矛盾した行動
いつもはつりあがってる意地悪な目が、今は信じられない程優しい色をしてる。
私の後頭部に回されていた手は、うなじを撫で、そのまま首筋に当てがわれた。身体の芯がゾクリと跳ねる。
「なに……して」
かすれた声に、チェシャ猫は妖しい笑みを乗せて答えた。
「殺す理由って、ふたつに分かれてると思わない? 嫌いだからか、好き過ぎるからかのどちらか」
甘ったるい声色で囁きながら、私の顎を細い指先で撫でまわす。
「ひたすら憎くて、顔を見るのも嫌で、同じ空気を吸ってるというだけで吐気がする。この世に存在してることが赦せないくらい、大嫌い」
僅かだけど、手に力が込められた。気道が塞がれ、喉がひくつく。
「それか、好きで好きで好きで、食いたいくらい大好きで。自分だけのものにしたい。他人になんか見せたくない。──殺したいほど、愛してる」
「…ああっ……!」
愛してる、そう言った瞬間首を力強く掴まれ、私は大きく仰のいた。
片手なのに、なんて力。必死に彼の腕を剥がそうとしても、嘲笑うように力は増幅する。
「う、あ……」
恐怖と苦痛に、止まった震えが再びきた。息を止められたり、首を絞められたり、もう訳分からない。
――なんで、こんな事するの?
涙が一筋、頬を流れる。
「はぁっ! うっ、ゴホッ」
唐突に手を放され、私は目眩を起こした。すがるように彼にしがみつく。こうでもしなきゃ、倒れそうになったから。
「……唯」
私の名前を呼んで、チェシャ猫は涙をなぞるように頬へと口唇をよせてくる。雫を舐めとられ、羞恥に顔が熱くなった。ザラついた舌に鳥肌がたつ。
なんなの、酷いことをしたと思ったら、こんな風に優しくして。……二重人格? 私の身体がもたない。
「なん、で…こんな……」
「泣き顔、見たいから」
――悪趣味な。かなりのS猫だわ。
私が息を整えていると、チェシャ猫に引き寄せられた。腕の中に閉じ込められる。ちょっとだけ苦しい。
「チェシャ猫?」
「王子様のご登場。それとも、化けの皮被った狼か?」
なんのこと、そう思った時、怒りを含んだ低い声が耳に届いた。
「…アリス…」
「──白ウサギ」
振り向けば、息を切らした白ウサギが、眉間に皺を寄せ立っている。ビリビリとした雰囲気が痛い。
「アリス、おいで。猫なんかの側にいちゃいけない」
「酷い言われようだなオレも」
私を抱きしめたまま、チェシャ猫は挑発の笑顔を売る。この二人なんでこんなに仲悪いのよ!
「アリスを放せ」
「そう恐い顔するなよ。せっかく唯を足止めしてやったんだから。唯が帰って困るのは、あんただろ?」
火花を放ち、睨みあう二人。だけど、今のところ両者動かずだ。
お願いだから、ケンカはよしてよっ。
「……あんまり、勝手な事言うな」
「真実じゃん」
一歩、白ウサギがにじりよる。怒っているのが見てとれた。
その怒りの矛先は、チェシャ猫に対して?
それとも逃げた私?
そんな考えが頭に浮かんだ瞬間、私は重要な事を思い出した。
――あの女の子、どうなったの?
私の味方と言った芽衣。白ウサギを止めるとか言っていたけど、現在彼はここにいる。それは、どういう意味を表すんだろう。
私が不安に纏われてきたら、ふと頭にため息がかかった。チェシャ猫のものだと、数秒たたずに気づく。
「仕方ねぇな。とりあえず唯はあんたに貸すよ」
――貸すって、私この子の物になった覚えはないんだけれど。せめて逆じゃない? チェシャ猫って、猫なわけだし。……なつかなそうだけど。
「早くアリスを返せ」
白ウサギは恐いくらい低い声で、しかも口調まで変わってる。
「分かったって。短気だな。あ、唯」
チェシャ猫に呼ばれ、私は顔をあげた。抱きしめられているため、鼻先が触れそうなくらい至近距離。
「第4問な。白ウサギが一番愛してるのは誰?」
――え……?
