第3話 他人の初恋は胃もたれがする
他人の初恋は、だいたい二種類に分かれる。
眩しすぎて直視できないやつと、見ているだけで胃が重くなるやつだ。
残念ながら、僕の脳にインストールされたのは、後者のほうだった。
……と、今なら言える。
買う前の僕は、そこまで想像力が働いていなかった。
◇
部屋の明かりを消しても、なかなか眠れない夜が続いていた。
枕元のノートには、数日前の走り書きがそのまま残っている。
ホームの夢
送別会(?)
穴:スプーン
我ながら、未来の自分へのメッセージ性がゼロに近いメモだ。
それでも、ページを開くたびに、頭のどこかがむず痒くなる。
「……つまり僕は、メモ帳までバグらせてるわけだ。」
久々に口癖が口をついて出た。
すぐに後悔する。まとめようとすると、どうしても「抜けている部分」に指が触れてしまう。
五千円で買った、誰かの「最後の一日」。
利息二ヶ月分と引き換えに売った、自分の「途中の一夜」。
どちらも、まだ消化しきれていない。
頭の奥と、みぞおちのあたりで、それぞれ別方向に重たく残っている。
「……甘いもの、欲しいな。」
つぶやいてから、自分で笑った。
甘いものといっても、冷蔵庫の中身はほぼゼロだ。
代わりに、もうひとつ別の選択肢が頭に浮かぶ。
ここ最近、あの地下のバーのモニターに、やたらと「初恋」だの「初キス」だの甘口ロットが増えていた。
現実世界でスイーツブームが起きると、だいたい二ヶ月遅れくらいで「記憶オークション」のラインナップにも反映される。統計は取っていないけれど、体感的にはそんな感じだ。
「……デザートコース。」
自分の脳みその消化不良を、他人の初恋で中和しようとする。
冷静に考えると、相当悪趣味な発想だ。
だから、考えないことにして、僕は着替えを掴んだ。
◇
駅ビルのエスカレーターの前に立つと、条件反射のように足が止まる。
上りと下り。
前にも同じ光景を見た気がする。というか、先週も、先々週も見ている。
「……上りに乗ればいいだけなんだけどな。」
いつもの台詞を、もはや儀式のように心の中で繰り返す。
今日は片足だけ、ほんの一瞬、上りの段に乗せかける。
手すりの向こうに続いていく「ちゃんとした生活」の断片が、頭の中にフラッシュバックのように浮かんで、すぐにかき消える。
そのうえで、やっぱり下りに乗る。
光から影へ。
地上から地下へ。
まっとうな人生から、その残骸を競り落とす階層へ。
頭の中で勝手にナレーションが再生されて、勝手にしんどくなる。
それでも、エスカレーターは律儀に地下二階まで僕を運んでいく。
非常口の脇を抜けると、見慣れたネオンサインが視界に入った。
「REM BAR」だか「RE:MEM」だか。
相変わらず、僕の脳の視力ではうまく読めない。
扉を開けると、アルコールと電子機器の匂いが混じった空気が、まとわりついてきた。
壁一面のモニターには、今日も「誰かの人生の一部」が字幕付きで流れている。
「いらっしゃい、記。」
カウンターの奥から、いつもの声。
鹿目ルカ。
この店のバーテンダーであり、記憶オークションのブローカーであり、僕の脳みそ管理人を自称する女の人だ。
「まだ来るんだ。
正直、『最後の一日』ロットの後遺症でしばらく寝込むと思ってたけど。」
「寝込んでる場合じゃないからさ。現実は待ってくれないし。」
「現実から逃げに来た人のセリフとしては、説得力ゼロだね。」
氷をステアする手を止めずに、ルカの視線だけがこちらを刺してくる。
スツールに腰を下ろすと、彼女はグラスを棚から取り出した。
「で? 今日はどっちコース?
さらに自分の記憶を削って借金返済コース? それとも、また安物の他人の人生で口直し現実逃避コース?」
「三つ目の選択肢を追加してほしいんだけど。」
「聞こうか。」
「甘口ロットで、胃薬代わりコース。」
ルカの手が、ぴたりと止まった。
「……は?」
「ほら、この前から甘い系のロット増えたじゃない。
初恋とか、初キスとか、そういうやつ。
あれ、ひとつくらいなら、そんなに重くないかなって。」
「『甘口』ってラベルを、どの程度信用してるの。」
「砂糖多めって意味じゃないの?」
「それ、甘口カレーの発想だから。」
ルカは、ため息をひとつ、氷と一緒にかき混ぜた。
「いい? 記。
うちの基準だとね、『初恋』とか『最初のキス』とかタイトルにつきそうなのは、本来『売っちゃいけない記憶』側なの。」
「売っちゃいけない、ね。」
さっきモニターに並んでいた「初恋特集」のテロップが、頭の隅でちらつく。
「本来アウト」と言いながら、現に棚には並んでいる、そのねじれが気になる。
「家族の顔がちゃんと写ってる記憶と、『最初の〜』『最後の〜』がつく記憶。
それと、『謝りに行けない相手』が出てくる記憶。
この三つは、基本アウト。」
指を折りながら復習されると、自分の過去のどこかがじくりと疼く。
どれか一つどころか、全部コンプリートしてそうな気がしてくるから困る。
「でもさ。」
僕は、逃げ道としての理屈を探す。
「売るのがアウトでも、買うのはセーフなんじゃない?
