裁判の始まり
私が連れてこられたのは、とても広いホールのような所だった。背後で扉が閉まる音がする。白ウサギが閉めたらしい。
見渡せば、知ってる人も知らない人も、たくさんの聴衆がいた。実際に見たことなんて無いが、法廷というところだろう。
怖いくらい静かな空間。みんなの視線が痛い。
見上げると、高い位置に女王様が椅子に座っていて、手には木槌が握られている。判決を許されるあの一番偉い人だ。えっと、……そう、裁判長。
「こっちだよ、アリス」
白ウサギに手を引かれ、法廷の真ん中まで導かれる。向けられる数々の好奇心の混ざった目。息が詰まりそうだ。
「これから、裁判を始める」
女王様が瞳を爛々と輝かせ言う。私はひとつ深呼吸をした。
今ここで、全てが明かされる。そして女王様から判決が下ったとき、私は正式にアリスになって、この世界の住人となるんだ。
正直、とても不安。チェシャ猫は大丈夫って言ったけど、あの少年の言うことを信じていいのだろうか。
――でも、逃げない。私が何かを忘れているなら、思い出すまで帰れない。
……帰ったら、もう二度と思い出せない気がするから。
「まずは白ウサギ。アリスにこの国の説明を」
本格的に始まった。後には戻れない。
はい、女王陛下、そう言って白ウサギは私に向き直る。
「じゃあ、始めようか。君を連れてきた理由、教えるよ」
私の肩に手をそっと沿えて、彼は微笑んだ。緊張して膝が笑う。私はキュッと口唇を噛んだ。
「どこから話せばいいかな。──そうだね、すこし昔話をしよう」
白ウサギ以外、誰一人喋らない、静寂に包まれた法廷。そのせいで、やけに自身の心臓の音が大きく聞こえた。
「ぼくらは何百年も前に君達の世界から追放されたんだよ」
「……どうして?」
私は白ウサギの瞳をまっすぐ見つめて尋ねる。彼はすっと目を細めた。
「分からない? 変わった獣、生きた花、首切り女王、非常識な帽子屋、大の嘘つき。忌み嫌われて、当然の存在さ」
吐き捨てるような言い方だった。微笑んでいるのに、口調にトゲがある。いつもの穏やかさが、感じられない。
静まりかえった空間が居心地悪く、なんだか物凄く不快だ。
「追放されたぼくらは、この地下の国で暮らした。おかしい者同志、気があったよ。平穏だった。だけど、もっと平穏に暮らすには、ひとつ足りないものがあったんだ」
「足りないもの?」
私は間もあけずオウム返しをした。白ウサギは薄笑いを浮かべたまま、こくりと頷く。掴まれた肩が、僅かに悲鳴をあげていた。
「そう、それがアリスさ。アリスのいないこの世界は、時空に歪みが出来る。だから、必ずアリスを君達の世界から呼ぶ。そうすることで、バランスを保っていたんだ。だけど」
白ウサギが、言葉を濁す。私は急かすように彼を見つめた。そこにあるのは、やっぱり笑顔。なのに、胸騒ぎが止まらない。
「アリスはぼくらと違って寿命があったし、脆い。一度女王様が首を切っただけで死んでしまった」
――…当たり前じゃない?
そんな思いが顔に出たのか、白ウサギは私の考えを汲み取って答えた。
「君達にとってはね。けれどぼくらにとっては衝撃だった。それからは、皆異常な程アリスを大切に扱ったよ」
それが、大切にされてる理由?
今までの事を思い出す。一部を除いては、確かにみんな優しかった。かなり親切にしてくれたし。
「アリスが死んだときは皆泣いたよ。ぼくらはアリスが大好きだったし、そのアリスはこんなぼくらを愛してくれた。何日も、何日も、ひたすら泣き続けた。そして泣き疲れたとき、女王様が提案する」
提案……。
心の中で、そっと呟いた。
「死んでしまったなら、また連れてくればいい」
「!! そう…、言ったの?」
残酷な言葉に、声が震える。彼は笑って、そうだよ、と答えた。張り付けた笑顔が、怖い。だけど、同じくらい哀しい。
「そして、アリスを連れてくる役目が僕さ。案内人という尊い役目。ぼくらは、今までそうしてきたよ。アリスが死んだら代わりをこの国へ連れてくる。きっとこれからもそうする」
「そんな、そんなの!」
おかしい、という言葉が出てこない。
迷惑なのは本当。正しいとも思えない。だけど、誰が彼等を否定できるだろう。
だって、アリスがいなきゃ消えちゃうんだよ。現実世界から追放されただけでも酷い事なのに、なんで消えなきゃいけないの? 誰だって納得できないはずだよ。
私は緩む涙腺を引き締めた。今泣いたら、きっと止まらない。
「前のアリスは原因不明で消えた。だから次のアリスが必要となる。そのアリスが……君だよ。唯」
背筋が凍った。ウサギの笑顔が、何故だかものすごく怖くて。こんな白ウサギ、私は知らない。
「そ、そのために私を呼んだの? だったら私じゃなくてもいいじゃない。なんで私が──」
白ウサギが言いかけた私の言葉を遮る。
「誰でもいいわけじゃないよ。声が聞こえなきゃダメなんだ。君には届いただろう? 僕の、アリスを呼ぶ声が」
そう、その声に呼ばれて私はこの世界に迷いこんだんだ。
でも、わたし今すごい悲しい。だって、あの優しさは全部嘘だったんでしょう?
