歪んだ愛情
僕の愛情に歪みができたのは、半年ほど前の事でした。
その日はいつものように、芽衣の部屋へと行った。だけど、扉を開けるより早く、部屋の中からふたつの声が聞こえて。
その内のひとつは、紛れもなく芽衣のもの。そしてもうひとつは、僕の神経を逆撫でする者の声である。
ピリッとした痛みを胸に感じ、僕はなにも言わずにドアの取っ手を捻った。
「白ウサギ?」
いきなり開けたせいか、芽衣はやや面食らった顔をする。だけど僕はそんなことより、芽衣の隣に座っている者に目を向けた。
瞳に映るだけで、自然と表情が険しくなってしまう。きっと、根本的に嫌いなんだ。好きになれる気もしないし、分かり合いたいなんて思えない。
「どうしたの?」
動かない僕を不審に思ったのか、芽衣が話しかけてきた。
なんとか笑顔をつくろうとするが、口許が不器用に歪むだけで上手く笑えない。
「じゃ、そろそろオレ帰る」
芽衣の隣にいた彼は不意に立ちあがり、そう言った。
「え、行っちゃうの?」
去ろうとする彼をとめる芽衣。またチクリと胸が痛む。こんなの、今までなかったのに。
「気がむいたらまた来てやるよ」
首を傾げる芽衣に、そいつ──チェシャ猫は窓枠に手をかけてそう答えた。張り付けられた読めない笑みが、やけに癪に障る。
外へと繋がる扉に身をのせたチェシャ猫は、振り返り際に僕を見て濃密な色した瞳を細めた。グルッと喉を鳴らし、
「随分とアリスにご執心な事で、白ウサギさん」
そう言って、空色をした外界に消える。パタパタと揺れるレースのカーテン。爽やかな涼風が、頬をくすぐった。かかる前髪が鬱陶しい。
「まったく、相変わらず生意気なんだから」
ため息をついて、芽衣は小声で漏らす。
――…相変わらず?
つい反応してしまう自分が悲しい。それでも知りたい気持ちが強くて、僕は尋ねた。
「最近ね、よく来るの。前はもっと意地悪だったけど、今はだいぶ優しくなったかな」
ケロリと答えられて、喉がひくつく。
前はって……いつから? 聞いてない。芽衣がチェシャ猫と会ってるなんて知らなかった。
彼女はわりと自由翻弄だから、この城を出て色々な場所へ行く。僕の知らない間にたくさんの者と交流していると思う。だから別に、芽衣がいつ誰と何をしていようと仕方ないのだけど……
――あれ?
身体に違和感を感じた。本当に僅かなんだけど、気持ち悪い。何かどろどろしたものがこみあげてくる、そんな感じ。
なんだろう?
僕は軽く胸のあたりを、さすった。変なわだかまりがつっかかっている感触が抜けない。
「白ウサギ、聞いてるの?」
服の裾を引かれ、ハッとする。怪訝な視線を受け、たじろいだ。彼女に気付かれないくらい小さく深呼吸すれば、胸の内がスッと楽になる。
大丈夫。僕は、大丈夫。
自分でそう言い聞かせ、なんでもないよ、と微笑んだ。
感付いたのは、きっとこの頃。もしかしたら、もっと前からあったのかもしれない。ただ、気付いていなかっただけで。
それから、何度か城内でチェシャ猫を見掛けるようになった。もともと神出鬼没な奴だったけど、城へ来るのは少なかったのに。
――芽衣がいるから?
そんな考えがふっと頭に浮かび、僕は直ぐにかぶりを振った。
昔からアリス嫌いのあいつが、わざわざ会いに来るだろうか。しかも、いじめたり泣かせたりするのではなく、談笑するためだけに。
まさか……ね。
馬鹿馬鹿しいと思う。だけど、もしそのまさかだったら?
アリスとしてでなく、芽衣に会いたいから来る。話したいから来る。それは、芽衣に好意を寄せているという事じゃないか?
「それは良い事……だよね」
やっとあの彼もアリスを好きになったんだ。悪い事じゃない。
それでも答えのない問掛けは不安で、胸のしこりが取れないから。やっぱり足は、自然と愛しい人の所へ向かう。
どうか安心させて。いつもみたいに笑って、抱きついて、温もりを確かめさせて。
ねぇ、僕は君が大好きなんだよ。
◇
「……芽衣?」
部屋に彼女はいなかった。決して殺風景とは言えないこの部屋も、芽衣がいないというだけで、こんなにも寂しいものになる。
「何処へ……」
僕に彼女の居場所は分からない。選ばれたアリスなら、何処にいたって分かるけど、生憎芽衣は手違いの事故のため、妹の代わりにきた。
裁判はしたからもうこの国の住人なんだけど、確かにアリスなんだけど、僕が呼んだわけじゃないから。だから、芽衣の居場所を突き止めれない。
「白ウサギ、何してるの?」
部屋の中心で棒立ちしていると、背後から今まさに探していた声が。僕はゆっくりと首を回した。きょとんとした顔をしている芽衣。いつもなら、愛しいと思うのに。
その自由さが
その鈍さが
──憎い。
僕はうっ、と口許を押さえた。迫り上がってくる憎悪が気持ち悪い。酷いことを思う自分に腹が立つ。物凄い吐気がした。
「ちょっと、本当に大丈夫!?」
芽衣が切羽詰まった表情で僕に駆け寄る。そっと頬を撫でられ、反射的に肩が跳ねた。だけど、彼女の手からじんわりとした温かさが伝わり、だんだんと落ち着いてくる。
何処にいたの?
なにをしてたの?
誰といたの?
溢れ出す疑問の数々。だけど怖くて聞けない。
「芽衣……」
「え? ──きゃっ」
僕は彼女を腕に閉じ込めた。痛い、と抗議の声が聞こえたが、放してあげない。君はずっと僕の腕の中にいればいいんだ。何処にも行かないで、誰とも会わないで。ずっと僕の側に……。
もう一度僕は、強く強く抱き締めた。逃げられることを、恐れるように。
それからも、芽衣が視界にいないというだけで不安になり。苛立ちは募り募って、とうとう抑えが効かなくなった。歪んだ愛情の行く末。
僕は芽衣を監禁した。
アリスはみんなのもの。独占なんかしちゃいけない。どうせいつかは死ぬし、アリスとしてしか愛しちゃ駄目なんだよ。
第四章、終了です。