第九十六話 汝、その名は(2)
サトナは一人の少女を連れてきていた。
ただ、その顔は分からない。白く、つばの広い帽子を目深に被っているからだ。
それでも“少女”だと特定できるのは、同じく白いワンピースと白い靴を身につけているから。
忘れもしない。イチカはウイナー郊外の森で、碧は魔族との戦闘の後、少女と出会っている。
「どちらも、見覚えがあるようだな」
ヤレンが二人の心の中を覗き見るように、余裕のある笑みを浮かべる。
「それは私の分身だ。使える神術は少ないが厳選に厳選を重ねてある。その成果はお前たちもよく知る通りだ」
簡潔な説明をし、イチカに向き直る。
「さて、それではイチカ」
「どうやらあんたは、相当におれを馬鹿にするのが好きならしいな」
自分ではないと、その次に現れたのは年端もいかぬ子供。
修行相手がその少女だとすれば、イチカが怒りを露わにするのは無理もない話だ。
「あんたがこの件に関してまともに動いてくれているとは、到底思えない」
そう言って、今すぐにでも踵を返して帰っていきそうな勢いのイチカ。碧も、少女が修行相手だと信じたわけではないが、納得できる状況でもない。
「確かに、信用しろと言ってもすぐには無理だろうな。だが忘れてもらっては困る。こちらはまだ説明の途中だ」
静かな声調が、イチカの足を留まらせた。
サトナが少女から離れ、距離を置く。
少女を挟んで、互いに向き合ったヤレンとサトナは目配せをした後、双眸を閉じて手を組み合わせる。
複雑に瞬時に各自の指を絡ませ、何らかの神術を造り上げていく。
一瞬の間をおいて、ヤレンは片手を、サトナは両手を同時に少女に向けた。そのまま静止し、高らかに言霊を発する。
「我が名はヤレン・ドラスト・ライハント」
「その守護サトナ・フィリップ!」
「汝の魂は解き放たれた!」
「今一度、仮初めの身を以てここに降臨せよ!」
交互に詠唱が発せられるたびに、少女の周囲に発生した風が勢いを増していく。
微風から強風、竜巻へと強度を変え形を変えたそれは、やがて少女の小さな身体を地面から浮き上がらせた。
「汝、その名は――」
『セイウ・アランツ!!』
個人名が発せられた直後、少女の身体を破るように青年が姿を現す。
肩で切り揃えられた銀色の髪、身に纏う鎧と瘴気。イチカが持つそれと同じ剣。いつか夢に現れた、イチカの前世だという魔族の姿そのものであった。
緩やかに開かれた双眸も、銀色。
重力に逆らって、ゆっくりと降り立つ。
銀と銀の双眸がかち合う。
前世と生まれ変わりが邂逅を果たした瞬間だった。
未だ漂う少女の残骸が青年の頬を撫で、舞い落ちる。
それとほぼ同時。
爆速で膨れ上がった殺気が、根源的な恐怖と不安を煽った。
「――っ?!」
すんでのところで構えたイチカの剣に、相手のそれがのし掛かっていた。
急接近した表情を見て唖然とする。
場違いな笑みを浮かべている。二刀流の魔剣士よりも一層深い笑みだ。
友好的とすら思えるそれに、しかしイチカは心肝から恐怖した。
――抗えない。歯向かえない。
確かに柄を握っているはずの手の力が、抜けていく。
「恐れるな!」
すかさず後方から叱声が飛んだ。
「何故早々に諦める? 何故それを認めてしまう? お前は手向かうことすら知らぬのか! それとも……手向かうという感情すら、過去に置き忘れたか!」
――“手向かうという感情すら、過去に置き忘れたか!”
