サヨナラじゃなくて
「もう二度と会えないの?」
私がそう尋ねても、白ウサギは困ったように淡く笑うだけで。肯定されている気がして、えもいえぬ痛みが心を蝕む。
「唯」
「お姉ちゃん…」
お姉ちゃんは私の腕をとり、こう言った。
「私はずっとあなたを思ってる。どんなに離れていても、一生会えなくても、私は永遠に唯を心に置くよ。だから、唯も私たちを忘れないで。大丈夫、絆はいつでも繋がってるわ。切りたくても切れないの」
だって姉妹だもの。
お姉ちゃんはそう言って、私を抱きしめた。私と変わらない身体。ここでは時間の流れが違うらしいから。
私はお姉ちゃんの背中に手をまわす。温かいぬくもりに、涙腺が緩んだ。
――泣いちゃ、だめ。
笑ってお別れすると決めた。心配かけたくない。
しばらく私とお姉ちゃんは抱きあっていたけど、名残惜しそうに彼女は私から離れた。
「私の大切な妹。私は唯を助けたこと、全然後悔してないわ。むしろ誇りに思う。私は唯が、大好きだから」
「お姉ちゃん……。私も、私もお姉ちゃんのこと大好きだよ。もう絶対に忘れない」
お姉ちゃんは、ありがとうって笑った。その笑顔は、なんだか泣きそうなもので。胸の奥がきゅうっと狭くなった。
「アリス。わらわからも唯に何か言わせてくれ」
そう言って前に出たのは女王様。すると、俺からも、僕からも。という声があがった。嬉しいと同時に、帰り難い気持ちになってしまう。
「唯。とても短い間だったが、わらわはそなたのことを気に入っておる。本当に愛らしく、綺麗で」
彼女はそっと私の頭を撫でる。優しい触れ方。慈しむような。
でも、それは言いすぎだよ女王様。私より貴女のほうがずっと綺麗。
「その服は貰って下さい。とても、お似合いですから!」
ビル。ありがとう。最初に見たときはびっくりしたけど、実はこんなにかわいいんだよね。
「向こう行ったら、マナー教室通えよ?」
帽子屋。それは私のセリフなんだけど……。私は常識人だよ? 少なくとも、私の世界では。
「ふふ。わたくし、絶対お姉さんのこと忘れません。お慕いしてますわ」
マーチ。なんだか照れるな。私も忘れないよ。帽子屋とお幸せにね。君たち相思相愛だもん。
「以前は無礼な真似をした。しかしアリス──失礼、唯は少々鈍いところがあるな」
スペード。私のために来てくれたの? っていうか、私そんなに鈍くない!
「これからも赤をよろしくね」
「いやいや、白を贔屓してよ」
赤薔薇さん。白薔薇さん。双子なんだから、あまり喧嘩しちゃダメだよ? 私は赤も白も好きだから。
「お前さんが苦しいとき、助けてやれずにごめんな。向こうでも、無理しないようにな」
芋虫さん。そんなことないよ。私すごくあの時助かったんだから。本当に、感謝してる。
「唯。ごめんね。そして……ありがとう」
白ウサギ───。
「君には言葉じゃ言い表せないほど感謝してる。たくさん騙したのに、君は僕を好きって言った。いつも僕を気に掛けてくれた。優しくて、綺麗で、純粋で。愛しいと思うよ」
私もだよ。貴方の笑い方や、安心感は、お姉ちゃんに似てる。だからって訳じゃないけど、白ウサギの側は心地好かった。
「幸せになってね」
「僕の幸せは、芽衣の幸せだよ」
それを聞いたお姉ちゃんは、くすっと笑いをこぼして
「言っておくけど、私の幸せは白ウサギに幸せにして貰うことだからね」
と言った。白ウサギの顔が薄紅色に染まる。
幸せになってね、二人とも。
「……私、ずっと忘れない。ここでの出来事、全部覚えておくよ。泣いたことも、笑ったことも、怒ったことも、全部全部、心に詰め込む。ひとつも零さない。みんなのこと、忘れない」
少しだけ、声が震えた。永遠の別れ、なんて切ない響き。別世界なんだね。
――だけど、繋がってる。
色褪せない記憶を抱きしめて、少しも零さない。思い出す隙がないくらい、片時も忘れないから。
「唯、さぁおいき。この薔薇薗を真っ直ぐ行けば、井戸がある。そこが、君の世界に通じるゲート」
白ウサギの言葉を受けとめ、私は頷く。最後にみんなの顔を見て、私は全力で駆け出した。
別に急ぐ必要はなかったけれど、そうでもしないと泣いてしまいそうで。振り返ってしまいそうで。
後ろ髪を引かれる思いを振り切るように、ひたすら走った。
サヨナラは、言わない。
◇
白ウサギの言った通り、そこには西洋風な綺麗な井戸があった。私がこれを見るのは二回目だ。
「お姉ちゃんに、行ってって言われたんだよね」
そっと井戸の淵に触れる。乾いたレンガが、陽の光で温かくなっていた。本当に綺麗。
「唯」
「!?」
突然の声に驚いて顔をあげると、そこには相変わらずの薄笑いを浮かべたチェシャ猫がいた。
「驚かせないでよ…!」
「そっちが勝手に驚いたんだろ?」
そ、そうなのかな? ってダメダメ! なに流されてるんだ私!