ここ、そういうグレーゾーンをやってる店でしょ。」
「開き直り方がだんだん板についてきたね、あんた。」
ルカはカウンターの下からタブレットを引き出し、モニターと同じロット一覧を呼び出した。
「……ほら。」
指先で画面を弾くと、ひとつのロットが拡大表示される。
タイトル:誰かの初恋の記憶
カテゴリ:甘口ロット/一部編集済み
備考:対象年齢 10 代後半/相手の個人情報保護のため一部マスキングあり
「マスキングって、そんな気軽な単語で言っていいのか、それ。」
「これでも良心的なほうだよ。
相手の顔とか名前は全部ぼかしてあるから、ストーカー用途に使われにくい仕様。」
「『にくい』ってところに、若干の自信のなさを感じるんだけど。」
「細かいツッコミは置いといて。」
「本音を言えば、こういう『最初の〜』付きは、全部棚から下げたいんだけどね。」
ルカは、画面の『一部編集済み』の文字を指先で軽く叩く。
「だからわざわざ“編集済み”って免罪符つけて、店としてはギリギリ扱ってる。」
ルカは、僕の前に端末をスライドさせた。
「これ、スタート価格は三千。
甘口にしては安いけど、『一部編集済み』タグがついてる分、ちょっとだけクセが強い。」
「クセ?」
「食べ物でもあるでしょ。甘いのに、やたら後味にスパイス効いてるやつ。」
「つまり、胃もたれする?」
「タイトルに寄せてくるねえ。」
ルカは肩をすくめた。
「止めはしないけど、ひとつだけ言っとく。」
「うん。」
「あんた、自分の初恋、ちゃんと覚えてる?」
その質問は、思ったよりも深く刺さった。
口を開きかけて、空白に突き当たる。
顔が浮かばない。声も、場所も。
代わりに、白い天井と、規則的な電子音と、視界の端を横切る誰かの影と、「ログが——」という言葉の切れ端だけが、頭の隅でちらつく。
「……さあ。」
正直に答える代わりに、僕は曖昧な笑いでごまかした。
ルカは、少しだけ目を細める。
「その空白、他人の初恋で上書きしようとしてるなら、結構やばい遊び方だからね。」
「遊び、というか……実験?」
「人間をやめる実験なら、うちじゃなくて別のラボに行ってよ。」
そう言いながらも、彼女は入札用のボタンを有効化してしまっている。
この店の「自己責任ライン」は、いつもだいたい僕の一歩先で引かれている。
ステージでは、派手なスーツの司会者が、ちょうどそのロットを紹介し始めていた。
「さあさあ、お待たせしました、本日第十八ロット!
『誰かの初恋の記憶』、これは人気ですよ〜。
ほろ苦くて甘い、十代後半限定の青春フルコース、お席の皆さまいかがですか!」
誇張気味のトークに、会場から苦笑混じりのざわめきが上がる。
それでも、何人かのコレクターが、興味深そうに端末を操作しているのが見えた。
カウンターの隅の席では、スーツ姿の中年男性がひとり、静かにグラスを傾けていた。
ネクタイはきちんと締められ、靴はよく磨かれている。
この場の喧噪から一歩引いた位置で、モニターだけをじっと眺めている。
どこかで見たことのある横顔だな、と思いつつ、すぐには思い出せなかった。
「スタート三千から!」
司会者の声が跳ねる。
モニターの端に、いくつかの匿名 ID が次々と入札額を上げていくのが表示される。
「四千入りました! さらに四千五百!
