嘆きの終宴を共に
不気味なほどの静寂が法廷を包んだ。息をすることすら躊躇ってしまう光景が、目の前にある。
僕は握ったナイフから、肉の感触を感じた。ゆっくりと引き抜くと、生々しい音に遅れて、赤い液体が噴く。
「あ、ああああああ!」
誰かが叫んだ。この高い声はきっと女王陛下。耳が痛い。
「アリス! アリス! 白ウサギ貴様なんて事を……!」
女王様だけでなく、他の者の叫びも耳に届いた。手から力が抜けて。カチャン、と金属の音がし、自分がナイフを落としたと気付く。
――おかしいな、僕は自分を刺したはずなのに、痛みがまったくない。
その代わり、腕の中に温もりがあった。それが誰かなんて、間違うはずない。何度もこの腕に閉じ込めたことがあるのだから。
「…………芽衣?」
呼びかけても、彼女は答えない。僕は芽衣の身体をそっと撫でた。手に、生暖かい感触。それを自身の目前に持っていけば、手が赤く汚れていた。
彼女の身体がやけに熱い。触れているところから、火傷しそうな熱が伝わってくる。強く脈打つ鼓動は、どちらのもの?
叫びの理由。
この手の感触。
赤い液体の正体。
「……血……」
呟いた瞬間。錠の穴に鍵を差し込んだように。パズルのピースがはまったように。僕の意識がやっと機能した。
「………!」
状況理解なんて、したくなかった。
彼女の肩口から、とめどなく血が流れてる。真っ白なエプロンに赤が目立って。赤い服に滲んだ血は、最早黒に近く。服を裂いて見えた肌は、痛々しい傷が彫られていた。
――誰が?
僕が。
――なんのために?
自殺するために。
――どうして?
罪を償わなきゃだから。
――じゃあ、この光景は?
芽衣が、僕を、……僕の、身代わりに。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。
「芽衣! 芽衣! 芽衣! 芽衣! 芽衣……!」
僕は壊れたレコードのように、繰り返し彼女の名前を叫んだ。
──この時、唯が泣きながらチェシャ猫の首筋に顔を埋めていて。そしてチェシャ猫は、そんな唯の背中を撫でつつも、笑って僕を見ていたのだけど、僕は気付かなかった。
当たり前だ。そんな周りのことなんて見えるはずない。だって僕は
芽衣ヲ刺シタノダカラ。
「嫌だ。嫌だよ。どうしてこんなことに!」
僕は今にも崩れおちそうな芽衣を、震える手でしっかり支えた。指先が恐怖と混乱のせいか、冷たくて感覚がない。
青ざめていく、愛しい人の顔。
ねぇ、どうしてなの。なんで誰も望んでないことが起きるの。こんなの、起きちゃいけないんだ。いけないんだよ。
僕は、僕はただ君を愛していただけなのに。
どこで間違えた? もっと普通に大切にしたかったんだ。君が笑っているだけで、幸せのはずなのに。
僕は、なんて最低なんだ。
「…駄目だよ、白ウサギ…」
「! 芽衣っ」
腕の中の彼女が声を漏らす。視線を向ければ、芽衣が顔をあげていた。弱々しい笑顔に、胸が狭くなる。
僕が謝罪を述べようと開いた口は、彼女の人指し指によって遮られた。そして芽衣は頭を緩く振りながら、言う。
「…わたしは、白ウサギが私を監禁したことや不老不死にしたこと、罪だなんて思ってない。だって私は被害だなんて感じてないもの」
その不器用な愛情表現さえも愛しいから。
そんなこと笑って言わないで。余計いたたまれなくなる。
「でも、唯を巻き込んだことは怒ってる。みんなを混乱させたことも。──もし、罪の意識を感じるなら、これ以上罪を重ねないで。自殺だって殺人だよ。自分を殺すことこそ、重罪だわ」
――でも、でも僕は。
「罰を望むなら、死より生を選んでほしい。これからも、私を見るたび自分の罪にかられて、苦しんで、そうやって償ってよ。そしていつか、自分を赦せる時がきたら、そのときは……」
そう言ったところで、声が途切れた。笑顔が消え、彼女の表情は痛みに歪む。きつく瞼を閉じ、口唇を噛み締めていた。
相変わらず肩から血は流れていて。僕の手は真っ赤で。彼女の額には汗が浮き出ていた。
「め、芽衣っ」
すがるように呼べば、彼女は瞼をそっと開く。虚ろな目。だけど、僕を見てる。奥の内側まで、見てるんだ。
芽衣はひとつ深呼吸して、再びしゃべり始める。
「ずっと、側にいてあげるって言ったじゃない。約束したじゃない。勝手にやぶらないでよ。勝手に死なないでよ。勝手に逃げないでよ」
彼女は懇願するような勢いでまくしたててきた。つい焦ってしまう。
握られたシャツ。芽衣は爪が白くなるくらい力を入れている。
「もう、終わりにしよう。悲劇にしないで、ハッピーエンドにしようよ。みんなで、笑おうよ……!」
その声はかすれていて、切羽詰まっているのがよく分かった。
「芽衣、分かった。分かったから。もうしゃべらないで。このままじゃ、芽衣が死んでしまう!」
「分かって、ないよ。白ウサギは、分かってない」
「芽衣、もう……」
「わたしが、どんな想いを抱いていたか。あなたは──」
「っ!」
いきなり腕に重みが襲う。ずり落ちそうになった芽衣の身体を、なんとか支えた。
彼女の顔を覗きこめば、綺麗な瞳は瞼に隠されていて。桃色の頬が、今は青白い。長い睫毛は濡れていた。
「………芽衣?」
嫌な予感。速くなる鼓動。
乾いた喉。高鳴る心臓。
………彼女が、動かない。
「あ、あああ! ごめん。ごめんね。いっぱいいっぱい傷つけて。酷いことたくさんして。結局最初から最期まで泣かせて」
聞こえていないというのに、僕はひたすら話しかける。
「もう、何も望まない。何も願わない。だから側にいてよ……!」
やっと気付いた大切なこと。僕の願望はそれだったのに。今更気付くなんて、僕は大馬鹿者だ。
「ねぇ、返事して。いつもみたいに笑ってよ。芽衣、聞こえてるんでしょ?」
彼女の顔がぼやけて見える。自分が何を言っているのかも分からない。周りの状況なんてもっと。
「…愛してる。愛してるんだ」
その言葉は、祈りじゃなかった。
何も見えないのは、泣いているから? どうかただの悲恋にしないで。君のいない世界なんて、生きている意味すらないから
第五章の終了です。