芋虫のアドバイス
生い茂る木々が、日光を遮断する。あんなに爽やかだと感じていた風も、今は気味悪い以外のなんでもない。
「こんなのってない……」
うう、と半ベソかきつつも、私は広い森を歩いた。正直とても怖いけど、ただじっと震えてるよりはマシだと思う。
湿った地面を踏みながら、時折大木の根っこにひっかかってつまずいても。私はひたすら歩いた。あの和やかな景色に戻るという希望を信じて。
せっかく貰った服も、だいぶ汚れてしまった。転んだ所為ですりむいた膝だって痛い。これもどれも全部あの猫のせい。
そろそろ泣きそうになった時、声をかけられた。
「あら、その服…。貴女、アリスじゃなくて?」
鈴を転がしたような、可愛い声だった。だけど、キョロキョロと周りを見渡しても、それらしい人物はいない。
「やだわ。ここよここ」
やや上から聞こえた声に、顔をあげる。そこにあったのは、なんのヘンテツもないチューリップだ。
「やっと気づいてくれた」
いや、前言撤回。おかしすぎ。どこの世界に喋る花がいる?
花だから表情は分からないけど、今発した声は弾んでいた。嬉しい、とでも言いたげに。
「ねぇ、貴女アリスでしょ?」
「──えっと、白ウサギはそう呼ぶよ」
本名は唯だけど、と加えてみたけど、チューリップは聞いてくれなかった。
「まぁ! 白ウサギが呼んだならアリスよ! アリス、来てくれたのね。嬉しいわ」
葉っぱをこれでもか、というくらい揺らし、すごい声量で叫ぶ。
――私、どういう身分なんだろう。
チューリップはやたら嬉しいのか、周りの花にまで話しかけた。
「アリス!? アリスなのね!?」
「ああ、良かった。本当に良かった…!」
「これでしばらくは平和だわ」
順に、パンジー、鈴蘭、ゆり。皆してきゃあきゃあとはやしたてる。だけど、口にしてる言葉はいまいち不明だ。
良かった? 平和? しばらく? ……なにがだろう。
「あら、でもなんでアリスは一人なの? 白ウサギは? それに随分小さいのね」
やっと興奮からさめたのか、パンジーが不思議そうに尋ねる。私は自分より大きい花たちに少し圧倒されつつも、正直に話すことにした。
もしかしたら、助けてくれるかもしれない。
「実は、チェシャ猫に拐われて、白ウサギとはぐれちゃったの。この大きさも、猫特製チョコ……飴を食べたから」
簡単に説明すると、花たちは凄い剣幕で騒ぎだした。
「猫!? 猫ですって!?」
「あの忌々しいチェシャ猫ね!?」
「なんて可哀想なアリス!」
すごい怒りよう。落ち着いた花たちが、再び騒ぎだした。出てくる言葉はどれもチェシャ猫に対する罵声。猫は花に嫌われてるらしい。
「アリスをいじめるなど、なんて愚かなの! これだから猫は困るわっ」
「……なんでそんな嫌うの?」
私が尋ねると、花たちは声を揃えて、まぁっ、と叫ぶ。そんなに変なこと言ったかな?
「おや、アリスじゃないかい」
私と私をほったらかしのまま騒いでいた花たちに届いた声。振り向けば、私と同じ大きさの芋虫がいた。
「きゃあっ!」
思わず尻餅をつく。私はこの奇妙な世界に、未だ慣れてないみたい。
だけど、自分くらい大きい芋虫が現れたら、普通驚くよね?
