でたらめな問いかけ
「帰さないよ、唯」
私は目を見張った。目の前の男の子の発言の意図が、理解できない。
「だって、あんた逃げるつもりだろ? そんなのずりいじゃん」
銀色の猫っ毛をいじりながら、ややきつい口調で言ってくる。私はただただ、焦った。 今ここで塞がれたら、私は自分の世界に戻れない。
あの女の子のことを全て信じるのも、どうだろう。そんなこと、心の中では分かっていた。だけど、嘘ついているようには思えない。
「お願いだから、どいてよ…」
弱々しい声。だけど、上手く言葉が出てこない。声帯を必死に震わせても、口から出るときにはほとんどが吐息になり、僅かしか声にならない。
私は、何をそんなに恐れているんだろう。
帰れなくなること?
笑ったチェシャ猫?
それとも───
『もう二度と帰れなくなる』
そう言った彼女の声が、耳から離れない。見せかけ? 永遠? あの娘は……誰?
私はきゅっと口唇を噛み締めて、チェシャ猫を睨んだ。ずっと視線を向けていた猫と、目が合う。
「私は有栖川唯よ。アリスじゃない。この世界にいること自体間違いだったの。……帰るわ」
早口に言い切ると、猫が一瞬笑みを消した。だけど、直ぐにまた笑って
「だから、何?」
冷たく言う。途端に寒気がきた。
「オレはあんたが帰るのが許せないのは、アリスとかどうとかそんなくだらない理由じゃない。逃げようとしてるあんたがむかつくんだよ」
私が反論する間もなく、チェシャ猫は言葉を並べる。こんなに穏やかな陽気なのに、震えが止まらない。
「都合の悪いことは忘れて、辛いことから目を背けて、随分イイ性格してるよ。そりゃ、あんたは楽だろうな。気付いてるくせに、知らないふりしてるんだから」
なにを言っているのか分からない。どうして私は責められているんだろう。
なにがチェシャ猫をこんなに不機嫌にしているの?
「……いいから、どいてよ」
声を振り絞り、うつ向いて伝える。不穏な雰囲気が針のように突き刺さって痛い。ビリビリとした痺れが全身を襲う。
「オレ、命令されるの嫌いなんだよね」
「命令じゃ、ない。頼んでいるの……」
「主以外の頼みは聞かない主義なんで」
チェシャ猫は口角をつりあがらせて、喉を鳴らして笑った。癪に障る。だけど、それ以上に怖い。
止まらない震え。立っているのさえ辛くて、今にも膝が崩れ折れそう。
私は自分の肩をぎゅっと抱きしめた。
「そんな顔すんなよ。余計泣かせたくなるだろ?」
目の前の猫が私の顔を覗きこんでそう呟く。ぎこちない手付きで、私の前髪を払った。
「なんで、そんな酷いことばっか……」
自分の口から零れたのは、半ばしゃがれた涙声。
だけど、疑問だった。なんでこんな事されるのか、どうしても理解できない。恨みを買われるような事した覚えはなかった。それを聞いた猫は、ふっと息をはき、小さく笑った。
「大嫌いだから」
そう言って。
「……っ」
嫌いと言われて、傷付かないはずない。例えそれが異世界の物でも。紫の猫でも。
自分でも何が何だか分からなかった。
心より、身体のほうが正直なのかも知れない。だって私、歯根が噛み合わないくらい震えてる。
「そんな脅えちゃって、被害者ぶってんの?」
「違う……」
痛い言葉とは裏腹に、優しく私の頬を撫でる少年。大切なものに触れるみたいに、柔らかく。それがまた哀しい。
「じゃあ、アリス。ここで問題」
唐突すぎる話題変換。今のどこに『じゃあ』の接続が使われたんだろう。
なんとなくうつ向いたままでいると、チェシャ猫は私の両頬を手の平で包んで仰がせた。
直ぐ前のピンクの瞳は、やっぱり笑ってない気がする。だけど、怒りとは違う。……何の感情を抱いているか読めない。
ずっと見つめていると、猫は視線を外さないまま口を開いた。
「この世界の異常さ。アリスの存在意義。平和のための手段。馬鹿馬鹿しいほどのアリスへの溺愛。さて、なーんでだ?」
