山猫うどん亭
「おい女、脱げっ!」
いきなりの大声に、少女は勢いよく振り返った。高く結わえた長い黒髪が、弧を描いて踊る。
「出たわね変態! 美河国随一の超有名うどん屋、花葺亭自慢のぴちぴち看板娘、十六歳の紬様が成敗してくれるわっ!」
名前と同じ、まぶしい黄色の紬の着物を振り乱し、彼女は飛んだ。否、飛び降りたのだ。小高い丘から、広い草野原へと。
「わっ、ちょ、待っ――」
いきなり自分めがけて飛び降りてくるとは思わなかったのか、変態、もとい十七、八くらいの少年は踵を返し、逃げようとした。が、もちろん紬が落ちる速度のほうが早かった。
「ふぎゃっ!」
全体重を込め、背中に華麗なる着地を決めた紬とは異なり、少年は踏んづけられひしゃげている。
「ふん、潰れた猫みたいな声出しちゃって、話題の不届き者も大したことないわね。って、猫みたいな……猫……ん?」
紬は大きな目を瞬かせ、視界に入ったものをじっくり覗き込んだ。肩まで伸びた少年のぼさぼさ頭。そのてっぺんで、ぴくぴくふわふわ動く、とらじまのそれは――、
「猫、耳……!?」
「いでーっ、ひっぱんなこの暴力娘っ! しかも重いんだよどけっつーの!」
いきなりわめかれただけでなく、手で引っ張ってみたその耳が本物だとわかり、紬は飛び退いた。起き上がった少年はこちらを睨み、シャーッと歯を見せて威嚇する。古びた濃紺の半着と同色の袴――の後ろから、猫耳とお揃いの尻尾までピンと立った。
「ぎゃーっ、ば、化け猫……! 誰か助けて、母ちゃん父ちゃんお代官さまあっ! ふぐっ!」
「ぎゃあぎゃあわめくなっ! 何も悪さはしねえから静かにしてくれよ」
手で口を塞がれ、紬はこくこくと頷く。相手は遠目で見たより長身ではあるが、人の良さげな困り顔で、乱暴しそうな粗野者には見えない。半信半疑で黙った紬にほっとしたのか、少年は手をどける。
「お前の言う通り俺は化け猫だ。まあ猫っても種としちゃあ山猫で、半分は人間みたいなもんなんだけど……って聞いてるか?」
まん丸に見開いていた目の前に手をひらひらさせられ、紬は我に返った。
「あ、うん。いやあ思わず口走りはしたけど、本当なんだーと思って……古狸とか化け猫とかって、作り話だとばかり」
(そういえば人里離れた山奥のどこかにそういう妖怪が暮らす村がある、なんて言い伝えもあったっけ)
「でもあんた弱そうね。怖がって損した」
正直に続けると、少年は見事にずっこけた。屈辱でか、尻尾までぴくぴく震えている。
「何だとお? 人間の娘のくせに神経図太すぎだぞお前!」
「うるさいわね、あたしは現実主義なの。ま、もう悪さはしないって言うんだから大人しく一緒に来なさい。あんまり人相書とは似てないけど、本人も認めてるしね」
「へ? 行くってどこに」
「お奉行所に決まってんでしょ。あんたは立派な指名手配人なんだから。人の店の営業妨害しておいて、今更とぼけるつもり?」
「はあ?」
「あんたがこの峠を通る若い女に突然『脱げ』なんて迫るせいで、お客がごっそり減ってんのっ! だから看板娘のあたし自ら囮なんてやって捕まえようとしたんじゃない。妖怪でも何でも罪は罪よ。さあ、神妙にお縄になりなさいこの変態化け猫っ!」
「違うっ! 脱いで肩に桜模様の痣があるか見せてもらおうとしただけだ! 変態変態言うなっ!」
「は? 肩?」
「もういいっ、お前なんかに事情を話そうとした俺が馬鹿だった。協力してくれたらとっておきの宝物分けてやろうと思ったのに……家宝の黄金なのに……」
言葉の最後で目を輝かせ、引きとめたのは紬のほうだった。翻りかけた袴の裾をむんずと掴む。
「何なりと協力いたしますわ、お猫様!!」
振り返った少年の猫耳が、ぴくりと動いた。
「え? 妹を捜してる?」
「ああ。ちょっとした事故で俺とはぐれて、人間に擬態したまま行方不明になった。俺に力の一部を分けてくれたせいで元に戻れないだろうから、そのまま人間の姿でいるはずなんだ」