「おやおや、大丈夫かい?」
そう言って、私に近づく黄緑の生物。怖すぎる。
腰が抜けた私に、たくさんの手──みたいなもの──を差し出してきたから、私はあわてて丁重にお断りした。
「芋虫さんだわ」
「あら本当」
花たちが言う。『さん』をつけているあたり、仲は悪くないと感じられた。
「芋虫さん、アリスを助けてあげて下さらない?」
そうよ、と両葉を合わせ、そう言った鈴蘭。芋虫は首を傾げた。
「あのね、アリスは白ウサギとはぐれて困っているの。芋虫さんならなんとかなるでしょう?」
説明するゆりに、芋虫は私を見て、そうなのかい?と聞いてきた。私は遠慮がちに頷く。
「アリスの願いなら断れない。こっちへおいで」
そう言ってのそりと歩きだす芋虫のあとを、私は小走りで追った。振り返りぎわに、花たちにお辞儀をして。
◇
花たちが見えない所まで来ると、芋虫は足を止めた。それに続いて私も止まる。
「あの……」
「大丈夫。アリスがどこに居たって、白ウサギは見つけれる。それがウサギの役目だから」
はっきりと断言し、芋虫はゆっくりと振り向いた。
「見つけれるって……じゃあ」
「その前にアリス」
安心したのもつかの間、言いかけた私の声を遮った。途端、カチリと目が合う。思ってたよりずっと真剣な目をしていた。
異常に鼓動が早くなってしまう。視線がはがせなかった。
「アリス、帰りたいなら今のうちだ。染まってからじゃ遅い」
最初、何を言っているのか分からなかった。だけど、その言葉は確実に私を動揺させる。
「本当に城へ行くのかい?」
「…だって……」
その後の言葉が出てこない。喉がからからに渇く。軽い頭痛もした。熱が出たみたいに、息切れして体が熱い。
「アリス、君が望むなら──」
「アリス!!」
芋虫の声に重なったのは、きっと何よりも求めてたもの。
「やっと見つけた。そんなに小さくなって……」
「白、ウサギ」
名前を声にすると、私はどっと脱力した。へなへなと座りこむ。
「芋虫。アリスをありがとう。もう下がっていい」
抑えたものだったけど、命令のような口調に、芋虫は一礼してどこかへ行ってしまった。
――なんて言おうとしてたんだろう。
また会えたら、聞きたい。
「白ウサギ……」
我ながら、情けない声だった。涙が一雫、頬を伝う。
そんな私を彼は優しく掬いあげて、頬を撫でた。手袋の冷たささえも、今は安心する。
「ごめんね。油断してた。猫なんかに君を拐われるなんて」
苦笑しながら言う。私は何度も首を振った。ちゃんと見つけてくれたから、いい。
だって怖かった。拐われて、置いてかれて、このまま一生独りになると考えたら、壊れそう。堪えられない。
「相変わらずデレデレしてるな、白ウサギ」
「!!」
聞いたことのある声に、私と白ウサギは振り向く。
そこには、チェシャ猫が木に足を引っ掛け、コウモリのようにぶら下がっていた。
「チェシャ猫……」
「やぁやぁ、お久しぶりウサギさん。そんなに表情を固くして、素敵なお顔が台無しですよ」
明らかにからかっている。白ウサギはいつもの笑顔を消え、険しい表情をしていた。こんな顔、初めて見る。
「アリスを小さくしたのは君だろ? 早く戻せ」
「どうしよっかなー?」
ぶらぶらと揺れながら、チェシャ猫は棒つきキャンディを舐めてた。口は三日月に歪んでいる。白ウサギがますます不機嫌になるのが分かった。
――見事に怒らせてる。白ウサギのほうが年上に見えるのに、やっぱ生意気だわ。
そんなことを思いながらチェシャ猫を見ていたら、目があった。
――わっ……!
少し焦ったら、彼は笑みを深くした。心臓がはねる。
「チェシャ猫」
白ウサギが眉間に皺を寄せて咎めた。猫はキャンディを口から出し、頭に両腕をまわしゆらゆら揺れ
「そう言われても、俺アリスのこと大嫌いだし」
笑って言った。
――え?
一瞬思考がついていかなかった。口がまぬけに半開きになる。
「あ、白ウサギ、あんたのことは大好きだぜ?」
「……ふてぶてしい」
「酷いなぁ。俺、本当のことしか言わないのに」
その言葉に、白ウサギはまた表情を歪めた。
「ま、いっか。戻してやるよ」
チェシャ猫は舐めていたキャンディを白ウサギにむかい投げた。ウサギは片手でそれを掴む。
「それ舐めれば、もとに戻る」
「馬鹿言わないでくれるかな。なんで君の口つけた飴をアリスが舐めなきゃいけないんだ」
「別に嫌ならいいんだぜ? ま、一生アリスはその大きさだけど」
くくっ、と癪に障る笑い方をしながら猫は言う。これには私もムッとした。
「……もういい、早く消えろ。君を見ていると、苛々する」
白ウサギが心底うんざりとした顔で、猫に言う。チェシャ猫はため息をついて、肩をすくめた。
「へいへい。あ、アリス」
「え?」
「あんまり白ウサギを信頼しないほうがいいぜ」
そう言い捨て、木の枝を一回転して消えてしまった。なんで消えれるんだろう?
「…チッ……」
舌打ち!?
私は白ウサギを凝視した。
「アリス」
「はいっ!?」
不意をつかれ、声は思いきり裏返る。白ウサギは怒ったように眉端をあげながら
「猫は大嘘吐きだよ。いつも言うことが逆だ。信じちゃいけない」
分かったね、と念をおす彼がやけに怖い顔をしてたので、私はこくこくと必死に頷いた。
「良いこだね」
白ウサギは微笑んで、私の髪を指先で撫でる。やっと見れた彼の笑顔に、私は安心した。
誰を信じていいかなんて、混乱してた私には分からなかった。
第一章、終了です。