「…………?」
意味が分からなかった。いや、本気で。答えどころか問題も理解できない。並べられた単語は、どんな意味が含まれていただろう。今ものすごく辞書がほしい。
だいたい言い方が遠回しで難しいんだ。もっとストレートに言えないかな。
「分からない?」
「…うっ……」
悔しかったけど、まったく思いつかないから仕方なしに頷いた。そんな私に、チェシャ猫は馬鹿にするかのように鼻で笑う。いちいち頭にくる子だな。
私が口を尖らせると、猫は薄笑いを浮かべたまま、私の髪を鋤く。いつのまにか、震えは止まっていた。
なんでだろう。私、さっきはあんなにチェシャ猫のこと恐かったのに、今は全然平気。雰囲気が和んだせいかな? チェシャ猫の目が、少しだけ柔らかくなったからかも。
「じゃあ第2問!」
「えっ!?」
私は思わず叫んだ。チェシャ猫は遮られたのが気に食わないのか、何、と鋭い目付きで聞いてくる。
「何って……だって答えは?」
「そんなの必要ねえよ。自力で考えるんだな」
――そんな滅茶苦茶な!
納得がいかなくて至近距離の彼を睨むと、チェシャ猫はやれやれと肩をすくめて
「ならヒント。みんなが好きなのは唯じゃない、アリスだよ」
と言った。
さりげなく傷付く言葉。それがヒント? やっぱり分からない。
「第2問な。この世界で一番正常なのは誰?」
悩んでいる私なんか気にも止めず、淡々と述べるチェシャ猫。私は先ほどの問いが気になったけど、取り合ってくれそうにないから、思考を切り替えた。
チェシャ猫は私を隣に座らせる。井戸の縁に座るのは怖かったけど、咎めるとまた不機嫌になりそうだから、おとなしく従った。
「……みんな変だと思うけど」
小さく呟く。これは私の本心。だって正常な人なんかいたかしら?
「その通り! そもそもこの世界が正常じゃない。正常な者なんていないんだ。強いて言うなら、唯くらいじゃん?」
尻尾を私の腕に絡め、チェシャ猫は言う。
「それもどうかと思うわ」
「第3問!」
もうっ、無視しないでよ!
「いちばん狂ってるのはだーれだ?」
「…もういい。えっと、狂ってる? そんなの比べれないよ。だって皆同じくらいおかしいじゃない」
「それが唯の答え?」
「だって……」
「ハズレだね。答えはアリスさ。いちばん狂っている」
私は耳を疑った。首を勢いよく回して、チェシャ猫を凝視する。猫は、ん? と首を傾げた。
「私? どうして? いちばん正常なのにいちばん狂ってるなんて、矛盾してるよ」
「矛盾! なんていい言葉。そうさ、この世界は矛盾してる。それが面白いんだ。成り立たないキャッチボール、言葉と行動の違い、組み合わない想い。矛盾だらけさ」
身振り手振りに意気揚々としゃべる猫。そんな面白い内容には思えないんだけど。やっぱりここの者達は変だわ。
「唯も気付いているだろうけど、ここの奴らはどいつもこいつも異常だ」
びっくりした。まるで私の心を読んだように言うから。いったい何者?
「でも、アリスは唯一この狂った世界で正常。なのにここにいる。おかしいと思わねぇ?」
「…………」
頭が鈍感な私も、なんとなく言いたいことは分かった。けれどいちばん大切なことは言ってない、そんな気がする。
私は上半身を向き直り、隣に座るチェシャ猫を探るように見つめた。桃色の瞳。白ウサギはこの男の子を嘘つきと言ったけど、今は嘘ついてないと思う。
「簡単に言ってよ」
「それじゃつまらないだろ? 言動全て難解に、がモットーなんで」
最悪だ。つまるつまらないの問題じゃない。
「……そうだな。ま、話してやってもいいよ」
「本当!?」
チェシャ猫の言葉に、私はパッと顔を輝かせた。チェシャ猫はフフン、と笑って、足を組み直し口を開く。
「でもオレ、見返り求めない無償の行動って嫌いなんだよ。ギブアンドテイクってやつ?」
――見返りがほしいって事?