「そうだったんだ……で、何日くらい経つの? 妹さんがいなくなってから」
「十年」
「は?」
「だから十年前の話だって」
当然のように答えられ、紬はぽりぽりと頭を掻く。そのままおもむろに猫耳を引っ張ると、ふみゃっと少年が叫ぶ。
「何が十年よっ、面白くもない冗談でからかうつもり? そっちがそのつもりならこうしてやるっ!」
むっとしついでに、今度は喉をさすった。半分冗談のつもりだったのが、意外にも的を付いていたらしい。
「やめ、あ、にゃあん……」
一瞬うっとりと喉を鳴らしかけ、彼はハッと我に返った。
「何やらせんだこの変態娘っ!」
「はあ? 変態はあんたでしょうが!」
「ぐっ、だからそれは手っ取り早く痣を確かめようとしてだな……」
「にしたって言い方ってもんがあるでしょ」
「そんなこと言われても俺化け猫だし……人里に下りてきたのも久しぶりだし……人間の常識なんかよくわかんねえし」
そのわりには言葉もよく通じているのでは、と疑いの目で突っ込むと、偉そうに腕組みをする。
「そりゃなんといってもお猫様の神通力っての? 言葉くらいお手のもんよ」
「じゃあ常識もわかりそうなもんだけど」
「無茶言うなっ! そんな器用ならうっかり十年も気失ってねえ――あ」
しまった、と口を押さえ、照れたように頬を真っ赤にした彼は、渋々といった様子で白状した。
「昔ちょっと悪さして、修行僧とかいう奴に封印の術食らいそうになった時、桜華――妹がかばってくれてさ。人間だった父ちゃん似の俺と違って、あいつのほうが化け猫の母ちゃんの血を強く受け継いでるからな。その時遠い谷底に飛ばされて、こうしてはぐれちまったんだけど」
「ふうん……大変だったんだ。でも妹さん、可愛い名前ね。あんたは何て言うの?」
「忘れちまった。術の影響かな。肝心の自分の名前が思い出せねえんだ。そのせいでか、力もかなり鈍ってるし」
「……山吹」
首を傾げた少年に、紬は笑った。
「思い出すまでそう呼ぶのはどう? あんたの耳と尻尾、綺麗な山吹色だし、あたしの着物とお揃い、なーんて」
ほら、とちょうど背後に咲き乱れていた黄色い花を指して言う。
「あたしは紬。よろしくね――山吹」
わずかな戸惑いが消えた顔には、嬉しげな笑みが広がったのだった。
そうして化け猫少年――山吹(仮名)の妹探しは、まず彼の空腹を満たすことから始まった。峠を下ったところにある『花葺亭』で、出されているのは鰹出汁の香り漂う美河の名物料理、美河うどんである。
「あんた……よっぽどお腹すいてたのねえ」
さすがに半分人間だからというべきか、人間の食べ物を、しかも一応箸も使って食べている。感心する紬の前ではふはふがっつこうとして、山吹は「あぢいっ」と叫ぶ。あわてて外を見やるが、まだ昼前のこの時間に客はおらず、通りの忙しげな町民たちにまでは聞こえてないようだ。
「ちょっとお、父ちゃんがいない間にこっそり食べさせてやってんだから、騒がないでよね。あと耳、耳出てる!」
尻尾は無理やり着物に押し込むとして、問題の耳は頭に布を巻いて隠していたのだ。が、それがまた布の隙間から突き出ている。渋々巻き直してやると、素直に謝った。
「あ、すまん。熱いのは苦手でさ」
「やっぱ猫は猫ってことか……」
ため息をつくと、湯気を立ち上らせている汁に少し水を追加してやる。味は少々損なわれるだろうが、仕方ない。
「はあ~ごちそうさまっ! 久しぶりに食ったからもっとうまかった!」
「え? うどん食べたことあるの?」
「うん、昔家族で百花神社に来た時に父ちゃんとな。母ちゃんと桜華は俺よりもっと猫舌だったから食べなかったけど。その頃より食べ物屋が随分増えてて驚いた」
「そうだったの。確かに、ここ十年ぐらいですごく賑わうようになったみたいね」
百花神社というのはここ花葺山の麓に位置する大きな神社で、八百万の神様の中でも、特に美しい女神様たちが花見に訪れるという伝説がある場所だ。その様子を百の花に例え、名が付けられたのだと紬も幼い頃に聞かされた。だから参拝客も女性が多く、特に今はその盛りである。
