第五章 哀しみの綺想曲
私達は、何も言えなかった。言葉にできない感情が邪魔して、声にならない。なにかを言わなきゃいけないのに、口を開いたところでただ息が漏れるだけ。
しばらくの静寂。これももう何度目になるだろう。チェシャ猫さえもが黙っていて。息が詰まる。
「嘘、だろう? 監禁なんて、そんな馬鹿な……」
静けさを破るように、苦笑いしながら、女王様が呟いた。その瞳には、半信半疑、一欠片の希望、大きな不安が色付いている。
けれどもそれは、白ウサギの言葉によってあっさり壊された。
「全て真実ですよ、女王陛下」
嘘はついてない。
彼の表情を見て、きっと誰もがそう思っただろう。それでもやっぱり、信じられない。
「嘘だ。そんなの嘘だ! そう言ってくれ、嘘だと言ってくれ白ウサギ!」
必死の懇願は可哀想で、だけどその気持ちは痛いほど分かる。
あの優しい白ウサギが、そんな酷い事するはずないって。
私はみんなに比べれば、まだ出会ったばかりで日も浅い。でも、彼が優しい人だって事は知ってるよ。それと同時に、とても脆いってことも。
「じゃあアリスは、芽衣は今どこに居るんだ! なぜあんなに探したのに、見つからなかったんだ!?」
ヒステリックに叫ぶ女王様。聴衆たちは未だに黙っている。白ウサギは静かに答えた。
「彼女が逃げていないなら、僕の部屋にいますよ。それと、今まで見つからなかったのは、僕自身がかくまっていたためです。みんな信用してくれていましたし。でも、内心いつばれるかとヒヤヒやしてたんですよ?」
小さく笑う彼は、少し狂気染みていた。けれど女王様は食い下がらず、更に責めたてる。
「ふざけるな! 貴様はなんて愚かなことを……。自分が何をしたかわかっているのか!? アリスを監禁するなどなんて重罪! 処刑だ、首をはねてやる! 腕も、耳も、足も、全て鎌でかっ切ってやる!」
かなりの声量で叫ぶ女王様に不安を感じたのか、聴衆たちが騒ぎ始めた。私も色が変わるくらい強く、口唇を噛み締めた。
監禁。──閉じ込めて、拘束すること。それじゃあ、あの時わたしの前に現れたのはどうして? 逃げてきたのだろうか。そしてその後また、白ウサギに……。
私は胸元をギュッ、と押さえた。お姉ちゃん、今どこにいるの? 貴女は今、泣いていますか? 白ウサギの愛を、どう受けたのですか?
「そう怒らないで下さいよ。それに、陛下は僕を殺すことなんてできない。貴女が一番お分かりでしょう……?」
取り乱す女王様に向かい、口許に含み笑いを浮かべて、挑発的な言葉を浴びさせる白ウサギ。女王様の眉間によりいっそう縦皺が刻まれた。
「なにを……」
「僕を殺したら、その後この世界はどうするんです? 案内人がいないんじゃ、アリスだって連れて来れない。この世界は壊れますよ」
「…くっ……!」
悔しそうに口唇を噛み、肩を震わせる女王様。
なんて嫌な空間。誰も笑っていない。白ウサギの笑顔だって、偽物だとわかってる。冷たい汗が背中を流れた。軽い目眩と吐気を覚える。極度に緊張してるときと似た症状。
白ウサギの棘のある言葉、女王様のかん高い声、聴衆たちの囁き。
やめて。やめてよ。
どうかしてる──のは、今に始まった事じゃないけど。だけどこんなのおかしい。
足もとがすくんだ。意識は霞がかかり、みんなの声が遠くに聞こえて。……疎外感。取り残された感覚に、視界がモノクロの世界へとなる。
「……倒れるなよ」
手を掴まれ、横から聞こえた声に顔をあげた。気遣う言葉とは裏腹に、チェシャ猫がいつものようにニヤニヤ笑いを浮かべてる。