アリスがいなきゃ自分たちの世界が消えるから、そうならないために大切にした。
私を好きだったんじゃない。アリスを愛したんだ。それこそ、酷い話だよ。
「……白ウサギは、どうして追放されたの?」
無意識に聞いていた。自分でも、なんでこんな事尋ねているのか分からない。
「ぼくは半獣だからね。何より嫌われたのが、この赤い目。人間では有り得ない色。ぼくは悪魔と言われ、恐れられた」
パチン、と片目をウィンクして言う。そんな悲しいことを、笑って言わないでほしい。泣きたくなる。
乾いた喉を潤すように、口内に溜った唾を飲み込んだ。
「白ウサギ! もっと穏やかに言えないのか!?」
今の今まで黙っていた女王様が立ち上がり叫ぶ。膝裏で蹴り飛ばしたのか、椅子が大きな音をたてた。
「そんな風に言ったらアリスが誤解するだろう!」
「……お言葉ですが女王様。私は何も間違ったことは言っておりません」
丁寧な言葉遣いなのに、含みがある。女王様の顔が怒りに染まったのが見えた。
「貴様……!」
「それに、アリスに事情を話すのは私の役目でしょう? 貴女は黙っていて下さい」
法廷内がどよめく。こんな修羅場、きっと一大事なんだろう。ざわついた観衆に、女王様が静粛に! と木槌を叩きながら叫んでいる。少しずつ、落ち着きを取り戻していく聴衆。
女王様はコホン、とひとつ咳払いをし口を開く。
「白ウサギ、お前はいったいどうしたんだ。昔はそんな風じゃなかっただろう? わらわに忠実な、良き案内人だったではないか」
再び訪れる、不気味な静けさ。張り詰めた空気が痛い。今にもそれが、破裂しそうで。
「……芽衣のせいか?」
女王様がそうこぼすと、白ウサギがぴくりと揺れた。私の肩を掴む手に力が入る。伝わる痛みに耐えるように、手の平を握った。
「……そうですね。本当はずっと黙っているつもりだったけど、話して差し上げましょう。唯も気になるだろう? 芽衣のこと」
口許だけで笑う白ウサギ。法廷が、みんなが、息を飲んだ。心臓が、有り得ない速さで脈打つ。
「芽衣は、唯の前のアリスだった。君と同様、井戸から落ちてきてね。──まぁ、本当は芽衣じゃない予定だったんだけど」
ぼそりと呟いた語尾が、小さくて聞こえない。
私は全神経を研ぎ澄まし、白ウサギの言葉を一生懸命掬った。
「そして、この世界に堕ちた芽衣はアリスとなった。最初は彼女も戸惑っていたけど、だんだんと馴染んだよ。裁判も潔く受けてくれたし。ね、みんな?」
そう言って、白ウサギは目だけで法廷全体を見渡した。聴衆だけでなく、女王様でさえ緊張しているのが雰囲気で感じる。
「僕と芽衣は直ぐ仲良くなったね。案内人は昔からアリスの話相手だけど、そんなの関係なく、ぼくらは隣にいた。彼女から君の話もたくさん聞いたよ」
「え?」
――私の、話?
そんなのおかしい。だって私は、あの時初めて芽衣と会った。なのに、どうして芽衣が私の話をできるの?
顔に出ていたのか、白ウサギは私の頬に手を滑らせ、口を開く。
「唯知ってる? 正式にこの国の住人になると、もといた世界からは忘れられるんだ」
「忘れられるって……」
「君の場合は傷付かないための自己防衛かもしれないけど」
この人は、なにを言ってるの?
