終わらない迷路
誰かが泣いてる。
大きな瞳にいっぱいの涙を溜めて。
小さい体を更に小さく丸めて、顔をくしゃくしゃにしてた。
嘆くように両手を顔にあてがい、いやいやとかぶりを振る。
顔が隠れて、誰か判断できない。
まだ幼い女の子。木々に囲まれ泣いている。
どうしたの? 何故泣いてるの? 貴女は誰なの?
私の問いに返ってくるのは泣き声だけ……。
◇
柔らかい光と、温かなぬくもり。心地好さに私は瞼を震わせた。
「起きた?」
かけられた言葉に、意識がだんだんとクリアになる。
白くぼやけた視界は色を取り戻し、眩しさを私におくった。
その景色の中で、彼の穏やかな表情が浮かんでいる。
「……白ウサギ?」
呂律が上手く回らず、舌っ足らずな声になった。目の前の彼は、にっこりと微笑んだ。
ゆっくりと状況確認をすれば、私は白ウサギの胸に背中を預ける姿勢で抱きしめられている。
下半身は彼の膝をわって間にすべりこめさせて、頭は肩に乗せていた。
自覚してくると共に、こみあげてくる羞恥心。
「ご、ごめん! やだ、私いつのまに寝て……」
彼から離れ、謝罪の言葉を何度も述べる。だけど、当の本人は木の幹に寄りかかったまま、不思議そうに首をかたむける。
「アリス、君が謝ることは何ひとつない。ずっと歩きっぱなしで疲れたでしょう? まだ眠ってていいよ」
慈しむような甘い声色で言い、私を引き寄せる白ウサギ。そっと腕をまわし、私のウエスト辺りで両手を絡ませた。
私は首を巡らせて、背後の彼を見る。優しいその表情は、少しだけ憂いを帯びていた。
「あの、私、もう平気よ? だからお城に───」
私が最後まで言いきることはなかった。途中で、聞き覚えのある声が聞こえたから。
「……あ……」
無意識に漏れた声に、白ウサギが首を捻る。だけど、この時の私はそんな事気にもせず、彼の緩い拘束から脱け出した。
( 唯 )
哀しい声だった。私は身体を起こして、一点を見つめる。
帽子屋のおかげで森から脱出できた私達は、メルヘンな街にいた。街といっても建物は少なく、自然が多い。
いや、今はそんな事より、この声の正体だ。
私はこんな声知らない。なのに、懐かしさと愛しさと切なさが、心を支配する。
――行かなきゃ。
そんな言葉にとらわれる。気がつけば、私は白ウサギに背を向けていた。
「アリスっ!」
後ろで白ウサギの制止の声がする。けれど、私はそれを聞こうともせず、最初はゆっくりと、次第に走り始めていた。
(唯。来て。こっちよ)
僅かに震えた声。引力でも持っているのか、私は強く引き寄せられる。
「待って、アリス!」
不意に、腕を掴まれた。突然のことによろけつつも、なんとか体勢を保つ。
腕を掴んだ彼は、ひどく苦しげな表情をしていた。大して走ってないだろうに、なぜか汗を浮かばせる。
しかし、生憎なことに、今の私はそれについて何も思わなかった。余裕がなかったんだ、きっと。
「アリ──」
「放してっ!」
彼の腕を振り払い、再び走り始める。困惑した彼の様子なんて目にも止めず、ひたすら私は走った。
「アリス!」
背後で彼が叫ぶ。
(唯……早く、急いで)
だけど私は、今まで守ってくれた白ウサギより、正体の分からない声を追った。
私の視界の中、曲がり角をヒラリと赤い布が揺れる。まるで私を誘うように。私は導かれるままに、その角を曲がった。けれど、そこには誰の姿もなく、また角を曲がる。先程よりも布の面積が多く見えた。
――あれって……スカート?
しかも一瞬だけ見えた後ろ姿からして、それはエプロンドレス。そう、私の服と色違い。
でも……、なんで?
