最終章 幸せのカタチ
愛することで傷つけるなら、泣かせてしまうなら、好きになんかなりたくない。
それでも、愛したいと、愛されたいと。そう思ってしまうなら。
どうか、笑って。
私はふわふわの大きなベッドに、勢いよく沈んだ。布団におおわれて、肌に触れる生地が気持ち良い。このまま目を閉じれば、夢の中に浸りそう。私は派手な装飾をされた天井を見上げた。
私がこの世界に来てから、どのくらいの時間が経ったのであろう。
何日?
何時間?
何秒?
時間の感覚がつかめない。一瞬のようであれば、永遠にも感じた。
「なに物思いにふけってるんだよ」
突如聞こえた声に、私はそっと首をめぐらせる。相変わらず神出鬼没だ。しかし慣れというものは怖いもので、私は大して驚かなかった。
「チェシャ猫」
彼の名前を口にすれば、少年はニタリと笑って。薄い口唇から見えた牙が、妖しく光る。
「寝心地好さそうだな、そのベッド」
私は小さく頷いた。それをどう受け取ったのか、チェシャ猫はゆっくりと近付いてきて、私の隣に寝転ぶ。
「……お姉ちゃんは?」
「意識はまだ戻ってないって。今も白ウサギがついてるよ」
「本当?」
「疑うなら聞くな」
私はごめん、と呟いた。
お姉ちゃんの容態は、出血のわりに傷は浅く、命に別状はなかった。裁判どころでなくなった私達は、うろたえつつも、なんとか応急処置をしたから。
彼女は個室で今、眠っている。みんな心配していたけど、絶対安静ということで必要最低限の者しか近寄れない。
そして、白ウサギはずっとお姉ちゃんの側を離れなかった。何度も謝りながら、すがるように泣いて。私はそれを、呆然と見ていた。
駆け寄ることが、できなかった。
「お前、目真っ赤だな」
不意にチェシャ猫が言う。私はその言葉を聞いて、反射的に目元を手で覆った。
あれだけ法廷で泣いたのだから、仕方ない。きっとおおいに腫れているだろう。
お姉ちゃんが刺された、と理解した瞬間、目の前が真っ白になった。涙腺が壊れたように、涙が止まらなくて。
だから正直、そのときの状況をあまり覚えてない。白ウサギとお姉ちゃんの声は聞こえたのだけど、言葉の意味まで拾いあげる余裕はなかった。自分のことで、精一杯で。
「これから、どうなるんだろう…」
「………」
こぼれた独り言に、返事はない。
お姉ちゃんが目を覚ましたら、嬉しい。話したいことがたくさんある。謝りたいし、お礼も言いたい。だけど、彼女はアリスとして永遠にこの世界で暮らすと言った。私を帰すとも。
あんなに、帰りたいと望んだのに。胸が苦しい。まったくもって、気持ちは舞い上がらないの。帰りたいとは思う。だけどそれは、別れを表すのでしょう?
――私のひとりよがりなのかな。
やっと思い出せたあなたと、せっかく出会えたあなたと、もうサヨナラ? そんなの、悲しすぎるよ。
「お姉ちゃんが目を覚ましたら、どうなるの?」
今度はちゃんと、隣の少年に問いかけた。猫は円い瞳を細めて言う。
「芽衣がアリスになって、白ウサギを皆からかばって、今まで通りここで暮らして、唯はもとの世界に帰って、───ハッピーエンド。じゃ、ねえの?」
「ハッピーエンド?」
「違うか?」
違わない。それはきっと、みんなが幸せになれる方法だから。
狂った世界は壊れない。
お姉ちゃんと白ウサギは永遠の愛を。
私は念願の帰界。
それでいいはずなんだ。いいはずなんだよ。
「お別れかぁ……」
「寂しい?」
「そう、だね。だってもう、二度と会えないんだもん」
県や国ならまだしも、世界が違う。電話も手紙も届かない。行こうと思っても、行けないんだ。
「君とも、もうすぐ会えなくなるんだよね」
私は天井を見上げたままそうもらす。最初はいろいろと恐かったけど、なんだかんだで助けてくれたチェシャ猫。あなたとも、お別れ。きっと永遠に。
「悲しいんだ?」
彼は私のベッドに散らばった髪をいじりながら聞いてくる。
「…うーん、あの意地悪がもう無くなると思うと、ちょっと寂しいかな」
「マゾだな」
「君がサドなの」
「否定はしねぇけど」
いやらしく笑って、チェシャ猫は私の頬に手をそえた。冷たいけど、柔らかい手の平。
至近距離のピンクの瞳に、鼓動が加速する。いつも思うけど、この猫はスキンシップが激しい。絡んでくる腕に、どうしようもなく心臓が高鳴る。
「──別に、俺も向こうへ行ってもいいんだけどね」
「え?」
ふと、チェシャ猫が蚊の鳴くような声で呟くものだから、こんなに近いのに聞きとれなくて。
「なんて言ったの?」
尋ねれば、チェシャ猫は何でもない、と笑って、私の額にくちづけをおとした。
その表情は、いつもと少し違っていた気がする。
◇白ウサギside
「芽衣……」
ベッドで眠る彼女の名前を呟く。芽衣の肩には白い包帯が巻かれていて。うっすらと紅が滲むそれは、とても痛々しい。
――自分でやったくせに。
勝手だ。僕に彼女を心配する権利なんて……。
「…はぁ…」
ため息がこぼれた。どうしてこう、マイナス思考なんだろう。芽衣が生きていた。今はその事実だけでいいじゃないか。そう、それだけで───。
「いい……はずない」
死んでない?
軽い怪我?
そういう問題じゃない。僕はあろうことか彼女を傷つけた。心も、身体も。
伏せられた瞼。艶のある黒髪。肌に付着した血は拭って、どす黒く染まった服は綺麗なスペアに換えた。だからという訳ではないけど、彼女はとても美麗で。生々しい血の臭いでさえ、貴女を汚せない。
じっと見つめていると、彼女の睫毛が震えた。そっと見える黒曜石。見ていると吸い込まれそうになる。
「白ウサギ……」
僕の名前を薔薇色の口唇からこぼして、芽衣は小さく微笑った。
愛しい人よ。
どうか側にいて。
泣かせても離れたくないなんて、とんでもないエゴイズム。
相手を傷つけるくせに、自分が傷つくのは嫌だなんて、ひどい。僕の全てをあげるから、貴女の全てをちょうだい。
滑稽な愛し方。見返りばかり求めて、哀しくなる。
本当の幸せを教えて下さい
Disagreeable in give-and-take. I want to give all.
Give-and-give are satisfactory for me...
とうとう最終章です。