夢と現の狭間で
意識が戻った時、私はチェシャ猫の腕の中にいた。それはとても驚くべき状況だったかもしれないのに、心臓の音が心地好いな、なんて他人事みたいに思ってた。
もう、色々ありすぎてこのくらいじゃ驚かないのかもしれない。それは良いことなのか、悪いことなのか分からないけれど。
「目……覚めた?」
普段より優しい声に、私は黙ったまま頷いた。猫は満足そうに笑みを浮かべる。私の思考回路は未だにとろんとしていて、上手く考えがまとまらない。
真っ赤な瞳をした白ウサギ、泣いてる女王様、きつい視線を送ってくる聴衆。
それらを見ても、感情意識記憶、全てがごちゃごちゃしちゃって、何に対してどう思えばいいのか難しかった。
「で、なんか成果は?」
「………」
「思い出したんだろ?」
その言葉だけで、涙がこぼれそうになる。チェシャ猫のショッキング・ピンクの瞳には、虚ろな目をした私が映っていた。
ねぇ、聞きたいことがたくさんあるの。でも、まだ怖くて。真実を知ったとき、私は……唯は唯のままですか?
「アリス、思い出したの?」
「…白ウサギ」
低く凄みのある声とは裏腹に、悲しげな表情。どうしてそんな顔するの?
「だから言ったろ? 唯自身に思い出させるって」
私の代わりにチェシャ猫が答えた。
聴衆たちの戸惑いが感じられるざわめきは、意味が分からないと言っているようだった。やっぱり、みんな知らないんだ。
じゃあどうして、どうしてチェシャ猫や白ウサギは私とお姉ちゃんの関係を知ってたのだろう。
「…意味が、分からん。事情を話せ……!」
叫びたい衝動を押し込めたような口調で女王様が言い放った。気丈な態度に、脆さが見え隠れしてる。
だんだんと冴えてきた私は、それでも落ち着いていた。あんな風に取り乱してる聴衆たちを見ると、なぜか不思議な程冷静になれる。
今まで私がたくさん混乱してたのは、周りの人がやけに淡々としてたからかもしれない。自分だけ理解していないようで、焦ってた?
記憶の錠の鍵を開けて、見えたもの。前のアリスがお姉ちゃんというならば、この世界の者は誰かしら関係してるだろう。…話す…べきだ。
私はチェシャ猫の胸を軽く叩いた。彼は腕を緩め、私の顔を覗く。
「……みんなに、真実を話さなきゃ」
声帯を震わせて、出てきたのはか細い声。少しかすれているのが自分でも分かった。
チェシャ猫は私を放し、正面から見つめてくる。珍しく無表情だ。
――その瞳に、今わたしはどう映っているのかな。
そんなことを思った。
「あの時、本当に落ちるべきは私だった。だけどお姉ちゃんは私を助け、私の代わりにアリスになって。……この十年間の詳しい事情はよく分からないけど、アリス──お姉ちゃんは消えたって言ったよね?」
猫にだけ聞こえるような声量で言う。だけどきっと、近くの白ウサギにも聞こえているだろう。二人とも、何も言わないけれど。
「だけど私はお姉ちゃんに会った。私とは色違いの服着て、私と大して年差のない姿で。……あの事件から十年も経ったっていうのに」
あの頃と、変わってなかった。少し髪が伸びて大人びただけ。私と同じように年をとれば、もう22歳なはずなのに。
こちらで会ったあなたは、まだまだ少女で。
「……真実を知りたい。だから、みんなにも私の持ってる真実を言う」
「本当にいいわけ?」
すかさず、チェシャ猫は尋ねてくる。まるで念を押すように。
「結構厳しい賭けだぜ? 本当のアリスだとみんなが喜んでお前を祝福するか、前のアリスが生きていたと、用無しになったお前を捨てるか。…どっちにしろ、あまりいい結果は望めないね。それでも唯は話すわけ?」
苦虫を噛み殺したみたいな、不機嫌な表情で吐き捨てる猫。私は彼の忠告に迷うことなく頷いた。
女王様を一瞥すれば、イライラしてるのだろう、ピアノをひくように指で壇を叩いてる。
――首、飛ばされちゃうかな。
あなたが好きなのは、アリスという存在?
「話す必要はないよ」
こそこそと話していた私達に、横槍を投げた。その人はもちろん白ウサギ。彼は一歩踏み出す。
「アリス、こっちにおいで」
優しくかけられた言葉が、不気味な程怖い。私はついチェシャ猫の腕を握った。
「アリス……僕よりそいつを選ぶの?」
眉を寄せて、また一歩踏み出す白ウサギ。
ねぇ、待って。私あなたにも聞きたいことがたくさんあるの。
来ないで、なんて言わないから、止まってほしい。
「白ウサギ……」
そんな願いをこめて声に出したら、伝わったみたいに彼は足を止めた。
私はチェシャ猫の腕をより強く掴む。はねのけられると思ったけど、猫は何でもないという顔をして、まったく動かずに白ウサギを見ていた。
白ウサギはそんな彼をチラリと見たけど、また私に視線を戻しこう言った。
「……苛々するなぁ。なんでお前みたいな奴にアリスが──」
ゾクリとするくらい、憎悪が込められた声。それでも、恐怖心より知りたい気持ちが勝って。私は必死に白ウサギの赤い紅玉の瞳を見つめ返した。
無機質なようで、燃え盛っている目。見ていると、名前のつけようの無い感情が胸に溢れる。
「もう、いいや。やっぱ嘘は苦手みたい。それに、ここまで唯に警戒されちゃ、僕の計画は失敗したと同義だしね」
ため息をついて、そう呟く白ウサギ。もう疲れた、とでも言いたげに。
――計画……?
首を傾げた私に、白ウサギは苦笑いをこぼした。そして、法定内をくるりと見渡し、言い放った。
「全て話しましょう。前のアリス、芽衣の行方。ここにいるアリス、唯を連れてきた理由。芽衣と唯の関係。そして、僕のことを」
見下ろしてくる女王様に一礼する白ウサギ。女王様は親指をカリッと噛んで、眉間にシワを寄せた。
「いったい何があった。何をした。話せ。どんなに些細な事も、全部だ。わらわが知らぬことが存在するなんて許さん」
「仰せのままに、女王陛下」
再びお辞儀した彼が、私を横目で見て、なにか呟く。
――え?
小さすぎたその声は、悲しいことに私の耳に届かなかった。
ごめんね。無意味だけど、謝りたかった。赦されない過ち。巻き込んだ君に、謝りたかったんだ。