「チェシャ猫っ!」
一瞬思考停止したが、白ウサギの声にハッとする。その隙にも私は突き飛ばされ、白ウサギの胸にダイブした。
「自分なんて言うなよ。殺したくなるから」
本気混じりに聞こえる声色で言い、猫は消える。いつもみたいに、くるりと一回転して。
「…………」
しばらく呆然と私は猫の消えた風景を見てた。なんとも言えない。口はだらしなく半開き。いやはや、これが開いた口が塞がらないってやつね。
「……唯」
小さな声が私を呼ぶ。
「なに? ───え?」
今、唯って……。私、白ウサギから名前で呼ばれた事あるっけ?
そんな疑問点を消すように、彼は再び声を発する。
「城へ行こうアリス。早く、早く行かなきゃ……」
うわ言のように彼は呟いた。なんだか、様子がおかしい。なんだろう、もう怒ってはないと思うんだけど。余裕がない、って感じかな。
「あ、あの白ウサギ……きゃあっ!」
固まった私が焦れったかったのか、彼は急に私を抱きあげた。世間で言う、お姫さまだっこ。
「ちょ、ちょっと! 下ろして白ウサギっ」
「暴れないで。もうすぐ着くから。それまでの辛抱だよ」
そういう問題じゃない!
こんな大人の男性に横抱きされるなんて、私にはまだ早いわ! ……いや、年近いならいいとかじゃないよ?
やみくもに手足をばたつかせたけど、まったく効果なし。私は諦め、おとなしくされるがままになった。
「……ねぇ、白ウサギ」
「なに? アリス」
私の声に、すぐ反応してくれる白ウサギ。
分かってる。この人(兎?)は優しい。いつだって、私を落ち着かせてくれたもん。だから大丈夫。白ウサギに限って、裏なんてない。
自分に言い聞かせ、私はひとつ深呼吸をする。
私は顔をあげ、彼に尋ねた。
「あの子──芽衣はどうしたの?」
そう聞いた途端、白ウサギの瞳が見開いたのを、私は見逃さない。
なにか、隠してる。
……なにを?
「芽衣は───」
彼の口のかたちを追う。いったい、何を言うつもりなんだろう。芽衣、と呼ぶくらいなんだから、知ってるはず。
「………」
口を開いたまま、言葉をつぐむ白ウサギ。
鼓動がドクドクとうるさい。心なしか、冷や汗まで滲んできた。
「…君はなにも心配しなくていい」
出てきたのは、そんな言葉。納得いかない。だって、あの女の子、見覚えある。それに私と同じ服着てた。私のこと知ってたし。
「はぐらかさないで。ねぇ、私はなんで此処にいるの? アリスって何? なんで私なの? この世界はどこ? 私はこれからどうなるの?」
いっきに疑問が溢れだし、彼に責めよる。
白ウサギは少し眉をひそめたけど、私は止まらなかった。
「あそこに行けば帰れるって、だから私……! ねぇ、なんで邪魔したの? 戻ってよ。井戸の所まで戻って! いい加減私を帰してよぉ……!」
「アリス」
足を止め、私を咎める。
なんで? 私なにか間違ったこと言った?
「城に着いたら、全部話すから」
「──そればっかじゃん…」
できるだけ冷たい声で言い放つと、彼は困った笑みを浮かべた。
そんな顔しないでほしい。なんだか居堪れないよ。
「ごめんね」
欲しいのは、そんな言葉じゃない。
そう言ったら、彼は苦笑いして、ごめんと言った。
彼の謝罪の本当の意味を知るのは、もっと先のこと。
第二章、終了です。