第三章 狂った世界
私は白ウサギに抱きあげられたまま、声を漏らした。遠くの丘に、高くそびえ立つ城が見えたからである。
「あれがお城?」
そう尋ねると、彼はこくりと頷く。
――そっか。此処が……。
距離があるため、どういう構造かは詳しく分からないけど、遠目から見ても、立派でファンシーなことは理解できた。
白地に赤の模様が入っている。なんの柄だろう。……ハート? なんにしても、かわいらしい。
「もう少しだね」
白ウサギが呟く。
ドキッとした。だって、目的地は此処だもの。
(城へ行こう)
(城に着いたら)
(城へ急がなきゃ)
今までの彼の発言。私は、そこに辿り着こうとしてる。全てが明らかになるんだ。
この世界の事。住人たちの事情。私が呼ばれた理由。アリスの存在意義。芽衣という女の子。チェシャ猫の問い。
全部を知るとなると、緊張が高まる。世の中には、分からないほうが幸せな場合がいくつもあるから。
それでも私は、知りたい。じゃなきゃ、帰れない気がする。
「行こうか」
白ウサギはそう言って、丘に向かって歩き始めた。
ずっと私を抱いてるけど、重くないのかな。わりと涼しい顔してるけど……。いや、そこまで太ってはないし、大丈夫だよね。…決して軽いとは言い切れないのが虚しい。
さすがに申し訳なくなってきた私は降ろしてもらった。
久しぶりに地面に足をつけたから、少しふらつく。感覚が麻痺しているみたい。
「大丈夫?」
気遣ってくれる白ウサギの腕を借りて、体勢を整えた。そして、ぐいっと腕を伸ばして、深呼吸。
私は、受け止める。
もとの世界に帰るためにも。
だから進むよ。
私を逃げてると言ったチェシャ猫。その意味はまだよく分からないけど、きっと分かるよね?
全てを知ったら、君のなぞなぞに答えられるかな。答えたいな。
だってもう、罪を重ねるのは嫌なんだ。
――え?
私はふと違和感を感じた。……今、なにを思った? 罪って、なんの事?
(ごめ……な、さい)
(唯っ危ない!)
(違う、私のせいじゃない)
ああ、頭痛がする。何かが私を呼び醒ます。胸の奥、骨の髄、細胞のひとつひとつまでが震えた。
「アリス、どうしたの?」
白ウサギがうつ向いた私の顔を覗きこんでくる。余裕がない私は返事ができなくて、ただかぶりを振るばかり。両手で痛む頭を押さえつけた。
「顔色が……」
彼はそう言って、私の頬に触れる。脂汗が額に滲んでいるのが、自分でも分かった。
――受け止めるって、決めたのに……。
何か忘れてる。脳内に流れこんでくる映像に、目を反らしちゃいけない。だけど、こんなにも怖くて。
――それでも私は……!
「アリス、駄目だよ。思い出す必要なんてない」
咎める声に遅れて、温もりが私を包みこんだ。白ウサギの冷たい指先が、私の背中を撫でる。
ゆるゆると往復する手付きは、あやす様にすがる様に動いて。──なぜか悲しい。
慰めているのは、どっち? 支えられているのは、誰?
「アリスは、羽ばたいちゃいけない。籠の中のほうが幸せなんだから」
そう言い捨てて、ゆっくりと白ウサギが離れてく。言葉の意味が理解できそうでできない。
「もう直ぐで到着する。その時君は、──分かるよね」
微笑んだ彼に、寒気がした。
おかしいな、白ウサギの笑顔は癒しの源のだったはずなのに。
◇
歩いて歩いて歩いて、私達はとうとう城門の前まで来た。空に高く高くそびえ立つ門は、見上げる程の大きさ。
「……どうやって開けるの?」
白ウサギの顔を覗きこみ尋ねる。すると彼はにっこりと微笑んで、パチンと指を鳴らした。
それを合図に、重そうな門が鈍い音をたてて開く。まるで魔法のようなそれに、私は感嘆の声を漏らした。
「すっごーい……!」
「そう? 普通だよ」
「普通じゃないよ! かっこいいー」
騒ぐ私に白ウサギはありがとう、と言って頭を撫でてくれる。優しい手付きに、私はふふっ、と笑いをこぼした。
そんなほのぼのとした雰囲気が、あるひとりの登場で壊される。
「どけどけどけー!」
「きゃあ!」
突然肩に衝撃を感じた。バランスを崩した私を白ウサギが支える。
――誰よ、失礼ね!
白ウサギに腕を借りながら、私はぶつかったものに振り向く。
そこに佇んでいたのは、モノトーンな服に身を包んだ男の人だった。
「悪い! って、白ウサギ様?」
彼は白ウサギに気付くと、私達の前に立ち止まる。その目は驚愕に見開かれていた。
――え、なに?