ヤレンの声が、どこか遠くで木霊する。
過去とは、何だったろうか。
暗闇に投げ出されたイチカの脳裏に、毎日のように繰り返されたある光景が甦る。
決してこちらを振り向かない背中。うっすらと血の滲んだ拳。非情なまでに鳴り響く、納屋の扉を閉める音。
また、何日かは外に出られない。
それでも、不思議な安堵感があった。壊れてまともな時を刻んでいない時計を見たからだ。
(……あ)
右眼が腫れ上がっているため、ぼやけて見えにくいが、何とか長針が見えた。
(今日は一〇分でやめてくれた。抵抗しなかったからかな)
放置されたゴミ袋から立ち込める悪臭。
カビ臭く薄暗い室内。
体温を奪う冷え切った床。
鈍痛。激痛。倦怠感。
(そっか。母さんは僕が言うこと聞かないから殴るんだ。何にもしなきゃいいんだ。そうしたらいつか、母さんは僕を許してくれる)
信じた。信じていた。
(ハル兄と同じくらい、僕を好きでいてくれる)
ただそうなることを、信じていた。願っていた。望んでいた。
それなのに、向けられる眼差しは日を追うごとに強く険しくなっていった。
憎悪に染まった視線は、やがて殺意へと変化していった。
――『死ねばいい……あんたなんて!』
「っう、ああ……!」
なんとか抜け出して通った学校にも、味方はいなかった。
ほとんど一日中納屋に閉じ込められ、全ての世話を放置された自分に、周囲は冷たかった。
――『うわっ、お前臭ぇーー!』
――『バーイキン! バーイキン!』
――『――くん、あのね、給食費が払われてないみたいなんだけど……もう一回、お母さんにお願いしてみてくれないかな……?』
ようやく解放されたのは、小学校を卒業する頃。
父方の叔母夫婦に偶然発見されたことで、母親の育児放棄が発覚。児童養護施設に入所することとなってから、二年が経とうとしていた。
引き取られた当初こそ歓迎するような空気だったが、次第に彼らは自分を見なくなった。叔父には元々興味を持たれていなかったが、叔母の心変わりは顕著だった。仕方なさそうに、迷惑そうに扱うようになった。
そんな彼らも外面だけは良く、取り繕ったような貼り付けた笑顔をよく浮かべていたが。
――『顔ぐらいしか取り柄がないんだから、もう少し愛想良くしたらどうなの?! ああ、こんな何もできない子引き取るんじゃなかったわ!』
――『おい、殴ったりするなよ。近所に騒がれたら面倒だ』
――『何よ、自分だけいい顔して! あたしにばっかり押し付けないで!』
――『オレはガキが大嫌いだって言っただろうが。顔だけ見て引き取ってきたのはお前だろ』
――『あなただって賛成してたじゃない! ――』
暴力を振るわれることはない。食事も作ってもらえるし洗濯もしてもらえる。水回りを使うことも禁止されていない。
それでも、世間体ばかりを気にする家庭に居場所はなかった。
知り合いのいない中学校に入学することになった。
環境が変われば、状況も変わるかもしれない。
そんな考えは幻想だった。
すでに出来上がっていたコミュニティに「よそ者」が馴染めるはずもなく、孤立した。
小学生の頃と同じか、それ以上の仕打ちが繰り返されるばかりだった。
――『なんかさぁ、影薄くない?』
――『暗すぎじゃね? いるだけでテンション下がるんだけどー』
――『黙ってねーでなんか喋れよ、気持ちわりーな。幽霊かよ』
――『ヤバいんだけど! この教室幽霊いる! うち呪われるー!』
――『落ち着け! みんなで花を供えれば大丈夫だ!』
――『え? この墓汚ねーから水かけただけなんだけど』
「うぁあああーー!!」
笑顔。笑顔。笑顔。笑顔。
周りはいつも笑顔で満ちていた。嘲笑、冷笑、嗤笑、憫笑、そればかりで溢れかえっていた。彼らが笑えば笑うほど、自分がちっぽけなものになっていくように思えて仕方がなかった。
“自分”とは一体何なのか。“自分”の存在価値は。“自分”は何のために生きているのか。
「おれ、は……おれは……!!」
「イチカ!!」
自分の名を呼ぶ、誰かの声がした。
程なくして柔らかな匂いと、ぬくもりが背中に覆い被さる。
首元に回された腕が怖かった。
恐怖心を打ち消したのは、耳元で語りかけてくる優しい声。
「大丈夫」
そっと、回された腕に力がこもる。
不安に陥れるような動作ではなくて、あくまでも優しく、壊れ物を扱うように抱かれた。
「この世界のどこにも、イチカを嫌ったりイチカの悪口を言ったりする人はいない。怖がる必要なんて、ないんだよ」
確かにこの世界の人々は、最初こそ好奇の目で見てきたが、自分を悪くは言わなかった。日本人そのものの見た目を封印したことで、変わることができたようにも思う。
けれど、やはり人は信用できない。良香以外の言葉は信用ならない。
それなのに。
「だから、大丈夫。安心して?」
何故彼女の言葉は、こうも容易く信用できてしまうのだろう?
(知らなかったからだ)
こんなにも優しいぬくもりを。体温だけではない温かさを。
それらに付随して、初めて生まれる本当の『優しさ』を。
答えを自覚して間もなく熱い何かが込み上げて、双眸から流れ出た。
一つ、二つと、雑草に当たっては跳ね返る雫。
それを見て、背後の気配が微かに息を呑んだ。
「イチカ……泣いてるの?」
(――泣いている?)
視界が霞むこの感覚。そう言えばこんな感覚が、昔はあったような気がする。必要ないと思っていたから、いつの間にか泣き方すら忘れてしまっていたらしい。
普通は、悲観的な気分の時に流れるものだったはずだが。
「そうか……おれは、泣いているのか」
今は、そんなことはどうでもいい。
もう一つ、感じるものがあった。身体の奥底から沸き上がる何とも形容しがたい感情。それは哀しみではない、むしろその対局に位置する感情のように思えた。
「やれやれ……『喜』とそれに関わる複雑な感情、二つの感情を同時に覚醒させるとは。私以上だと思わないか、サトナ?」
「そうかもしれませんね……」
彼らを見つめていたヤレンは、そのように感嘆の声を上げた。サトナも温かな眼差しで、碧とイチカを見守っている。
錯乱して剣を取り落とし、その場でうずくまってしまったイチカ。そんな彼を目撃するや駆け出していった碧。一時はどうなることかと思ったが、碧に抱き締められたイチカは徐々に落ち着きを取り戻し、感情さえも取り戻したようだった。
「なかなか絵になってるじゃないか」
『救いの巫女』は、満足げに微笑んだ。