「あのさ、そもそもあんたの妹がここにいるって確かなの?」
「それは間違いない。俺たちは元々母ちゃんの待ってる故郷に戻るつもりだった。百花神社の奥にある、俺たち化け猫の村にな。だからきっとこの界隈にいるはずだ」
「神社の奥に、本当にそんな村があるの?」
「ああ。人間には入れない空間に、だけどな。桜華も今は人間の姿だから入れずに、俺が戻るのを待ってると思う」
「でも……十年も経ってるのに」
「俺たちと人間じゃ時の感覚が違うんだよ。十年なんてせいぜい一年くらいの長さだ」
「だとしてもさ、人間として生きてるんなら結構老けちゃってるんじゃないの」
「いや、寿命も力も違うから老けはしない。化けた時のまま戻れないはずだから、ちょうどお前と同じくらいの娘の姿だと思う。けど肝心の化け姿も覚えてねえし、まだ嗅覚も鈍ってるから匂いでも捜せねえ。そういうわけだからさ、俺の代わりに痣を見せてくれって若い娘に頼んでほしいんだ。女同士なら問題ないんだろ?」
あっさり言われ、紬は脱力した。
「そうは言うけどあんたねえ、百花参りにどんだけ多くの参拝客がいると思って――」
「百花参りがどうした? 紬」
「ぎゃっ、お、お父ちゃん! よよよ、寄り合いはどうしたのよ!?」
「ああ、寄り合いなら終わったよ。あとはまた呉服屋の弥平がいつもの女房自慢を始めたから、抜けてきた。こっちの彼は友達か? 見ない顔だが」
「あ、俺は――」
「えーとえーと、大のうどん好きで、ぜひうちのを食べてみたいって訪ねてきてくれたの!」
無銭飲食であることはもちろん内緒にして、紬は笑う。父も途端に喜んだ。
「ほお~それはそれは。紬の腕は既に父ちゃんより上になってきたからなあ。うまかっただろう?」
「ああ、それはもう!」
「うんうん、うちのうどんは絶品さ。もう少しお金があれば、もっといい材料が使えるんだけどなあ。このまま売上が落ちる一方じゃ、材料どころか店の存続も危ういかもしらんが……」
「お父ちゃんっ、だめよ弱気になっちゃ!」
屋根も柱もあちこちぼろくなってきている店内を見渡す父を止め、鼻息も荒く紬は立ち上がった。
「絶対に『花葺亭』は潰したりなんかしないんだから! 母ちゃんの好きだったこの店はあたしが絶対守ってみせるもの……だから父ちゃんもしっかりしてよね! ほらっ、行くわよ山吹!」
ずんずん先立って歩いていく紬を山吹が遠慮がちに追いかけ、その二人を父親は苦笑と共に見守っていた。
「さっきこの国随一の超有名うどん屋だ、とか何とか言ってなかったか?」
聞いてなさそうでしっかり覚えていたらしく、半眼で言う山吹。ぐっと詰まったものの、紬は開き直ってつんと顎を逸らした。
「嘘じゃないわよ。い、今は確かにちょっと貧乏……だったりもするけど、絶対あたしが実現してみせるんだから。お金を稼いでもっといい出汁を使って、どこにも負けないうどんを出す。それがあたしの夢なの」
「ふうん……それで俺の宝に目をつけたってわけか」
鋭く図星を指され、紬は今度こそ言葉を失った。確かに、店を守るために少しでも利用できるものはさせてもらうつもりだったから。責められるかと覚悟した紬の頭に、山吹の大きな手が置かれた。目を開けると、にっこり笑う優しい顔。
「大丈夫、そんだけ強い目で言えるんだ。お前の夢、絶対実現できるさ」
「……あ、ありがと」
なぜこんな化け猫の少年にお礼を言っているのだろう。でも、まだ年若い紬の気負いを笑うでも憐れむでもなく、ただ受け止めてくれた相手は初めてだった。それが人でなくても、優しい微笑に心が温かくなった気がする。
(変なの、あたしったら――)
頬を染めてしまったことを気づかれぬよう、少し俯く。と同時に気づいた。例え人でなくても、何かを大切に想う気持ちはきっと同じなのだ。だから山吹も、紬の想いをわかってくれた。なら、自分も彼のためにできることをしてあげるべきじゃないだろうか?