私が首を傾げてると、その男の人はなんと跪き
「ご無礼な所を御見せし大変申し訳ない。どうかお許しを」
渋い口調でうつ向いたまま言う。私があたふたしてると、白ウサギはそれ何ともないように見つめてた。
「顔あげていいよ」
そう言った白ウサギは片膝をつけ、彼と同じ目線になる。男の人は有難きお言葉、と言って、顔をあげた。
白い肌に漆黒の髪、瞳も真っ黒。服装だけじゃなく、全てがモノトーンだ。そして右の頬には、黒いタトゥーがふたつある。スペードっぽいな。
「君は……スペード隊のナンバー2だね」
「はっ、その通りです」
スペード隊? ナンバー2?
理解できない私を放って、彼等は話を続ける。ちなみに、今の私達の位置は開いたままの城門に挟まれている。やや内側寄り。
っていうか、この門いつまで開いてるんだろう? いきなり閉まったりしないよね?
開けた張本人を一瞥すると、そんなの頭にないかのようにスペード? の人と話してる。
「だけど何故君のようなトランプ兵が門の側に?」
「じ、実は……」
スペードの人はキュッと口唇を噛み締めて、こう言った。
「城から、逃げようと」
「……何故だい?」
白ウサギは表情を変えない。
「俺、このままじゃ首をはねられるんだ」
「ええ!?」
彼の爆弾発言に、私は大きな声をあげた。白ウサギに言ったのに私が反応したせいか、彼は私を睨む。
――うわ、恐いって!
無意識に白ウサギの袖を掴むと、大丈夫だよ、と微笑まれた。その笑顔に、少しほっとする。
「彼女をあまり睨まないでくれる?」
「…白ウサギ様がそう仰るなら……。しかしその小娘はなんなんです?」
「彼女はアリスだよ」
私の腰に腕をあて説明する白ウサギ。それにスペードの人は首を大きく仰のいた。黒い瞳で私をジッと見つめる。
「ア、アリス? そういえばその服……。そ、そうか。失礼な真似をした」
そう謝罪して、今度は私に向かい跪いた。そして私の手を取り
「俺はトランプ兵、スペード隊のナンバー2です。先の無礼な言動、誠に申し訳ない」
切なげな表情で言う。
――そ、そんな深く侘びを入れられても戸惑うって!
私は慌てて片手を目の前で振り、
「別に気にしてない! だ、だから跪いたりしないで」
「アリスがそう言うのなら」
彼は私の手を放し、そっと立ちあがった。私はひとまずほっと心を撫でおろす。
生まれてこのかた、人に跪かれた事なんてない。いや、平凡に生きてれば、普通そんなの経験しないよね。
まぁ、何はともかく、いきなりこんな事されたら困るわけで。
「──ところで、首をはねられるってどういう事? なにかしたの?」
話題を戻して尋ねると、彼は眉をひそめた。なんだろう、地雷踏んじゃったかな。
「何もしてないさ。ただ最近、女王様の機嫌が悪くてね。言うならばストレス解消だろう」
「ストレス解消!? そんな……」
酷い。イライラするから首をはねるなんて、残酷にも程がある。
――女王様、いったいどんな人なんだろう?
これから会う人物に、恐怖心を覚えた。会って突然殺されたりしたらどうしよう。
「だから俺は城を出る。こんな所で死ぬ気はないからな。逃げたらどこかでゆっくり暮らすさ。俺の人生は波乱万丈だったからな、和やかなものに憧れる」
遠くを見つめて言う彼は、儚げだった。
非常識な世界、二足歩行のトカゲ、喋る花、大きな芋虫、消える猫。そして次は首切りの女王様。チェシャ猫の言う通り、皆みんな狂ってる。
それでも成り立つ世界。それは世界そのものが狂ってるから?
「……そうだね、女王様は見境ないから。これ以上トランプ兵が減るのも困るし、僕は早く行くよ。君も早々に逃げたほうがいい。後は僕に任せて」
白ウサギは片膝ついた時に付着した汚れを払いながら言う。
滑るような仕草は綺麗で、見惚れるものだ。
「白ウサギ様……。その慈悲深きお言葉、一生忘れません」
黒い髪を揺らし、一礼する。そして彼は私達に背を向け、城の外へと走っていった。何度も何度も振り返りながら。私はそんな彼に苦笑しつつも、手を振った。
だから気付かなかったの。白ウサギの呟いた声に。
「哀れだな……」
「え?」
「いや、何でもないよ。ほら、早く女王様のもとへ行こう。また犠牲者が出る前に」
笑って言うから、この時の私は大して気にかけなかった。だって、信用していたんだよ。彼は、彼だけはいつだって私の味方だと信じてたんだもん。
幸か不幸か、吉と出るか凶と出るか、先なんて読めるはずない。だってこの世界は、狂ってるから。
第三章開始です。