺めるか……)
もちろん、まだ魔族と確定したわけではない。
ヤレンは密かに神力を集中させる。
銀髪の男たちはそれに気付かず斬り合っていたが、突如、その状態が一変した。イチカの様子がおかしい。踏み込んだ右脚に上体がついていかず、大きくぐらつく。その隙をついたセイウによって剣が弾かれ、宙を舞う。
地面から浮いた左脚は別の場所に置かれることなく、身体に引きずられるように傾いていく。
セイウの笑みが一層深くなった。
非常に不味い展開だ。
イチカが気を失った今、奥底の意識を護るものは何もない。
彼がこれまでどんな攻撃も耐え抜いてこられたのは、人並み外れた精神力が盾となっていたからだ。
いかに紛い物とはいえ、セイウほどの実力者の剣をまともに受ければ、最悪意識が破壊され『死』が訪れる。
「無茶をするからだっ!」
ヤレンは集中させていた神力を防御主体のものに切り替えた。素早く指を組み合わせて結界を造り、擬似体へ向ける。
「【封】!」
結界でできた無数の蔦で標的を封じ込め、拘束する高位神術である。見た目は頼りないが、その封殺力は絶対であり、これに捕らえられた者は魔族であろうと逃れることは不可能だ。
四肢を固定されたセイウは蔦を引き千切ろうともがくが、脆弱そうなそれは、しかし亀裂一つ入らない。
震える右腕を左手で押さえ込みながら、ヤレンはさらに神力を注いだ。
声もなく悲鳴を上げるセイウ。その視線が何かを探るように動き、ヤレンに定まった。
息を呑む。
四百年ぶりの邂逅だった。
大樹の中にいた頃よりもずっと永く感じられた時間は、一瞬で過ぎ去った。
あの頃向けられていた笑顔は、今ははっきりと憎悪に満ちた表情に歪んでいる。
「……私を、恨んでいるのか」
共に死を選んだはずだった。だが彼女は意識として四百年もの間、この世に留まり続けた。セイウにすれば裏切られたも当然だろう。
獣のように険しい表情で己を睨みつける銀眼に耐えきれず、今すぐに意識ごと消えられたら、という願いも過ぎったが――。
彼女自身ではそれは決められない。
それに、今は譲れない意志がある。
「済まない、セイウ……生憎私は、まだお前の元へは行けない。どうあっても、片付けねばならない仕事がある……」
自分の中で最も柔和な笑みを浮かべ、今ある最大限の神力を込める。
声なき叫び声は徐々に蔦で覆い隠され、かき消された。結界で密室を造ったのだ。
ヤレンはそろそろと歩き始めた。
密室の前で倒れている少年の側へ行き、呼吸を確かめる。
息はあるようだ。おそらくは睡眠不足と空腹と疲労による症状だろう。
いずれにせよ休ませる必要がある。イチカにとっては不本意だろうが、このまま死なれては寝覚めが悪いというものだ。
「ダメだよ」
唐突に、声が聞こえた。
反射的に振り返れば、四日前にサトナと修行を始めたはずの少女の姿があった。
治療系の神術と、中位の防御系結界を教えるようサトナに伝えていた。
進捗を聞く限りでは「最低でも一週間はかかる」と言っていたのだが。
「アオイ。修行はどうした?」
「休憩時間だから戻ってきたの」
(違うな)
ヤレンは瞬時に彼女の嘘を見破った。
修行中は休憩時間でも、こちらに連れて来るなと言い聞かせていた。サトナが引き留めるのも聞かずに戻ってきたというところか。
「イチカを休ませたら、ダメ」
心を読むような強気な声色だが、状況から判断したのだろう。波長さえ合わせなければ胸の内を読まれることはない。ましてや彼女のような未熟者相手なら尚更だ。
嘲笑に唇を歪ませる。
「一人前のような口を利くな? 半人前のお前に何ができる。不条理だと分かっていても、最善の選択をするのが一人前というものだ」
「それはあなたにとっての“最善の選択”でしょ? イチカは休むことなんか望んでない」
碧が歩み寄ってくる。
ヤレンはその時、初めて彼女の表情の変化に気付いた。
