優しいヒト
「芽衣が死ぬなんて考えられない。他のアリスなんていらない。もう二度と失いたくない。……永遠に」
痛いほど伝わる純粋さ。
真っ白な心は、何色にも染まってしまう。
綺麗な想いは、歪んだ。
可哀想。可哀想。
「なんで、みんな黙ってるのかな」
あまりにも沈黙が長いから、私は隣に立つチェシャ猫に尋ねた。少年はクッと喉の奥で笑い、舌舐めずりする。
「何も言えないんだろ。アリスが死なないほうが、自分等にとって都合がいいんだから」
どうして。
そんな言葉がでかけて、私は口をつぐんだ。どうしてなんて、愚問ってことに気付いて。
彼等は、アリスがいないとこの世界で生きていけない。だけど、アリスには寿命がある。それ故、アリスが死ぬたびに、連れてこなければならない。それはつまり、アリスが一生死ななければ一番楽でずっと平穏って事なんだ。
「でもそんなの……」
「おかしいなんて言葉、狂ったあいつ等に伝わると思うか?」
私は思わず黙りこんでしまう。確かに、おかしいなんて今更だ。だけど、だけど。貴方たちは嬉しいかもしれない。永遠にも等しい幸せを、手に入れたも同然なんだから。
でもそれじゃ、お姉ちゃんの権利はどうなるの? お姉ちゃんはそれを望んだわけじゃないんだよ。勝手すぎる。
「酷いよ、みんな」
無意識に口唇が動いていた。視線が降り注ぐのが分かる。
「自分が良ければ、それでいいの? お姉ちゃんの意見は無視なの? そんなのってない!」
「ゆ───」
「どうしてそう自分勝手なのよぉ……!」
悲痛な叫びは、届いているのだろうか。
私は哀れ? でも、止まらなかったの。
傷つけたいわけじゃない。
咎めたいわけじゃない。
責めたてたいわけじゃない。
ただ、哀しいの。
「なんで……」
始まりはいつどこで?
きっと誰も悪くなんかない。世界から追放させた人たちも、狂った住人たちも、歪んだ愛も、永遠の定義も、壊れてしまった時計だって。
ただ、幸せを求めた可哀想な心なんだ。生きてる者はみんな生まれてから死ぬまでひとりぼっち。それが怖くて、誰かに寄り添うのでしょう。
真っ直ぐ生きることが素敵ですか?
強いことは素晴らしいですか?
私には、分かりません。
「唯、泣かないで」
お姉ちゃんが私の目尻をそっと拭う。言われて気付いた。いつのまにか、泣いていた事に。
「私はね、確かに望んでなかったよ。永遠が美しいとは限らないもの。だけど、後悔だってしてないのよ。理から外れてることは分かってる。だけど、どんなに理解してても、心はまったく悲しまない。だって、私は好きな人と一緒なら、永遠も怖くないの」
そう強く言ったお姉ちゃんは、とても綺麗だった。
終わりのない命。永住を定められたアリス。見せかけの楽園。義務に等しい優しさ。
けれどそれを、貴女が受け入れると言うなら、愛してると言うなら、私はなにもできない。
「もう、終わりにしましょう」
お姉ちゃんが呟く。聴衆たちは、みんなして顔を見合わせた。白ウサギと女王様はお姉ちゃんを凝視する。
「話すことなんて、これ以上ない。裁判も必要なくなった。だって私は生きてるもの。永遠に、ここで生きつづけるの」
彼女はひとつ息を吐きだし、宣言する。
「アリスは私よ」
みんなが目を見張るのが分かった。身動きひとつせず、呼吸すら忘れたかのように、微動だにしない。
「だからね、白ウサギ」
彼女が白ウサギを見つめる。彼の肩がビクリと震えた。
「唯を、私の妹をもとの世界に返して」
「…それは…」
「ねぇ、分かってほしいの。私がどれだけ貴方を愛してるか」
「止めてよ、芽衣。もう僕は」
「たしかに私は皆を好きよ? でも、貴方は違うの。側にいてほしい。笑っていてほしい。抱きしめてほしい。触れてほしい。手を繋いで、目を合わせて、キスして。……ずっと、隣にいたいの」
そう思うのは、貴方だけよ。
お姉ちゃんは小さく笑った。白ウサギの口唇が震える。赤くなったり青くなったりし、やがて口を開いた。
「…アリスの望みは絶対。唯はもとの世界に返すよ。アリスは今までもこれからも芽衣だ。監禁なんて馬鹿な真似はやめる」
「白ウサギ……」
「でも、僕は許されない禁忌を犯した」
零れた言葉は、切ない涙味。
「もう、生きてる権利はないよね」
私は一瞬、耳を疑った。ううん、きっと私だけじゃない。ここにいる皆が、誰しも今の言葉に反応できなかっただろう。
「何、言って……」
考えるより先に、声が口から滑り落ちた。身体に力が入らない。目眩にも似た、この症状。
今、彼はなんて言った?
止めて。やめて。ヤメテ。
彼はゆっくりと首をまわし、私を見た。紅い瞳は、なにを示すの?
「ごめんね。僕の勝手な我儘で、こんなことに巻き込んで。酷いこと言ったけど、本当は君のこと───」
違う。私が聞きたいのは、そんなんじゃない。
「泣き虫で、優しくて、鈍くて、心配性で、単純で、温かい唯のこと」
お願い、もうよして。貴方が言うべき言葉はそんなんじゃないでしょ?
「──好きだったよ。最初は利用するためだけの存在だったけど、いつのまにか惹かれてた。騙しているのが苦しくなったよ。何度も何度も、泣きそうになるくらい」
ねぇ、違うの。違うんだよ、白ウサギ。
私は、最初こそ貴方を恨んだ。狂った世界に嘆いて。でも、白ウサギはいつだって私を守ってくれた。私を安心させてくれた。それが計画のためだったとしても、私は嬉しいの。
ずっとずっと、気になってた。優しい笑顔の影にチラホラ見える、哀しげな目。知りたいと思った。
真実を明かされた時、どれだけ悲しんだだろう。どれだけ憎んだだろう。だけど、嫌いになれるはずないじゃない。だって、貴方はこんなにも優しくて、可哀想で、純粋で。そんな貴方を私は
「こんなにも好きなのに…!」
「…唯…」
白ウサギは目を見開く。だけどそんな表情もつかの間、苦笑いを漏らした。
「唯は優しいね」
「もうバカ! 私の話ちゃんと聞いてよ!」
届かないのがひどく切ない。気持ちを伝えるのが、こんなに大変だったなんて。
どうしたら、私の思いは伝わる? どうしたら、分かってくれるの? 誰も貴方を憎んじゃいないってことに。
「裁判は終わり。被告人は僕だ」
そう言った白ウサギは、いつから所持していたのか、懐からナイフを取り出した。銀色に輝く鋭利な刃。それを高く掲げる。
「刑罰は、そう。───死刑」
彼が自分の胸めがけて、ナイフをふりおろした。
「白ウサギ!!」
私が叫んだのと、彼女が動いたのは、どちらが早かっただろう。鮮やかな赤が、私の視界を占めた。
始まりのないこの物語に、終わりなんて存在しないね