「なあ、着物を脱ぐのがだめなら、着せるのはどうなんだ?」
「はあ? 何言って……」
眉を寄せ、共に歩いていた街中を見渡す。山吹の目線を追って、はっと思い浮かんだ。
「そうだわ! いいこと考えた……あんたとあたし、二人ともの目的を果たせる最高の名案!」
「えっ?」
「いいから来て! そうよ、着物を着せればいいのよ!」
弾んだ息で紬が飛び込んだのは、見知った呉服屋『花吹雪』。父の寄り合い仲間、弥平が営んでいる店の中だ。
「おや紬ちゃん、そっちの彼は恋人かい? 紬ちゃんももうお年頃だもんなあ~うんうん、おれも女房と出会ったのは紬ちゃんと同じ十六の時だった……」
「おじさん悪いけど長い話は勘弁! その今も可愛い奥さんのお雪さんどこ!?」
いつものおのろけを容赦なくぶったぎり、勇んで訊ねる。と、年を取ってもまだほっそり色白美人のお雪さんが奥から出てきた。
「お雪さん、お願い! 何も聞かずに協力して!」
小首を傾げたお雪さんに、紬は飛びついた。
翌日のお昼時、紬は往来に立ち、笑顔で声を張り上げていた。
「さあ、寄ってらっしゃい食べてらっしゃい! 今なら特別、我が『花葺亭』のうどんを食べて下さったお客さんには、お向かいの『花吹雪』で百花参りの晴れ着までお得に借りられますよ~!」
「貸衣装とうどん……なるほど!」
不思議そうに見守っていた山吹が手を打つ。そう、これこそ紬の名案――お参りに来た年頃の娘の痣を確認し、ちゃっかりうどんまで売ってしまおうという策だった。
更に、お雪に頼んだことはもう一つ。
「へえ~記憶がないの? かわいそう~」
「生き別れの妹さんを捜してるんですって」
「右肩に花模様の痣がある子? 聞いたことないわねえ」
店の前で立ち話をするのは、お雪の知り合いの女性客たち。詳細はごまかして、同時に痣の噂も広めようという作戦だった。
そして数日後、店には行列ができるほどになっていた。貸衣装とうどんの売上は伸びて嬉しいものの、肝心の痣を持つ娘は未だ見つからず。お雪の代わりに『花吹雪』の店番中、疲れた脚をさすっていると、そばにいた山吹が浮かない顔をした。
「俺の力さえ戻ればな……ごめん、紬」
「な、何突然殊勝なこと言ってんの。きっと見つかるわよ、元気出しなさいって」
隠している尻尾が見えていたら、しょんぼり下がっていそうな落ち込みぶりだ。逆にはっぱをかけるが、それでも山吹の表情は冴えない。
「どうしたの? なんか他に心配事でも?」
「うん……なんか、頭の奥にひっかかってることがある気がするんだ」
しばらく考え込んでいた山吹が、あきらめたように首を振る。
「だめだ、思い出せねえ。でも、なんかもう一つ、元に戻るための大事な条件があったような……」
心配そうに見守っていた紬は、客の気配に立ち上がる。見ると派手な化粧をして艶やかな晴れ着を身に着けた、遊女の集団だった。年に一度、百花参りだけは彼女たちにも花街からの外出が許されているのだ。
「い、いらっしゃい。どうぞ中へ」
紬が教えた通りの愛想笑いで山吹が迎えると、遊女たちから黄色い声が上がる。
「やだあ、笑うとすっごい可愛い~!」
「ねえねえ、いくつ? どこから来たの?」
「なんで頭に布巻いてるの? 怪我でもしたの?」
「わ、ちょっ、やめ……あちこち触るにゃっ」
なんとも積極的な女性たちにべたべた触られて困っている(ちなみに猫声まで出しかけている)山吹の腕を、紬はぐんと引いた。中でも一番目を引く赤い着物の女性が不満げに眉を寄せた。目尻にあるほくろと厚めの唇が色香を漂わせる美女だ。
「なあに? あなた、彼の恋人なの?」
「そ、そんなんじゃありません! それよりご用は、貸衣装ですか?」
「なんだ、恋人じゃないなら邪魔しないでよ。熱いうどんなんて嫌いだし、衣装も間に合ってるわ。あたしたちはね、お雪さんに頼まれてここへ来たの」
高飛車な物言いに思わずむっとするが、言葉の最後で目を見開いた。
「え、じゃあもしかして肩に痣が……?」
「ふふん、どうかしらね。誰に痣があるのか、直接彼に見てもらえばいいじゃない? その前にせっかくだからお花見でもしましょうよ、可愛い客引きさん?」