……嫌。分かりたくない。気付きたくない。知りたくない。思い出したくないの。
「可哀想な君に教えてあげる」
お願い、何も言わないで。忘れたままでいさせて……。
「芽衣は君の──」
聞きたくない!
ウサギはさみしがり♪
置いてかれると寂しくて死ぬんだ♪
だから引きずりこむ♪
優しい仮面の下知ってるのは誰か?
歪んだ愛♪
それでも少女は受け止めた♪
狂った世界♪
可哀想な住人♪
ぼくらは何も悪くないのに♪
ただ少し狂っているのさ♪
嫌いなものは大好き♪
好きなものは大嫌い♪
そんなオレの名は
「チェシャ猫参上〜♪」
妙な歌と共に現れたのは、紫の猫。リズミカルにタップを踏みながら、法廷の中央まで歩く。くるりと一回転をして、猫は私の前に立った。
「チェシャ、猫……?」
一瞬、冷気が流れるみたいに冷たい沈黙が流れる。女王様も、白ウサギも、たくさんの聴衆も、みんな皆目を見開いて、息を忘れたように固まっていた。
「ね、猫だ!」
女王様の隣に控えていた、丸い耳のついた男の人が声をあげる。
それにハッとしたのか、法廷内がいっきに騒ぎ出した。張り詰めていた雰囲気が、破裂した。
「おお、眠りネズミじゃん。久しぶり♪ 相変わらず旨そうだな」
叫んだ彼を見て、チェシャ猫が言い放つ。男の人は、ひぃっ! と悲鳴をあげた。
――あれが、帽子屋の言っていた眠りネズミ?
ううん、そんな事よりどうして彼がここに?
「チェシャ猫だぁ!」
「大嘘吐きの道化めっ」
「何故ここにいる!?」
聴衆が叫ぶ。どよどよと、驚愕の言葉と中に罵声もいくつか混ざっていた。
なんでそんなに嫌われてるんだろう?
女王様が再び木槌を叩き、静粛にと何度も繰り返した。
「チェシャ猫……、貴様を裁判に招待した覚えはないんだが?」
「つれない事言うなよ女王様」
落ち着いた口調な女王様に、ケロリと返すチェシャ猫。女王様がすっと目を細めた。定める目付きで、上から見下ろす。
「女王様っ、早くあの侵入者の首をはねて下さい!」
隣にいた眠りネズミが、すごい剣幕でまくしたてた。それに続き、聴衆たちも処刑! 処刑! と声を合わせる。
嫌な雰囲気だった。なのに、チェシャ猫はさも気にせずに笑っていて。それが逆に、怖い。
「ええい、うるさい!」
女王様がヒステリック気味に木槌を叩いた。乱暴なそれは、カンカンと鋭い音が響きわたる。
「別にオレは首をはねられても平気だぜ。死ぬわけじゃないし、もともと首と胴体わかれてるし?」
誰に向けて言ったのか、ずいぶん挑発的だ。女王様はそれを聞いて、頬を小さく痙攣させる。
「お前も皆を煽るなっ」
「人が戸惑ってるのを見るの、趣味なんだよね」
「……悪趣味め」
嫌悪感いっぱいの表情をする女王様。でも、ストレス解消を理由に首をはねるのは悪趣味じゃないの……?
もちろんそんな事、怖くて口にできないけど。
「チェシャ猫……」
「…どうも、白ウサギさん」
赤い瞳を揺らして、白ウサギが呟く。
先程よりは落ち着いた聴衆。でも、まだ何か言いたげにひそひそと、囁き声が聞こえる。
こんなに居心地悪いところ、早く抜け出したい。
「なんでお前がここにいる」
「ん〜、アリス奪還?」
白ウサギの眉間に皺が刻まれる。もう、また険悪ムードじゃん!
「唯が思い出すことには賛成だけど、それをあんたが教える権利は無いと思ってね」
「お前にはあるのか?」
「オレなら、手っ取り早く唯自身に思い出させれるぜ」
まぁ見てなって、そう言ってチェシャ猫は、私の額に指先をあてる。いきなりだったからつい身体がこわばったけど、チェシャ猫が私の髪を撫でるから、不思議と力が抜けた。
「やめろチェシャ猫!」
白ウサギが、隣で何か叫んでいる。だけど私の耳には入ってこなくて。
「全部思い出せ。もう、逃げるなよ」
少年が耳元で囁いた瞬間、脳内に映像が勢いよく流れこんできた───。
どうかお願い、傷つけないで。
本当はもっと、優しくしたいよ
第三章終了です