第二章 伝わらない常識
第二章の始まりです。
その後、私はチェシャ猫の棒つきキャンディを舐めてもとの大きさに戻った。
これは備考だけど、猫の舐めかけの飴は、森にあった泉の水で洗ってから食べた。
実際に食べる私よりも、白ウサギのほうが嫌がったからね。猫のこと、余程毛嫌いしてるみたい。
……まぁ、分からなくもないけど。
(唯──)
「え?」
誰かに呼ばれた気がして、私はつい振り向いた。だけど、誰もいない。
なんだろう、前にもこんな事があったような……既視感って言うのかな。
「アリス?」
いつまでも止まっている私を不審に思ったのか、白ウサギが声をかける。
「どうしたの?」
「今、誰かに呼ばれて……」
「? 何もいないよ」
確かにその通り。私の視界には、だいぶ明るくなった森の景色だけ。
そもそも、私を唯と呼ぶ者はこの世界にいない。
――気のせいかな。自分の名前が恋しくなっているのかも。
ここの住人はみんな私をアリスと呼ぶ。時々自分の名前を忘れそうになるくらい。
もしかして、今の声は心の中の声だったのかもしれない。
忘れないようにと、脳の私が命令して、それが聞こえたように感じたとか……。
わたしは有栖川唯。アリスじゃない。
呪文みたいに心の中で唱えると、なぜか胸がきゅっ、と切なくなった。
「アリス、行こう」
動かない私に痺れを切らしたのか、白ウサギは私の腕をひいて歩き始めた。
痛くはないけど、少し強い力で掴まれている。まるで逃がさないとでも言うように。
それが彼らしくなくて、不安になった。
思えば、昨日まで平凡な女子高生をやっていた私が、今はウサギのような人と一緒に歩いているなんて、かなりおかしな事だ。
私は本当に白ウサギについていっていいの? どうやったらもとの世界に帰れるの?
(白ウサギを信頼しすぎないほうがいい)
頭にこべりついて離れない、チェシャ猫の言葉。白ウサギは猫は嘘つきと言った。
でも、もし、それさえも嘘だったら? 彼について行くことは、とても危険なんじゃないかな。
私は、白ウサギの手をぎゅっと握った。それに気づいて、彼は私を見る。
「アリス?」
「………」
なんて言えばいいんだろう。頭の中では聞きたいことがぐるぐる回っているのに、言葉にできない。
「…白ウサギは」
やっと出た、小さな声。白ウサギは私を見つめたまま、先を促すように黙っている。
「白ウサギは、私の味方、だよね?」
少しばかり震えた声に情けなくなった。彼は表情を変えなかったけれど、赤い瞳が、ちょっと揺れた気がする。
しばらく無言だった白ウサギは、ふっと頬を緩め、私を包むように抱きしめた。
「当たり前だよ、アリス。僕は誰よりも君の側にいる。いつどこに居たって見つけれる。どんな時でも守るよ。今までだって、そうだったろう?」
「……そう、ね。うん」
そうだ。何を迷っていたのだろう。白ウサギは、こんなにも優しい。猫にそそのかされたぐらいで疑うなんて、馬鹿だ。
現に私はチェシャ猫に騙されたというのに。意地悪だってされた。
どちらを信じるかなんて、愚問……。
「ねぇ、白ウサギ」
「なに?」
彼は少し体を離し、私の肩に手を置いたまま、見つめる。
「貴方はどういう身分なの?」
ずっと気になっていたこと。チェシャ猫以外は、みんな白ウサギに控え目だった気がする。
ビルは様付けだったし、芋虫は敬語で一礼してた。白ウサギが命令口調にも感じたし。
白ウサギは、軽く首を捻り、考える仕草をしながら
「敢えて言うなら案内人かな」
と言った。
「案内人?」
「そう。アリスを城まで導く係。女王、公爵の次の位だよ」
私が尋ねれば、彼は微笑んで答える。
――わりと地位高いのかな。
この世界の詳しい事情は知らないけど、女王や公爵の次なんだから、それなりの権力はあるだろう。
「……じゃあ、私は?」
上目に尋ねると、彼は瞳をすっと細くした。え?と感じたのもつかの間、彼はまた私を抱きしめる。
「白ウサギ?」
「アリスはこの世界では絶対だよ。誰よりも偉く、誰よりも尊い。僕等とは別格だ。アリスが望めば、誰もそれを咎められない。神に等しい存在さ」
――神!? な、なんか大袈裟じゃない?