「ほら、行きましょう。優しくしてあげるから……ね?」
肩に手をかけ、しなだれかかる女性たち。彼女たちの強引さに驚いていた紬は、止めようとして突き飛ばされる形になった。それを見た瞬間、困惑気味だった山吹が険しい顔になり、彼女らを払いのける。
「悪いけど、花見の相手はもう決まってる。行こうぜ、紬」
「で、でも、店番もあるし、せっかく痣があるかもしれない人が――」
「いいから早く」
差し出された手を、ためらいがちに握る。強い力に起こされ、引っ張っていかれる紬を、遊女たちは悔しげに見ていた。
思えば一番多忙なこの季節、百花参りに来るのは初めてだった。大賑わいの参道を無言で進んでいた山吹がぽつりと呟いた
「……ごめん。お前が突き飛ばされんの見たらなんか無性に腹が立って、つい連れ出しちまった。店番のこと悪かったな」
ぶっきらぼうな呟きに、紬の頬が染まる。
「う、ううん。お雪さんもすぐ戻るって言ってたし、あたしは連れて来てもらって正直嬉しかったっていうか……やだ、妹さんまだ見つかってないのに何言ってんだろ。やっぱり戻――」
「いいって言ったろ? この際だ、とことん花見を楽しもうぜ。それくらい、きっと桜華も許してくれる」
照れたような優しい笑顔に思わずどきりとしつつ、再び手を握り合う。商売ばかり気にして、懸命に歩んできた自分に与えられた、自由な一日。これこそ何よりの宝物かもしれない。そんな風に思えたのだった。
屋台に行商人に旅芸人たち――既にあふれた参拝客が、それぞれの騒ぎにまた賑わう。なんとなく手を繋いだまま人ごみを練り歩き、一つ一つの盛り上がりに共に笑い合いながら、紬と山吹は境内に入った。
いつしか夕刻も近くなり、等間隔に並んだ灯篭や吊り下げられた提灯が薄闇を照らしている。優しい夜の訪れに添えられた美は、境内にそびえるご神木。樹齢千年以上の桜の古木だった。
「綺麗……」
春の夜風にはらはらと舞い落ちてくる花びら。思わずうっとりと見上げていた紬は、肩に落ちた花弁の一つを取ってくれた山吹と目が合い、固まってしまう。至近距離で見た彼は、出会った時より清潔な格好をしているからだけでなく、元々整った風貌であることに気づいたのだ。何より、温かくて優しい心の持ち主だとわかっている。
あの女性たちが騒ぐ気持ちも少しわかる、と納得しかけ、そんな自分に一番戸惑った。その瞬間、強い風が吹き、二人は同時に振り返った。突然、低く不吉な声がしたからだった。
「見いつけた……!」
二人を見つめていたのは、先ほど店で山吹に迫った美しい遊女。結い髪が風に崩れ、はらりと背に流れる。同時に彼女が強く襟を引き下げ、右肩にくっきりと桜模様の赤い痣が見えた。
「あなたが、桜華、さん!?」
目を見開いた山吹の代わりに、紬が問う。が、彼女――桜華は紬に目もくれなかった。
「会ってすぐに、なぜ気づいてくれないの? ずっと待っていたのに……!」
「お前が――? そんな……」
「とぼけたふりしてお得意の悪ふざけでもしてるのかと思えば、本気で忘れているのね。それとも思い出したくなかったの? 自分が捨てた、恋人だから……!?」
嘘、と息を呑んだ紬を、凄まじい目で彼女は睨む。
「いつも妹扱いばかりして、大事な約束まで忘れているなんて、絶対許せない! 連翹……っ!」
その名を叫ばれた刹那、山吹の顔が変わった。思い出そうとするようなもどかしげな表情に確信が戻り、視線に強い意志が宿る。更に暴れる強風、狂ったように舞う桜の花吹雪。提灯を飛ばされ、屋台を乱され、散り散りに逃げていく参拝客。境内に残ったのは紬と山吹、そして、恨みと怨念に燃える目をした桜華だった。
「本当のあなたに戻って、全部思い出してよ……あの愛の約束も、全てを!」
「うっ……ああああああ……!」
「山吹……っ!」
悲鳴をあげ、自らの体をかき抱く彼に、必死で駆け寄る。
「あなたなんて、彼の宝が目当てなんでしょう? どうせ、化け猫の彼なんて気味が悪いと思ってるくせに!」
噛み付くように桜華が叫び、紬は恐怖も忘れて睨み返した。
