ウサギに連れられて
ヒューヒューと、風が下から上へ吹き抜ける。生暖かく、正直気味悪い。
「どこまで落ちるんだろ」
ため息をお供して吐き出された言葉。もちろん誰も答えてなどくれなかったが、期待してなかったからショックは無い。
僅かに見える丸く区切られた空を見ながら、私は数分前のことを思い出した。
◇
「きゃぁぁぁぁー!!」
私の悲痛な叫びがこだまする。落ちている、と実感すると、全身の毛穴から嫌な汗が吹き出た。
――ちょっと待ってよ!どれだけこの井戸深いと思ってるの!?
この井戸は半端なく深い。それは変えられない事実。
間違いなく危険だと感じた。落ちた瞬間、即死だなんて冗談じゃない。
万が一無事だったとしても、きっと地上にはのぼれないだろう。頭に浮かぶ『死』の一文字。
寒気が全身を襲う。昨日まで平凡な日々を過ごしていた私が、まさかこんな目にあうなんて……。
声を追い掛けたことをひどく後悔する。
まだやりかけのゲームがあったのに。憧れの先輩にも告白してない。あ、そういえば、友達に500円貸しっぱなしだ。
やり残していることがたくさんある。17歳という若さで現世とバイバイなんて………
「絶対いやぁぁぁぁぁ!!」
◇
───と、叫んだのが少し前のこと。あれからきっと10分くらいしか経っていないだろうけど、私には何時間にも感じられる。
おかげで今では空中を泳げるくらい余裕ができた。ついでにクロールで上にいこうとやってみたけど、やっぱり無謀だったらしい。疲れただけで失敗。
「本当、なんなんだろうこの井戸……」
ここから聞こえた声は、何故か消えてしまった。身勝手すぎる。あんなに切なそうに呼んでいたのに、今じゃぱったり。
――狐につままれた気分だわ…。
めくれるスカートを押さえつつ、盛大なため息をついたら、風の音が高くなっていたことに気づいた。
バッ、と下を見る。
光だ。
しかもだんだんと強く、大きくなっている。眩しさに目を細めた。
――あれ? これって落ちるの? ………えぇ!
自分の危機に気付き、慌てふためく。くるだろう痛みに覚悟し、口唇を真横に引き結んだ。
その瞬間、光の洪水に包まれる。
◇
衝撃は感じたが、いつになっても痛みはこない。むしろ柔らかくて温かいなにかに抱きしめられている。
――なにかって、なに?
自分の言葉に疑問を抱く。
「ふぅ……危なかった」
少し上から聞こえた安緒した声色に、そっと顔をあげた。
「!」
驚いた。だってこの人、瞳が赤い。まるで血のような色だ。しかもよくよく見れば、頭には大きな白い耳が生えている。言うならば、ウサギ。
絶句してる私に、そのウサギもどきは優しく微笑む。少しドキリとした。
「会いたかったよ、アリス」
「……はい?」
目の前の人の言葉に、つい、まぬけな声がでた私。
だけど、そんな私におかまいなく、このウサギもどきは私の頭を慈しむようにゆるゆると撫でる。私は固まった。
っていうか、今更気づいたけど、私抱きしめられてる…!?
自覚した途端、バクバクと心臓が高鳴る。初対面の男の人に抱きしめられ、しかも会いたかったなんて言われて。
初体験をふたつもしてしまった。
彼は私を優しく立たせてくれて、セーラー服の汚れを落とす。そのひとつひとつの仕草が優雅で紳士的で、思わず見とれた。
「あ、あの……」
「行こうアリス、遅刻する」
戸惑う私の言葉を遮り、彼は私の腕をひいた。それはやんわりとしたものだけど、どこか抵抗を許さない感じだ。
「遅刻……? それにアリスって、私、違います。私の名前は有栖川 唯、私は貴方の言うアリスじゃ……」
人違いです、と言うより早く、彼が口をはさむ。
「君は僕の声に呼ばれて来た。ならばアリスだよ」
「声? ……あ」
(おいで、アリス)
あの声は、この人のものだったんだ──。
私は隣の人をじっと見つめる。真っ白な耳。赤い瞳。さらさらのブロンド。日本人じゃ、まずありえない容姿だ。ううん、赤い瞳は人間上ありえない。
彼は、シルクのブラウスに黒いスラックス、赤の蝶ネクタイという身なりをしている。どう見たって人の形をした手には、手袋がはめられていて、外見も紳士だ。
――24歳くらいかな? 逆算すると、結構年齢差ある。…ってことは人拐いの可能性あり?
そう思うと、急に怖くなった。いくら紳士的でも、言うこと為すこと怪しい。私は彼の手を音をたてて振り払った。
「アリス……?」
傷ついたような目をされても困る。混乱してたからついされるがままになってたけど、冷静になれば危険なんだ。
「貴方、なに? 此処、どこなの…?」
声が震えた。頑張って睨むけれど、やっぱり怖い。彼は不思議そうに首を傾げた。
「質問に答えてよ……!」
強気な口調で言ったって、こんな蚊の鳴くような声量じゃ効果なしだ。あぁもう、なんて情けないの私!
「アリス」
低くよく澄んだ声色で彼は呟き、私の手に触れた。ビクリと肩が揺れる。
そんな私をなだめるように、彼はポンポン、と軽く私の頭を叩いた。まるで子供をあやすみたいに。
「僕は白ウサギ。此処は、君の世界とは別の、もうひとつの世界」
問いの答えを言っていると理解するのに、数秒かかった。
「…ウサギ? もうひとつの世界?」
こくりと彼は頷く。多分、嘘はついてない。だからといって直ぐに納得できる程、順応性は豊かじゃないが。
「じゃあ、早く行こうか」
「え、私まだ聞きたいことが……! それに行くって何処に!?」
私の手をひいて歩き始める彼を、追い掛けるように私も隣に並ぶ。
「城だよ。女王様が待ってる。急がないと約束の時間に遅れる」
城? 女王様? 約束?
分からないことが多すぎる。彼は私が困っているのに気づいたのか、首にさげた懐中時計を私に見せた。
「ほら、ね?」
……ほらと言われても、約束した覚えがないから、遅刻もなにもない。
何も言わない私を、彼は横目で見て、また歩き始める。
本当にこの人についていって大丈夫なのか、はっきり言って微妙だ。
だけど、よく分からない世界に一人きりは不安すぎる。私は白ウサギの手を、ギュッと握り返した。
……この時、私が思い踏み止まれば良かったのかな?でもね、独りはあまりに怖かったんだ。
私はこの地下の世界に、完全に迷いこんでしまった。