捨てた迷い
――時間は止められない。
別れは刻々と迫っていた。
「芽衣……!」
目を開けた彼女に、僕は勢いよく抱きついた。彼女は痛みに身体をこわばらせながらも、優しく抱き返してくれる。
意志とは無関係に、僕はひたすら芽衣の名前を呼んだ。存在を確かめるように。
芽衣はそんな僕を、あやすようにずっと背を撫でてくれた。涙が、頬を伝って、彼女を濡らす。
やっと落ち着いた頃、僕は彼女から少し離れ、容態について話した。芽衣は一言そっか、と呟き微笑む。
「ごめんね、芽衣」
そんな言葉で済むことじゃないのに、謝らずにはいられない。
芽衣を刺したと自覚した時、心臓が止まるかと思った。真っ赤に染まった自分の手が信じられなくて。
大事に至らなくて良かった、なんて言えない。君は僕の全てなんだから。
「ねぇ、白ウサギ」
「…なあに?」
彼女の髪をすきながら、相槌をうつ。芽衣は頬を緩めて、淡く微笑って言った。
「良かったでしょう? 軽傷で済んで。なんでそんな悲しそうな顔するの?」
そこで気付く。彼女の瞳が、哀しみに染まっているということに。
――あ……。
酷い。僕は、酷い。芽衣が助かったというのに、なぜ喜ばないの?
罪に苦しんで、罰を求めた。
ただただ、そればっかりで。もしかしたら今、ここに芽衣はいなかったかもしれないのに。今こうして彼女に触れてられるのは、奇跡にちかいのに。
「嬉しいよ、芽衣」
伝えるべき言葉は、ごめんなさいより。
「死なないでくれて、ありがとう。
生きていてくれて、ありがとう。
もう一度僕を見てくれて、ありがとう」
そう言うと芽衣は、笑った。悲しい笑顔なんかじゃなくて、綺麗な本物の笑みを。
「好き。好きだよ」
抱きしめて、キスをする。僕等は存在を確かめるように、何度も好きだと囁きあった。
◇唯side
ベットの上で私とチェシャ猫は、何をするわけでもなく、二人して柔らかな布団に包まれていた。
なぜか彼は私の腰に手を回して、顔を胸にうずめているけれど。
――普通、逆じゃない? やっぱり猫なのかな。甘えん坊。
大した会話もなくて、だけど沈黙が辛くない。ずっと、こうしていたいとさえ思ってしまう。
「チェシャ猫」
「なに?」
「私、いつ帰るのかな」
「さぁ? 俺が知ってるわけねぇし」
たいして興味なさそうに猫は言う。
――それもそうなんだけどさ……。
彼は、私が帰ることに何も思わないのだろうか。それは、結構切ない。チェシャ猫がそういう性格だってこと、もうわかってるのに。
『忘れないでね』
言いたい言葉は、そんなものじゃない。あなたにとって、私はきっと価値なんてないのだろう。だったらむしろ、忘れてほしい。
そしたら私も、あなたのことなんか忘れることができるから。きっと、笑顔で帰れるから。思い踏み止まらないから。
「バカだよね、私」
小さく呟くと、何を今更、と返ってきた。ひどい。失礼な子だ、本当。私より年下に見えるのに。
――でもそれは、あくまで見える、だよね。
実際は、私の何倍も生きているのかもしれない。ただ、身体の成長が遅いだけで。
そう思うとなんだか悔しい。
「アリス」
不意に呼ばれた。誰にって、今部屋にいるのは彼しかいない。
「……なんで」
「久しぶりに呼んでみようかと思って」
胸もとに息がかかって、チェシャ猫が笑ったのが分かる。
久しぶり、なんて。一度でも彼が、私をアリスと呼んだことがあっただろうか。懐かしいその響きに、苦笑がこぼれた。
「私はもう、いらないね」
だって、アリスじゃないもの。ここにはいられないし、必要ともされない。
「用なし……か」
チェシャ猫が呟く。胸が少し軋んだ。
求められたと思ったら、突き放される。これ以上、私を翻弄しないで。
電気もつけずにベットで戯れる私達は、ひどく滑稽だ。甘い雰囲気なんてない。
「君も、そうなの?」
「………」
「私はもういらない? ああ、でも君は最初から私を拒絶してたね」
アリスなんて呼ばず、何度も意地悪をした。全然優しくなかったけど、私どこかで安心してた。
アリス、と呼ばれるたびに、何かを失っていく気がして。唯が消えそうで、怖かった。
「別に俺は、どうでもいい」
「チェシャ猫らしいね」
「皮肉か?」
「違うよ」
……本当に、そう思ったの。
別に期待してたわけじゃないけれど、それで少し傷ついたことは秘密。悔しいから。
だって、私はチェシャ猫ともう会えなくなるのは、寂しい。悲しいよ。でも君にとっては、私がどうしようが関係なくて。私の側にいたのでさえ、暇潰し。娯楽、なんだね。
ちょっぴりアンニュイに浸っていたら、ノックの音が静寂な空間に響いた。なんとなく、誰かは解る。
「……入っていいよ」
だからこう言った。そして、扉を開けたのは予想通りの人。
「おね…え、ちゃん……」
包帯を巻いた姿とは裏腹な笑みを浮かべてるのが痛々しくて。でも、お姉ちゃんもその後ろにいる白ウサギも笑顔だから、私も笑った。それでも涙が瞳に溜るのは、仕方ないよね。
「お姉ちゃん……!」
私が上半身を起こすと、チェシャ猫もそれに引かれるように起きる。白ウサギの表情が少しこわばったけど、何も言わなかった。仲良く───は無理でも、いがみあいは終わりかな?
「心配かけてごめんね」
ベットの上、私の隣に座り抱きしめてくる。私はひたすらかぶりを振った。
「良かった…本当に良かった……!」
私は小さな子供のように、大声で泣く。そんな私をお姉ちゃんは、優しく頭を撫でてくれた。
確なぬくもりが、そこにはあった。
一頻り泣いたあと、私達はたくさんのことを話した。お姉ちゃんはこの世界のことを。私は向こうの世界のことを。こんな風に笑い合える日が来るなんて、思ってもみなかった。でも、それと同時に、気付いていた。
いつまでも、この時間が続かないって。別れはすぐそこにあるって。気付いていたんだ。
そして白ウサギは、その言葉を私に向ける。
「明後日、君をもとに帰すよ」
――明後日…か。
分かってる。分かってるの。自分のいるべき場所くらい。お姉ちゃんの居たい場所くらい。痛いほどに、理解してるんだよ。
後ろでチェシャ猫が、のどを鳴らした。
◇
私が帰る当日、みんなが見送りに来てくれた。そんな深い仲じゃないのに、こうして来てくれたことがたまらなく嬉しい。でも、同じくらい切なかった。
「唯」
白ウサギは私の手をとり、優しく頭を撫でてくれた。その手に、泣きそうになる。
「あの、チェシャ猫は──」
私がそう聞くと、彼は黙って首を振った。
「…そう…」
見送りに来るような性格じゃないって、知ってるけど。最後くらい、なにか言ってほしかった。だってもう、会えない。
「ねぇ、白ウサギ」
私は彼の手をぎゅっと握り尋ねた。とてもとても、悲しい問いを。
タイムリミットは限界にきてた