五千……五千五百、いいですねえ、青春相場上昇中!」
「……五千五百か。」
僕は、自分の口座残高と頭の中のローン残高を、同時に計算しようとする。
どちらも、あまり数字として見たくない種類のやつだ。
「記。」
ルカが小声で呼ぶ。
「あんた、今月の家賃、半分くらいまでしか辿り着いてないからね。」
「知ってる。」
「それでも押すなら、止めないけど。」
止めないのかよ、と突っ込みかけて、やめた。
この店で〈押すか押さないか〉は、結局いつも自分で決めるしかない。
「五千六百。」
自分の声が出るのが、半拍遅れて聞こえた気がした。
モニターに、僕の ID がはじかれるように表示される。
「おおっと、新規参戦! カウンター席から五千六百!」
司会者が、こちらを指さして場を煽る。
本当に指ささなくていいのに。
隅のスーツの男が、ちらりとこちらを見た。
その目は、じっとりではなく、静かに温度を測るような視線だった。
「六千。」
低い声が、会場のどこかから響いた。
モニターに表示された ID は、見慣れない英数字の羅列。
「出た、常連さんですねえ! 六千!」
「……あれ。」
ルカが小さくつぶやく。
「誰?」
「たぶん、あの人。」
視線の先には、さっきのスーツの男がいた。
彼は、特に表情を変えず、グラスをくるくる回しながらモニターを見ている。
「七千。」
自分の口が、また勝手に動いた。
ルカの指が、カウンターの下でグラスをきゅっと握りしめるのが見えた。
「やめときな。」
「……まだ、ギリギリ、分割払いで何とかなる。」
「何をどう分割するつもりか、今ここで一時間くらい講義してあげようか?」
「その講義も、たぶん分割でしか理解できない。」
自分で言っておいて、笑えなかった。
モニターの数字が、しばし停滞する。
スーツの男は、少しだけ目を細めてから、端末に視線を落とした。
「七千一百。」
「細かっ。」
「美術品のオークションだと、こういう上げ方する人、いるんだよね。」
ルカがぽつりと言う。
「美術品。」
「そう。あの人、たしか——」
彼女が何かを言いかけたところで、司会者の声が割り込んできた。
「七千一百、ほかにいませんか?
十代のきらきらした初恋、いまなら七千一百で——」
「……八千。」
ほとんど反射だった。
口と手が勝手に連動して、入札ボタンを押していた。
ルカのため息が、グラスの氷と一緒にカランと鳴る。
数秒の沈黙。
スーツの男は、端末から目を離し、モニターを静かに見上げていた。
「……。」
入札は、そこで止まった。
「はいっ、八千、ほかにいないようです!
『誰かの初恋の記憶』、カウンター席のお客様にて——落札!」
軽快な効果音が鳴り、会場のざわめきが一段落する。
代わりに、僕の胃のあたりで、別のざわつきが始まった。
「……うぇ。」
「ほら。だから言ったじゃん。」
ルカが、小さな紙コップに水を注いで差し出してくる。
デジャヴだ。
デジャヴだけど、金額はちゃんとインフレしている。
「さっきの人、最後まで戦う気なさそうだったけどね。」
ルカが、さりげなく視線をスーツの男に送る。
彼は、軽くグラスをこちらに向けて会釈した。
目が合った気がした瞬間、背筋に、別種の寒気が走る。
「あの人、誰?」
「……まあ、そのうち自分で名乗るでしょ。」
ルカは、いつになく歯切れの悪い言い方をした。
◇
オークションの裏の薄暗い廊下を歩くのも、もう何度目か分からない。
抽象画と静かな照明と、足音を吸い込むカーペット。
ここまでくると、ほとんど通院ルートだ。
診察室に入ると、白衣の女性医師がタブレットから目を上げた。
「本日は、『誰かの初恋の記憶』ロットですね。」
「はい。」
「他人の初恋は、何度目ですか?」
「初めてです。いろいろな意味で。」
思わず余計なことを言ってしまう。
医師は薄く笑った。
「では、その『いろいろ』のうち、医学的に危険そうなほうがあったら教えてくださいね。」
「危険そうなのは、だいたい財布の中身のほうです。」
「そこは、うちの管轄外ですね。」
事務的な優しさのこもったやりとりのあと、ヘッドセットが頭に固定される。
こめかみがひんやりと冷え、視界が暗くなる。
「対象の記憶は十代後半のものです。
多少の年齢ギャップがありますので、違和感が強い場合は、右手を二回振ってください。」
「違和感がデフォルトじゃないですか、それ。」
「違和感を楽しめるうちは、大丈夫ですよ。」
神経を逆なでしてくるタイプの励ましだ。