疑問が次々と流れこんでくる。けれども足はとめない。声が聞こえるかぎり、追い掛けなきゃいけない。それはきっと、義務のように。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
どのくらい走っただろう。私が息切れするくらいになった時にようやく声の人物は止まった。
今度こそ、しっかりとその姿を目に焼き付ける。
「…唯……」
切なげに私の名前をこぼしたのは、私とそう変わらない歳の女の子だった。
真っ赤な服を身に纏い、射抜くほど強い視線を送ってくる。頭の奥で、警報が鳴った。
知ってはいけない。
気付いてはいけない。
思い出してはいけない。
もうひとりの私が、そう言っている。なのに、足は確実に女の子へと向かっていた。
「貴女は──誰?」
そう尋ねると、彼女は胸元に置いた右手をきゅっと握りしめる。なにかに堪えるように。
「本当に忘れちゃったんだね、唯」
「……なに言って」
口唇が震えた。身に覚えのないはずなのに、私は動揺してる。
知らない。
こんなの、知らない。
襲いくる頭痛に目眩がする。私が歩みを止めると、彼女から近付いてきた。私は身動きひとつ出来ず、ただ固まったまま彼女を見る。
「私は芽衣。唯の味方」
そう言って私の頭に手を伸ばしてきたから、つい反射的に首をすぼめた。
芽衣と名乗った彼女は私の前髪を撫でつけ、その柔らかい手を私の頬へと滑らせる。
温かい、人の温度だった。ふっくらとした手の平も、繊細な細い指先も、優しく触れるその仕草も、すべてが懐かしい。
気持ちよさに目を閉じると、彼女は口を開く。
「貴女は帰らなきゃ。ここに居ては駄目。確かに不思議の国の住人は優しい。でもその幸せは見せかけ、もう二度と帰れなくる」
真剣な声色だった。言葉のひとつひとつを、必死に考える。思考がなかなかついていかない。
けれど、だんだんと理解すると、嫌な汗が背中を流れた。鼓動が半端なく荒々しい。
「今なら間に合うわ。そこの薔薇園を抜ければ戻れる。ほら、早く行って」
目の前の彼女は、色彩鮮やかな庭園を指差して言った。だけど………。
「あ、貴女は誰なの? なんで私を知ってるの? それに、帰るって……」
よく分からない女の子に従うほど、私は単純じゃない。確かにもとの世界には戻りたいと思う。しかし、それよりもこの芽衣という娘の事を知りたかった。
「…唯。私は」
彼女が言いきることはなかった。は、という声に、それより大きな声が重なったから。
「アリスっ!」
振り向けば、息を切らした白ウサギが迫っていた。穏やかな表情は消え、焦りと戸惑いに染まっている。
鈍い私が読みとれるのだから、大変なものだ。
「白ウサギ……」
呟くと共に、強く腕をひかれる。驚いて顔をあげると、女の子が眉を寄せて、頬を軽く痙攣させていた。
「早く行って! 白ウサギは私が引き留めるから!」
そう言って、私の背中を押した。荒々しいそれは、危機感を表している。
私は躊躇いつつも、押されるままに薔薇園へ走った。
最後に見えた芽衣の表情は、寂しげな微笑。口許が、サヨナラと動いた気がする。
◇
走って走って走って、私は薔薇園を抜けた。途切れ途切れに視界にちらついた薔薇は、色とりどりで見事だったけれど、それを綺麗と思う隙もない。
たどり着いた先は、中世のヨーロッパにでも在りそうな井戸。汚れひとつないそれは、手入れでもされているのだろうか。
けれど、そんな事より私が驚いたのは、目の前の綺麗な井戸に腰掛けている人物にである。
「……チェシャ猫?」
いつしか森に私を連れ去った、猫の少年。尻尾をゆらゆらと揺らしながら、妖しげな笑みを浮かべている。
「なんで此処に…」
「あんた、帰るの?」
私の問いをさらりと無視し、逆に尋ねてきた。口は弧を描いているが、目が笑っていない。恐怖心のようなものが、私に纏わりつく。
「女の子が、此処に来れば帰れるって……だから、私」
「ふうん?」
言いきらない内に、猫は面白く無さげに漏らす。笑っているのに、笑っていない。なんでこんなにも不機嫌なんだろう。
「ど、退いてほしいんだけど」
手が届くぐらい少年に近付き、意見を主張すると、チェシャ猫はピンクの瞳をすっと細めた。獲物を見定めるような目付きに、背筋が凍る。逃げたいと、思った。
「帰さないよ、唯」
猫は笑う。声には出さず、口許だけで。
痛くて、切なくて、悲しくて、胸が苦しい。