そして、内なる神力にも。
全てを悟り尽くしたような、冷めた眼差し。引き締めた唇。
容姿は以前のままなのに、表情が大人びて見える。
その姿が何故だか、四百年前の自分と重なって。
「ではアオイ。修行の成果を見せてみろ」
意識的に抑えているのか、無意識なのか、四日前より神力が圧縮されている。
裏を返せば、抑制しなければならないほど神力が増大したということ。
「任せて!」
ぐっ、と握り拳を作って微笑む姿は、紛れもなく少女のもので。
ヤレンはあまりの変わりように呆然とするしかなかった。
そもそもこんな展開は、碧がこちらに来るという未来は視えていない。
(演技? いや、それにしては……)
戸惑うヤレンの眼前、碧はマイペースに振る舞う。
「待っててねイチカ。今あたしの新・神術でぱぱーっと、」
イチカの憔悴しきった表情に庇護欲を掻き立てられたのだろう。子どもに言い聞かせるような口調で、素早くイチカに駆け寄りその側に立て膝をつく。
そこまでは良かった。
「治して、あげ」
る、と言い終わったと同時に、べしゃっ、と虚しく響く音。
まさか、と思い慌てて駆け寄るヤレン。しかし彼女の眼に映った碧は、想像に反して穏やかな顔をしていた。
正確に言えば、穏やかな顔をして寝息を立てていた。
「どういうことだ? サトナ」
「すみません。少々やりすぎてしまいました……」
溜め息を吐きつつ、後ろで様子を窺っているであろう巫女に訊ねる。
彼女の予想通り、苦笑を浮かべながらサトナが木陰から顔を出した。
「アオイさんがどうしても、とおっしゃるものですから、ついつい指導にも力が入ってしまって……あまり睡眠を取らずに修行を続けていたようです」
私の管理が行き届いていなかったからですね、と申し訳なさそうに言うサトナ。
ヤレンは怒りや呆れどころか、むしろ微笑ましさを覚えた。
「いや。健康管理は本来、誰でもない自分自身でするものだ。確かにお前のやり方には多少問題があったかもしれないが……私の守護になっていなければ、きっと良い教師になっていただろうな」
サトナにとってはあまりにも突然だったのだろう。なんのことか分からないと言いたげな、きょとんとした顔でまっすぐにヤレンを見つめていたが、やがて思い当たったのか、すぐにやんわりと微笑む。
「たとえ、そうだとしても……巫女だった母が遺してくれた道です。後悔はしていません。かの有名な『救いの巫女』様の守護に就けたのですから、巫女冥利に尽きるというものです」
彼女の笑顔に嘘偽りはない。彼女自身がそういった「悪行」を嫌っているからということもあるが、半ば強制的に作り上げられたものだろうとヤレンは考えていた。
彼女には幼い頃から明確な夢があったのだから。
――『先生になりたいです!』
――『勉強したくてもできない、親のいない子どもたちに、勉強の楽しさを教えてあげたいです!』
『この世の果て』の中で、孤独に時を過ごしてきた。
そんな時に出会った、あの希望に満ちた笑顔を忘れることはできない。
齢六歳とは思えぬ並外れた神力を目の当たりにして、『支援者』として相応しいと直感した。
彼女なら自分の呼びかけに応じてくれるかもしれないと、樹の内から【思考送信】を試みた。はたしてサトナはヤレンの声に気付く。会話だけの交流を続け、好機を待った。
――『サトナ。お前には素質がある。この森の『守護』にならないか?』
――『“守護”? 守護って、なんですか?』
本来「聖域を管理する者」という意味合いで使われる『治める』ではなく、『守護』としたのは理由があった。自らの補佐的役割を担ってもらいたかったためだ。
幸いにして、意識となっても神術の技術は健在だった。
しかし、あくまでも意識であるためか、『この世の果て』から離れることは容易ではなかった。域内はともかく、域外に出ると途端に神力が弱まり、思うように動けないのだ。森の外での活動を可能にしてくれるような協力者が必要だと感じていた。