ふっと空気が和らぐのを感じた。今まで憎たらしかった彼の笑みに、安心感が身体に染みてくる。
――なんでだろうね。
人の笑顔がこんなにも癒す力を持ってる事、知らなかった。
ついくすっと笑いこぼしたら、白ウサギと目が合う。血のように鮮やかな色。赤すぎて怖い。彼は怪訝な顔をした。
「君も、連れてきた意味なくなったかな」
そう呟いて。
どういうこと?と目で尋ねれば、彼は言う。
「聞こえなかった? 利用価値がなくなったって言ったんだよ」
「…………」
声も出ないって、こういうことを示すのだろうか。一瞬、思考がついていかなかった。
「芽衣をかくまうためには、例え偽りでも新しいアリスが必要だったからね。それに君はもともと、十年前こっちに来るはずだったんだ。唯は本当のアリス。都合が良い」
「つ、ごう」
「そう。それにさすがアリス。ちょっと優しくしただけで完全に僕のこと信頼しきって、可愛いね。離れようとしないんだから」
扱い易かったよ、と笑う白ウサギ。突き刺さる痛い言葉。耳を塞ぎたい衝動。否定したい衝動。逃げ出したい衝動。
でも、駄目。目をそらしちゃ駄目だ。この哀しく切ない人を、ちゃんと解りたい。
ねぇ、だって気付いてる?
あなたさっきから、全然笑えてないよ。
無理矢理口角つり上げて、頬なんか痙攣してる。
眉間には皺が消えないし、憂いを帯びた表情しかしてない。
ね、自分で気付いてないの?
「君がいるから、芽衣はみんなのアリスじゃなくなる。僕だけの芽衣になれるんだ」
「私を犠牲にするの?」
こぼれた言葉は、意外にもしっかりとしていた。
「犠牲だなんて言わないで。僕は唯に感謝してるんだよ」
「嬉しくないわ」
きっぱりと言えば、少しだけ彼が眉をしかめる。そしてフッと息を吐きだし、
「君がもとの世界に帰ったら、僕はもっと狂ってしまう。本当はもっと優しくしたいのに」
細められた紅眼。強い視線は頭の奥まで食い入るようで、私はつい一歩後ろへ下がった。それを追い掛けるように、白ウサギは一歩踏み出す。
「だから、ねぇ。君に拒否権は無いんだよ……?」
「………っ」
哀しい人。愛に苦しんで、狂ってしまった? 犠牲を自ら誘い、だけど貴方は優しいからまた苦しむ。
ねぇどうか、これ以上自分の首を絞めないで。
「女王様、提案あるんだけど、いい?」
黙っていたチェシャ猫が片手を小さく挙手して言えば、女王様は目線を白ウサギから私達に移す。
その瞳には、未だに怒りが込められている。上から見下ろされているこの体勢が、余計恐怖を駆り立てた。
「発言の許可を与える」
「どーも。さすが裁判長さん、話が判る」
「世辞は良いから、早く言えば良かろう?」
ややきつい口調にチェシャ猫は軽く肩をすくめて、こう言った。
「このまま嘘か真か言い合いしてたって、きりないよな?」
「……そうだな」
頷く女王様は、だからなんだと顎をしゃくってみせる。チェシャ猫は言葉を続けた。
「だったら、証人でも呼んでみないか?」
「証人……?」
重なったたくさんの者の声。オウム返しする私達に、チェシャ猫は口許を三日月に歪ませ言い放つ。
「そう。この事件に深く関わっていて、尚且かなりの重要参考人」
───と。
その言葉の意図に気付くより早く、白ウサギが紅玉の瞳を見開いて叫んだ。
「まさか……!」
「そのまさかだぜ。我等が神の、アリス入場」
後ろの大扉が、ギィ……と重い音で空気を震わせ、ゆっくりと開いた。
唄いましょう、真夜中のカプリッチオ。冷たい囁きは、紛れもなく愛の言葉。
第五章の始まりです。