「よっと」
チェシャ猫は井戸の淵に腰掛けた。これ、前と同じ場面……。
確か、いろいろ言い合って、それから、…キスされた。──いや、違う。あんなのキスじゃない。食べられる、と思うくらい乱暴だったもん。
「なぁ」
「な、なに?」
急に話しかけられ、心臓がはねた。
「ここに居るって事は、あんた帰るんだよな?」
「………」
「唯?」
何故か、うんと言えない。本当のことなのに。じゃなきゃ、私はここに立っていない。
……なのに、チェシャ猫の顔を見た途端、足がとまった。それをなんでと言うほど、私は鈍くない。理由が分かってるから、余計に苦しいんだ。
「どうしよう、チェシャ猫…」
「あん?」
「私、帰りたくなくなっちゃった」
滑りおちた言葉に、チェシャ猫の返事はない。不安に思って顔をあげると、彼は薄笑いではなく、ピンクの瞳を更に大きく見開いていて。
え……?
初めて見たその表情に、信じられなくて目をこすった。次見たときにはもう、いつもの顔に戻っていて。
――気のせい…かな?
チェシャ猫の驚くところなんて、見たことないし。
「帰りたくないって……あんたバカ?」
「ひ、ひどい。だって──!」
「だっても何も、あんたがここに残る訳にはいかないだろ」
分かってる。分かってるよ。そんなこと、私が一番分かってるんだ。でも、そんなに淡々と言わなくてもいいじゃない。けっこう、傷付く。
なんだか居堪れなくて、私はうつ向いた。自分の爪先を見つめ、口唇を噛みしめる。
「唯」
チェシャ猫が私を呼ぶ。だけど私は動けない。
「おいで」
優しい声。どうして。分からない。そのまま突き放せばいいのに。
いつまでも動かない私が焦れったく感じたのか、チェシャ猫は私の腕を強引に引っ張った。途端、頬に伝わるぬくもり。腕のなかに捕われる。
「チェシャ、猫?」
「そんな顔するなよ」
「……んっ」
頬にキスされた。首にも、頭にも、額にも、そして瞼にも。触れるだけの、優しくてこそばゆいキス。
彼の離れる気配を感じて、私はゆっくり目を開けた。絡まる視線。いつもどこか冷めた瞳には、熱っぽさが色付いていて。自然と吐息がこぼれた。
「どうして、こんなことするの?」
チェシャ猫は答えない。
「そんな風にされたら、余計帰れなくなっちゃうじゃん……!」
「帰るなよ」
ぎゅっときつく抱きしめられた。
「……え?」
一瞬、チェシャ猫の言葉が理解できなかった。いや、今も解らない。彼は、なんて言った?
「じゃあ帰らなきゃいいだろ」
「な、なに言ってるの? おかしいよ。さっきと言ってること矛盾してる」
「……矛盾してる俺は嫌い?」
くらくらするほど甘ったるい声。耳元で囁かれ、目眩がした。
嫌い?だなんて、愚問だよ。あなたがよく分かってるんじゃないの?
「──嫌いじゃ、ない。あなたがどんなに私を嫌っていても、私はあなたが好き」
だから、離れたくないの。
嫌いでもいいから、好きになってくれなくてもいいから、側にいさせて。
ねぇ、私ここにいたい。
あなたの胸のなかにいたい。
「好きなの。それくらい、好きなの……!」
すがるように叫ぶと、肩を掴まれ、顎をくいっとあげられた。口唇を塞がれる。
「…んっ…やだ。誤魔化さないでよぉ…!」
私が胸を押し返しても、びくともしない。それどころか、何度も何度も。キスの雨は止まない。降ってくる度に深くなる。
「…はぁ、はぁ」
やっと解放されたときには、息が上がっていた。ぐったりとした身体。気だるくて、チェシャ猫の胸に寄りかかった。
おもむろに彼が私の頬を挟み、目線を合わせる。そして、こう言ったんだ。
「大好きだよ、唯。帰したくないほど」
身体の温度がいっきに上がる。
「チェシャ…──!」
私が何か言うより早く、肩を押されて。彼に突き落とされた、と気付いたときにはもう私は井戸の中だった。
暗い闇の空間。必死に上を見上げると、あなたの顔が小さく見えた。
「嘘。バイバイ」
そう、言った気がする。
嘘ってどっちが?
好きって言ったこと?
帰したくないと言ったこと?
ねぇ、どうして。
どうして最後にそんなこと言うの?
もう永遠に会えないというのに────。
絶対泣かないって決めたのに、涙が止まらなかった。