それに、魔族の動向は毎日、昼夜を問わず確認していなければならない。協力者には必要なとき、いつでも聖域にいてもらわなければならない。
つまりは、半永久的拘束。
一般の巫女は聖域の所有権を放棄しても何ら問題はないのだが、『守護』は違う。街へ繰り出すことも、巡礼もできない。文字通り一歩も聖域の外には出られないのである。
――『ここからは出られないのですか?』
――『案ずるな。お前が一人前になれば出られる……さぁ、』
彼女の夢を知ってなお、『守護』になることを迫った。
嘘をついてまで、彼女から選択肢を奪った。
これからすることに比べれば小さな出来事。
だが、それでも。
(残酷なことをした――)
「サトナ、私は」
「ヤレン様」
謝罪の言葉を述べようとしたヤレンを、サトナが静かに微笑みながら遮った。それも、どこか咎めるような口調で。
「往生際が悪いですよ。私は後悔はしていません」
後悔はしていないという言葉とは裏腹に、目を伏せる。
「ヤレン様の守護となった代償が、この森から出られないという拘束であることは薄々分かっていました。教師にはなれない、ということも……」
背を向けているため、どんな表情をしているのかは分からない。
幼い頃から教師になりたいと願っていたほどの才女だ。早い時期からヤレンの嘘を見抜いていたのだろう。
「最初は葛藤もありました。ですが……少なくとも今の私には、悔いはありません」
だからこそそう告げられても、ヤレンは苦い表情を消し去ることができなかった。
どれほど恨まれたのだろう。どれほど憎まれたのだろう。今も昔も変わらず接してくれているが、心の底では責め立てたかったに違いない。
「ねえヤレン様。いつか、こんなことをお話したことがありましたよね。私が何故おさげを続けているのか、ということについて……」
そんなヤレンの心の内を読み取ったのか、サトナが不意に話題を転換する。
「ああ……母が毎日編んでくれていたから、だろう?」
「はい。でも今は違うんです」
ある日現れた、仲睦まじく会話をする母子。
母は娘のために毎日おさげを結っていた。娘は嬉しそうに頬を赤らめながら編み上がるのを待つ。
鏡を見ながら飛び上がって喜ぶ娘を、温かく見つめる母。きっとヤレン以外の誰が見ても、優しい時間の流れる恵まれた家庭だと思っただろう。
その母親は彼女が物心ついて間もない頃に亡くなっている。
入れ替わるようにしてヤレンがサトナに語りかけたのだ。
どんなに厳しい修行のあとでも、母の話をするサトナの表情はどこか生き生きとしていた。おさげの件を聞いたのもそのときだ。
それが、今は違うという。
戸惑うヤレンに、サトナはふわりと微笑みかけた。
「母に代わって毎日編み続けてくれた手が、とても大好きだからです」
「……!」
実体を持たなくとも他人の身体になんらかの干渉をすることはできるらしく、おもしろ半分に編んでやっていた。いつしか他人以上の想いを抱きながら。
そう、例えるなら『娘』のような。
「だからヤレン様。あなたは私にとって母も同然な存在なんですよ?」
「……すまない……本当に……」
「お願いですから、残酷だなんて思わないでください……『お母さん』」
「すまない……っ……サトナ……もう少しだけ、付き合ってくれるか?」
「もう少しと言わず、いつまででもお付き合いします」
実体はないはずだった。
それでも止まることを知らず溢れ出す涙。
これまで背負ってきた罪は決して流れることはないけれど――今この瞬間だけは、無条件に許されるような気がした。
流れ出る涙をハンカチで拭いながら、サトナは優しく母代わりの巫女の背を撫でる。
優しい空間の中央には、さながら傷を舐め合う『母子』がいた。




