ハートの女王
目の前の女王と名乗る人に、驚きのあまり私は口をパクパク動かすだけで、何も言えない。
私が黙って棒立ちしていると、隣にいる白ウサギが唐突に膝をついた。
「女王様、遅れてしまい、大変申し訳ありません。この通り、アリスを連れて参りました」
かしこまった口調の彼を見て、本当に偉い人なんだと実感する。
女王様は笑顔のまま私達のもとへと駆け寄り薔薇色の口唇を開いた。
「本当、何れだけ待ったことか……。イライラするから何人か首をはねてしまったわ」
「すいません」
「ふ、もういいさ。こうしてアリスがわらわのもとへ来てくれたのだから」
恐ろしいことをサラッと言い、彼女は呆然としてる私に綺麗な瞳を向ける。
そのガラス玉のような瞳に、私は息を飲んだ。このまま、吸い込まれそうになる。
「アリス……。会えて嬉しいぞ」
ふわりと笑い、私の頭を優しく撫でてきた。緊張のあまり、身動きとれず私はカチコチに固まってしまう。
「そんな緊張しなくていいのだ。貴女は誰よりも尊いのだから」
おでこに息がかかり、女王様がふふっ、と笑ったのが分かった。
ドキドキが止まらない。なんて返事すればいいんだろう。
――でも、こんなに優しい人が本当に首をはねたりするのかな? 穏やかそうな美人だけど。
女王様に髪をすかれながらそんなことを思った。
「ねぇアリス。貴女はずっと此処にいてくれる? どこにも消えたりしないな?」
私の顔を覗きこみ、そう聞いてきた彼女の瞳は、不安気に揺れている。ひどく心が痛んだ。
だって、私は帰りたい。ずっと此処にいるわけいかないよ。私はこの世界の者じゃないんだから。
でも、そんなこと言ったらこの人はどう反応する? 怒り狂って、首をはねるのかな。それとも泣き崩れるのかな。
――ちょっと待って。それはおかしくない? だって、私と女王様は初対面だよ。だったら私の事なんて……。
私が、アリスだから?
「アリス……?」
黙りこんでいると、確かめるように彼女は私の名前を呼んだ。
──違う。私の名前は、アリスじゃない。私は、私は。
「唯」
「っ!」
不意をつかれて、心臓がはねた。私は声の持ち主を見つめる。
大きな白い耳に、さらさらのブロンド。そして、紅玉の瞳。
此処に落ちてから、ずっと側にいてくれた。優しくて、穏やかで、私を落ち着かせてくれる。この世界で、誰よりも信頼してる人……。
「女王様、アリスは今疲れております。あまり混乱させては酷ですし、まずは休息をとるのが先決かと」
私が何か言う前に、彼が口を開いた。言われた女王様は、少し不機嫌に眉を寄せつつも、分かった、と頷く。
そして私のほうを向き
「アリス、残念だけど一先ずお別れだ。でも大丈夫。裁判が終われば、貴女はもうこの世界の住人。ずっと此処にいれるぞ」
と言った。
「裁判って……?」
思わず呟く。彼女の言ってる事が、よく理解できなかったからだ。
私の漏らした小さな声を聞き取った女王様は、一瞬、目を大きく見張る。その表情は、かなり驚愕したものだった。
「まさか……、何も言ってないのか?」
動揺が見られる声で、彼女は白ウサギに尋ねる。彼はその問いに顔色変えず答えた。
「申し訳ありません。裁判の際に全て話そうと思いましたので」
「勝手なことをするな! お前は与えられた仕事をしていればいい。まったく、裁判が長くなってしまったらアリスがアリスになるのが遅くなるだろう!?」
「誠に申し訳ありません」
白ウサギは折り目正しく謝罪する。すぐ側で聞いてる私は、ただ首をひねるばかり。
いったい、この人達は何を話してるのだろう。難しい単語なんか使ってないのに、意味が分からない。
アリスがアリスになる? ……どういうこと?