生憎売れる情報は持ってない。チェシャ猫が得するネタなんてもっとないし。
私が黙っていると、チェシャ猫は話を続ける。
「別にあんたは思い出すだけでいいんだ。それだけでオレ満足だから」
「思い出すって……」
何を、と言う私の声に、彼の声が重なった。
「薄暗い夕暮れ。見知らぬ林。一人ぼっち。泣くだけの幼女。意味のない免罪符。戻らない愛しい人。閉じ込めた記憶」
繋がりのないキーワードを、ひたすら並べる。意味が、分からない。分からない、はず。そう、理解なんかできなくていいの。だって私が動揺する理由なんて無いんだから。
「逃げただろ? 怖くて。そして忘れた。自分だけ助かったことの罪悪感? それとも、せいせいしてる?」
「違……、私はそんな」
さっぱり分からない意思に反して、口が勝手に動く。私はなにを言おうとしてるのかな。
困惑してる私の奥に、全て知ってる自分がいる。なんだ。本当に矛盾してるのは、私か。
「なにが違うわけ?」
猫は尋ねる。
「わ、私は、そんなつもりじゃなかった。だけど、とっさの事で、好奇心が、それで滑って、落ちて──。私が、私、が」
文になっていなかった。自分でも何を喋っているのか分からない。なのに、チェシャ猫は口許を三日月に歪め、こくこくと頷く。自分でも分からないのに、なんでこの猫は全て理解した表情をしてるの?
「……私の、せい………?」
言葉にした途端、涙がぶわっと溢れた。次から次へと洪水が押し寄せる。
私は顔を両手で覆い、何度も何度もごめんなさいと呟いた。なにかに取り憑かれたように。
その瞬間、脳内に、映像が途切れ途切れに入ってくる。壊れたテレビのように、無音で画質も荒れていた。
───フラッシュバック。
「唯」
チェシャ猫がなだめるような声をかける。私は必死にかぶりを振った。
私に触れようとするチェシャ猫の手を振り払い、滅茶苦茶に両手を動かす。
「おい、暴れんな」
「も……やっ」
この時の私は本当に動揺してた。だから、チェシャ猫が笑みを消したことに気付かなかった。落ち着いていれば、声色に怒りが入ってるって気付いたのに。
「───んっ」
――…えっ!? なに? わたし今、口塞がれている……!
キスなんて甘いものじゃなかった。噛みつくように口唇を貪られる。
「……ふっ……」
零れおちるくぐもった声は乾いた口唇に吸いとられ、喉の奥に消えていった。
息継ぎの呼吸さえ、チェシャ猫の口内に飲み込まれて。
パニックに陥っていた私は、鼻で息をすることが思いつかなかった。今度は息苦しさに涙が滲む。
――やだ、私を殺す気かこの猫……!
口唇に感じる猫の尖った八重歯。彼の右腕は私の頭を押さえつけ、顔を背けることが叶わない。
胸板を叩いても、びくともしないで。逆にホールドされてしまった。
長い間息を止められていた所為で、視界が霞んでいった。色を失い、白と黒に歪む。
もう限界、そう思った瞬間に解放された。
途端、酸素が大量に肺に入りこむ。だけど私は呼吸の仕方を忘れたように、うまく吸い吐きができない。
「ゲホッ、ゲホッ。……はぁ、はぁ、はぁ」
咳き込んだ後、ゆっくりと落ち着いて深呼吸を繰り返した。目の前の猫を睨みつける。
「泣き顔、可愛い」
うっとりとした表情で言うチェシャ猫に、寒気がした。
止まらない涙が切なくて、また泣いてしまう。