八十三升目。そして冬は過ぎ1
春の日差しが川の水面をやわらかくきらきらと照らしていた。
心地よい春風に吹かれながら伏し目がちで思い出す。
あの冬の日のワイン。
みんなで飲んで、楽しくて、美味しくて。
あの頃より髪が少し、長くなった。
長くなった髪を風が軽く優しくなでてゆく。
冬の日。皆飲んで騒いで寝静まった夜中。
ふと目を覚まし喉の渇きと共に尿意を覚えて階下へ降りる。
トイレへ行ってから水を飲むためリビングと一緒になっているキッチンへ。
常夜灯の薄明かりの中、人影が目に入る。
背中でわかった。信子さんだ。
リビングで寝てしまったのかと思い、
声をかけようとして止まる。
起きている。起きて泣いていた。
グラスを二つ置いて。ワインを入れて。
手前にあるグラスに手を添え、
泣きながら聞き取れない小声でもう一つのグラスに語りかけていた。
「親不孝者」
その一言だけはっきり聞き取れた。
その一言だけ強く、声がした。
幸太へ語りかけてるとすぐわかった。
「・・・・・・信子さん」
呼びかけるのにためらい、
よほど二階の寝室へ逃げようかと思った。
しかし両手をぐっと握り小さく声をかけた。
がたっと椅子が音を立て、
驚いた顔でふり返る信子。
「信子さん」
もう一度名を呼ぶ。
「アキちゃん」
泣き声のまま名を呼ばれる。
「ごめんね、ごめんなさいね」
謝りながら涙をぬぐう。
「なんでですか?なんで信子さんが謝るんですか?」
自然と少し強い口調になり自分で驚く。
信子はハッとしたような顔になりながら、
「そうね。そうだけど、今はごめんなさいしか出てこないの。ごめんね」
「アキちゃんに心配かけちゃいけないのにね」
そのまま嗚咽をもらす。
「そんなことないです!」
今度は意識してはっきりと言った。
「信子さんは良くしてくれてます。
本当は一番辛いのにボクに良くしてくれてます」
自分も涙声になりながら、
「だから無理しないでください!
なんて言っていいかわからないですけど・・・・・・。
頭悪いから言葉出てこないですけど。
ボクにだって、ボクにだって少しは・・・・・・」
そこで言葉が途切れてしまい、泣き出してしまう。
信子がアキへかける言葉を探していると。
「ボクにだって少しは力になれることもあるし、
耐えることもできる。だから無理して明るく振る舞わなくていい、ってか」
眠たげな声とあくび。
誰も居ないと思っていた二人は驚き、入り口の方へ顔を向けた。
「迎え酒取りに来ただけッスよー」
手を振りながら道満は二人を横目に冷蔵庫を開ける。
缶ビールを取り出しながら、
「アキ。お前の気持ちはわかるけどさ、
お前はお前が思ってるほどそこまで強くねーよ。
もうしばらく素直に甘えとけ。
信子さんはアキの言うとおり無理しすぎ」
アキと信子はポカンとして道満を見ている。
「二人の妥協点?っていうか、
まー、お互いあんまし気を使わなくていいとこ見つければいいんじゃないんスか」
「そいじゃ、おやすみー」
あっけにとられる二人をあとにビールを飲みながら二階へ上がってゆく。
道満を見送ったあと、しばらくして二人は顔を見合わせて笑いだした。
涙はそのまま小さな声で抱き合って笑った。
アキは水面にその光景を映すように思い出し、風に吹かれていた。