「──まぁいいわ。今わらわは機嫌が良い。アリスが来てくれただけで、我慢するとしよう」
ふん、と鼻を鳴らし、女王様は私達に背を向けた。長い真っ赤なドレスを引きずり、広く迷宮のような廊下から去ってゆく。
「ねぇ白ウサギ。なんの話してたの?」
彼の裾を軽く引き、そう尋ねた。隣で聞いていた私がこんな事を問うのもおかしいが、分からなかったのだから仕方ない。
「……気になる?」
私は間を置かず、こくりと頷いた。
「教えてくれるって言ったでしょ? ね、私はこれからどうなるの? 私は……、帰っちゃダメなの?」
すがるように白ウサギのブラウスを握りしめる。彼の整ったシルクに、しわができた。
困った表情をする白ウサギ。頬が引き攣っているのが分かる。
お願い、いつもみたいに笑ってよ。大丈夫だよ、って言って、笑ってよ。
だけどそんな私の願い虚しく、彼はこう言った。
「ごめんね」
中身が空の免罪符ほど、意味の無いものはない。そうやって謝って、いつまで逃げるの?
「誤魔化さないでよ。言ったじゃん、城に着いたら全部教えてくれるって。嘘つくの?」
まっすぐ見つめて言うと、彼の視線が泳ぐ。握る手に、力を込めた。
「……どうしてかな」
「え?」
「僕はもう心なんて捨てたはずなのに。本当に欲しいものさえ手に入るなら、何でも利用するつもりだった。なのに、なんでこんなに胸が痛いんだろう」
私の肩口に顔を埋め、うわ言みたいに呟く。
――白ウサギ……?
表情が伺えなくて、余計に不安になった。
「白ウサギ……。顔、あげて」
優しく髪を撫でながら言うと、白ウサギは素直に従った。垂れ下がった白い耳が、彼の心情を表している。
私はすう、と息を吸い込み
「あのね、私は白ウサギのこと好きだよ? まだ出会って間もないけど、それでも貴方は優しい人って分かる。だから、そんな顔しないで」
一息で言いきると、白ウサギは今にも泣き出しそうに表情を歪めた。
彼はいったい、何に苦しんでるの?
「……ごめんね、唯」
瞼を伏せ、彼がそうこぼした瞬間、視界が反転した。身体の力が抜け、意識が虚ろになる。
私はそのまま、白ウサギの腕の中に落ちた。
「芽衣は泣いてた。僕が君を連れてきたから」
まどろむ思考に、最後に聞こえた言葉。
◇白ウサギ side
僕は眠ったアリスを抱え、目の前の従者に微笑みかけた。
「ありがとう、眠りネズミ。君の能力は便利だね」
彼女を眠りに落とした張本人、眠りネズミは僕の言葉を聞いてぺこりとお辞儀する。
「勿体ないお言葉。貴公のためなら私の能力など、いつでも差し出します」
こういう時、案内人という役は地位が高くていい。誰をどう利用しても、みんな従ってくれる。案内人なんて役、よくアリスに振り回されて大変だったけど、今はなってて良かった。
「しかし、白ウサギ様。それが新しいアリスですか? ……今回は、何年もちますかね」
アリスを見つめ、彼は呟く。あまり聞いていて、快い内容ではない。黙らせたい感情を抑え、僕は笑みを張り付けた。
「どうだろう。60年はもつんじゃないかな」
平均寿命だし、なんて付け足して。
ああ、僕等は本当に狂ってる。アリスを大好きなふりして、ただ利用してるだけなのに。
「あれ、その首の痣……」
眠りネズミが、首筋にかかるアリスの髪をかきあげて片眉をあげた。見てみれば、彼女のそこには指のような痕が。
――いつのまに……? まったく気付かなかった。こんなに側にいたのに。
アリスが僕から離れていたのは、彼女が小さくなった時と、芽衣が現れた時だ。猫に連れさられた後は、そんな痕なかった気がする。だとしたら──。
「…チェシャ猫か…」
「猫?」
僕が漏らすと、眠りネズミは声を低くした。憎悪が込められているのが分かる。
「猫、また猫ですか。だからあいつは嫌いなんだ。前だって、お茶会中に毎回邪魔しに来ては、僕の耳や腕をかじって! あいつのせいで僕は森から追い出されたんだよ! ああ、お茶会が懐かしい……!」
半ば叫ぶように言って、地団駄を踏む眠りネズミ。ダンダン、と音が鳴り響いた。
「……もう行くね。アリスを休ませなきゃだから」
「あ、はい。部屋はご用意してあります」
気が利く彼にお礼して、アリスを抱え直す。瞼を伏せた彼女の顔に、罪悪感が溢れた。
それを払うように、僕は個室へ向かう。後ろで未だに猫の愚痴をこぼす眠りネズミを置き去りにして。
いつどこで狂ったなんて、聞かないで。思い出すのは怖いから