私が白ウサギの腕の中であたふたしてると、彼はそれさえも押さえつけるように、きつく抱き締める。
「あ、あの白ウサギ。痛いよ」
「……うん」
――いや、うんじゃなくて。
もう少し力を弱めてほしい。これでは、みじろぐ事すら叶わない。
「アリスは、この世界をどう思う?」
頭に彼の息がかかる。抱き締められているため、表情を伺えない。
だけど、声がやけに真剣だったから、私は思考回路を動かした。
――どう思うって……。不思議な世界よね。やたらメルヘンだし。
「……良い所だと思うよ。なんだかんだで、平和だし」
当たり障りのないよう言った。嘘はついてない。
「──そう。じゃあ、向こうの世界と、どっちが好き?」
彼の言う向こうの世界が、私がもと居た世界のことを指していることは容易く理解できた。
けれど、答えることができない。正直に言えば、もと居た世界が恋しい。私が17年間暮らした場所なのだから。
でも、言えない。だってそれは、この世界を否定してるみたいで。
「わ、私は───」
「ねぇアリス」
彼が私の言葉を遮る。
「ここは幸せだよ。君の望むものが何でも手に入るし、みんな君を愛す。痛いことも、悲しいことも、傷つくことも、君を苦しめることは何ひとつない。理想郷。楽園。いつだって笑顔でいられる」
すがるような、弱々しい声だった。私を抱きしめる腕だって、心なしか震えている。
分からない。状況が、分からない。私はただ、学校から帰ろうとしてただけ。そしたら声が聞こえて、追い掛けたら井戸に落ちて、気がつけば不思議な世界に迷いこんだ。
どこで間違えた?
何がいけなかった?
誰かが聞いたら呆れる、馬鹿げたメルヘンな世界。
だけど、私は今ここに立っていて、夢かもと思ったけど、転んだとき感じた痛みは本物で。
目を醒ますことも叶わない。
「なんで、私を連れてきたの……?」
口から勝手に零れた言葉に、白ウサギの肩がピクリと反応する。そっと私を放した。
やっと見えた表情は、哀しい儚げな笑み。
「僕等には、アリスが必要なんだ」
出された答えを、私が知ることはないの?
平和な日常。繰り返しの毎日。崩れた常識。
泣いているのは、だれ?
「……なんで?」
私は尋ねる。さっきから、何故、どうしてばかりだ。まるで堂々めぐり。進まない会話。偽りの真実。全てが無意味に思える。
「………。アリスは、何も心配しないでいい。悪くはしないから」
そう言って白ウサギは、私の頭を撫でた。優しく髪をすくその冷たい手が、泣きそうな程切ない。
「白ウサギ」
「行こう。本当に遅刻する。あまりに遅くなると、女王様が怒るよ」
僕にだけだけど、と付け足して、白ウサギは再び歩き始める。
いつもみたいに、手は握ってくれなかった。ただそれだけの事で悲しいなんて、すっかり彼に依存してる。
――結局はぐらかされたわ。
半歩先にある白ウサギの背中が遠い。実際の距離は、無いに等しいはずなのに。
( 唯 )
また、聞こえる。行くなとでも言うように。
どこかで聞いたことのある声に、後ろ髪をひかれる。記憶を探っても、頭痛がするだけ。
私は声を振り切るように、白ウサギの隣に走った。
それでも彼について行ったのは、不安にかられるこの心を、癒してほしかったからかもしれないね。