第一章 崩れる日常
本編スタートです。
人間の記憶とはひどく曖昧だ。自分に都合の悪いことはすぐに削除する。
傷つくことも、目を背きたいことも、忘れてはいけないことも、削除。削除。削除。
なんて愚かで残酷なんだろう。傷つかないための自己防衛。堪えられないことは全て記憶から抹消する。そんなものだ。
(アリス)
「……え?」
名前を呼ばれた気がして──と言っても私の名前は有栖川唯だから、正確には違うのだが──思わず私は振り向いた。
だけどそこにはいつもの風景があり、誰もいなかった。
いつも通りの路地。向こうに見える学校も違和感はない。夕日が照らして、そのいつも通りの景色は、少しだけ幻想的だった。
ただそれだけの事。
「そら耳かしら?」
私は大して気にせずそう呟き、再び帰路を歩む。
今日の夕飯はなにかな、好きなドラマの最終回だ、なんて考えながら、歩き続けた。
学校指定の鞄が、やけに軽く感じる。本当に中身はあるのだろうか。
――馬鹿馬鹿しい。
自分を嘲笑った。
(アリス)
……? また聞こえる。低く落ち着いた声色だ。聞いていて心地好ささえ覚える。
(アリス、アリス)
すがりつくような、誘うような声だった。
私は無意識に声のするほうへと足を向ける。
思えばそれは、とても軽薄な行動だったのだけど、このとき私はひたすら好奇心だけが動いていたのだ。
(アリス、アリス、アリス)
なんでこんな必死になってるか分からない。だけど、追い掛けなきゃいけない気がして。
声を探していくうちに、見慣れない街並みに変わっていく。私はいつのまにか茂みへ入っていた。
――こんな林あったっけ?
疑問が頭をよぎるけど、私は足をとめない。セーラー服が汚れてく。鞄もどこかに落としてしまった。
(おいで、アリス)
声が大きくなっていく。はっきりと耳に届いた。
近い、そう思わずにはいられない。
時折腕に小枝があたり、ひっかき傷ができる。肌を鮮血が滲み出る。痛みは当然感じたが、私は止まる気はなかった。
後戻りなんて、尚更。
誰なの? どこからなの? いったい何を呼んでいるの?
興味心がうずく。
私はなんて子供だったのだろう。この時追い掛けなければ、全ては始まらなかったのに。
「……井戸?」
声を追い掛けた私が辿り着いたものは、寂れた古井戸だった。こんなもの、某ホラー映画くらいでしか見たことない。
――こんなものあったっけ?
とは思っても、この林自体どこなのか不明なんだ。その疑問は今更すぎる。
警戒しつつも、井戸に一歩ずつ近づく。ひび割れた桶がそばに転がっている。
石作りの井戸には、びっしりと深緑の苔が張り付いていて、それが時代の古さを物語っていた。
そっと手を付き、覗きこむ。
「深い、し、暗い」
どこまでも続く深い穴。底が見えないため、枯れているかさえ分からない。
私は試しに石ころを投げてみた。だけど、いくら待っても音はしない。
「相当なものね……」
ぽつりと呟いた声は、静寂に飲み込まれる。
もう少し身を乗り出して中を見渡せば、本当に真っ暗。吸い込まれそうな暗闇だ。
(アリス)
「え? きゃっ──!」
奥底から声が聞こえたと同時に、背中を強く押された。突然の不意打ちに体が反応できず、文字通り私は井戸へとまっさかさま。
振り返っても、そこには誰も見えず、茜色の空が不気味に揺らいでいるだけだった。
だから、ねぇ、私は決して望んじゃいなかったんだよ……