「思ってない! 宝なんてどうでもいい……化け猫だってなんだって、山吹が無事ならそれでいいんだからっ!!」
そうだ、大事なことは一つだけ。どうしてかなんてわからない。理由なんてどうでもいい。ただ、山吹が――そのままの彼が、ずっと隣にいてくれれば。
息を切らして叫びきった紬は、苦しむ山吹を抱きしめた。たった数日間そばにいただけなのに、いつしか大切に想い始めていた、彼の体を。
どれくらいそうしていたのか、気づけば荒れ狂うように吹いていた風がやみ、聞こえたのは桜華の声。
「……ま、合格かしらね」
顔を上げると、両手を腰に置き、くすっと笑う彼女が見えた。嫣然として見えた先ほどより幼く、可愛らしい印象に変わった綺麗な顔――の上には、山吹と同じ猫耳が二つ。混乱状態の紬のそばで、山吹がゆっくりと起き上がった。
「あー、いってー……すんげー荒療治だぞ桜華、この馬鹿妹め」
「だーかーらー、能力もあたしより劣るくせに兄貴面するなって言ってんでしょ? どうせ今全部思い出したんでしょうが、ほんっと間抜けなんだから困っちゃうわ」
先ほど見せた恨みつらみはどこへやら、さっぱりと言ってのける彼女に、山吹も鼻を鳴らす。紬は呆然として口を開いた。
「え、ど、どゆこと……?」
「あ、ごめんごめん。お兄ちゃんにかけられてた術完璧に解くには、別の力が必要でさー」と桜華が笑う。隣ではぽりぽりと猫耳を掻く、照れた顔。
「人間にかけられた術は、人間にしか解けないの。しかも、術をかけられてるこのお間抜け兄貴を本気で想ってくれる女の子だけで、兄貴もその子を想ってなきゃだめ。なんて難しい条件だったから試してみたんだけど、無事に解けてよかったわ。やっとあたしの力も戻ったし、これもあのいいかげんな人相書と痣の話で気づいて、お仲間が知らせてくれたおかげよねー。二人ともせいぜい感謝してよ?」
ぺらぺらと調子よく語る桜華が顎をしゃくった先にいたのは、仲良く腕を組んで花見に来たらしい弥平とお雪の二人。いつまでも美しい彼女は、こちらを見て意味深に片目を閉じてくれた。その足元にゆらめくのは、尻尾のような黒い影。
「えっ、お、お雪さんが化け猫――!?」
そんな呟きが聞こえたかのように人差し指を立て、微笑むお雪。花見の甘酒を、ふうふう何度も冷まして飲んでいる。紬は驚愕にひたすら目を瞬かせていた。
後日、完全なる化け猫体に戻ったらしい連翹――山吹は、紬が付けた名のほうを気に入って使っていた。あれ以来客足の増えた『花葺亭』を、紬と共に手伝いながら。
「ねえ、化け猫の里に帰らなくていいの?」
「桜華も人里が気に入ったとかって好きにやってるし、俺もお前といるの楽しいから」
さらりと無邪気に言われ、紬はそっぽを向く。うどんの湯気が妙に熱い。
「べ、別にいいけど……それにしても、お宝がただの鰹節だとはね」
「あれは家宝の、削っても削ってもなくならない黄金の鰹節だぞ? おかげで店も繁盛してるだろ?」
「元々味がいいからよっ、恩着せないで」
膨れついでに猫耳を引っ張ると、山吹が抗議の猫声を上げた。
「それが惚れた男に対する態度かよっ、この暴力娘!」
「ばっ、馬鹿、何言ってんのよ! 惚れてなんか……」
「おーお、照れてやんの。術が解けたのが何よりの証拠だぜ?」
同時に彼の気持ちの証拠でもあるのだが、動揺している紬に反撃の余裕はない。
「違うわよ! あれはただ」
「ただ……?」
誰もいない店の裏、突然間近で問いかけられ、紬の頬がまた染まる。真剣に見つめてくる、薄茶の瞳。
「だ、だめよ仕事中に――」
どきどきに耐え切れず真っ赤な顔を背けると、勢いで髪が揺れた。途端、「ふにゃっ!」とその髪の先を追いかける山吹。
「あたしは猫じゃらしじゃなーいっ!」
ごん、と盆を振り下ろし、伸びている山吹を尻目に紬は店内へ戻っていく。まだ赤いその顔は、少し残念そうにむくれていた。乙女の心、化け猫知らず――春うららかな、優しい午後は暮れ行く。
(了)
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