暗闇の向こうから、いつもの砂嵐のようなノイズが近づいてくる。
ラジオのチューニングが、少しずつ合っていく感覚。
そこに、色が混ざり始める。
——夕方の校舎。
昇降口の土埃と、上履きのゴムの匂い。
階段の踊り場に差し込む西日が、手すりの影を伸ばしている。
手には、色あせたプリント束。
裏には、何度も書いては消した文字の跡。
心臓が、変なリズムで鳴っている。
十代特有の、意味もなく全力で鼓動しているやつだ。
——誰かの背中。
制服のジャケット。
肩にかかった髪。
手すり越しに見える横顔は、焦点がぼやけている。
目の部分だけ、モザイクをかけたみたいに曖昧だ。
「……。」
何かを呼びかけようとしている。
名前だ。
舌の上に載っているのに、音にならない。
代わりに、別の単語が口から滑り落ちそうになる。
——白い天井。
——規則的な電子音。ときどき一拍だけ、妙に間が空く。
——「ログが残らないと——」
「違う。」
心の中で否定する。
今見ているのは、誰かの初恋だ。
病棟でも、実験でも、ない。
階段の踊り場。
プリント。
モザイクみたいな顔。
「……好き、です。」
誰かの声が、かすかに聞こえた。
それが、自分の声なのか、元の持ち主の声なのか、判別がつかない。
相手が振り向いた——はずなのに、その部分だけがすっぽり抜け落ちている。
代わりに、視界がぐにゃりと歪み、場面が切り替わる。
——駅のホーム。
湿ったコンクリート。
電光掲示板。
あの「最後の一日」と、よく似た空気。
ただ、今回は位置が違う。
向かい側のホームではなく、こちら側に立っている。
あのとき、遠くから見ていた「誰か」の立ち位置だ。
隣には、誰かがいる。
肩が触れそうな距離。
でも、その輪郭だけが、またモザイクみたいに滲んでいる。
電車が入ってくる音。
ブレーキのきしむ音。
ホームに流れるアナウンス。
「ログが——」
違う。
ここで「ログ」は出てこないはずだ。
なのに、その言葉だけが、シーンの隙間にねじ込まれている。
吐き気と、胸の奥の甘ったるさが、同時に込み上げてくる。
右手を振ろうとするが、自分の腕が自分のものではないみたいに重い。
十代の体と、今の体と、他人の体が、ごちゃごちゃに重なっている感覚。
電車がホームに滑り込む。
風が吹き抜ける。
隣の誰かが、何かを言った。
——その口元だけが、鮮明だった。
でも、言葉の内容は思い出せない。
甘いのか、苦いのか、しょっぱいのか。
味だけが胃のあたりに残って、意味はどこかにこぼれ落ちていく。
ノイズが、一気にボリュームを上げた。
世界が砂嵐に飲み込まれる。
◇
気がつくと、視界の端に、蛍光灯の白い光がにじんでいた。
「おはよう。今日もギリギリ現世。」
聞き慣れた声。
まぶたを上げると、休憩室の天井と、その横で椅子に座っているルカが見えた。
「……胃が、重い。」
最初に出た感想が、それだった。
「他人の初恋、一気飲みするから。」
ルカは、テーブルの上のビニール袋を指先でつつく。
「今日は、ギリギリ出番なかったよ。ギリギリね。」
「ギリギリばっか言うなよ。」
上体を起こそうとすると、頭と胃が同時に抗議してくる。
ルカが肩を支えながら、紙コップの水を差し出した。
「どう? 甘かった?」
「……胃もたれする甘さ。」
「でしょ。」
ルカは、まったく嬉しそうじゃない笑みを浮かべる。
「どんなだった?」
「階段の踊り場と、プリントと、モザイク顔と……。」
言葉にしていくうちに、さっきのシーンがじわじわ蘇る。
そのたびに、胸の奥がきゅっと縮む。
「で?」
「で、ホーム。」
「またホーム。」
「うん。
ただ、今度は向かい側じゃなくて、こっち側に立ってた。」
ルカの表情が、少しだけ曇る。
「隣に誰かいたんだけどさ。
そこだけ、変にぼやけてて。
顔も声も、うまく掴めない。」
「マスキングのせいじゃなくて?」
「たぶん、半分はそう。
でも、もう半分は……。」
言いながら、自分でもうまく説明できない感覚にぶつかる。
「『最後の一日』と、『途中の一夜』と、『初恋』がさ。」
「うん。」
「頭の中で、うまくフォルダ分けされてない感じ。」
ルカは、しばらく黙って僕の顔を見ていた。
グラスを握る指先に、ほんの少しだけ力が入っている。
「……記。」
珍しく、名前だけをゆっくり呼ぶ。
「『誰かの初恋』なのは、間違いない?」
「……たぶん。」
「その『誰か』が誰なのか、考え始めると、ろくなことにならないからね。」
「考えないほうがいい?」
「考えるなとは言わない。
ただ、あんたの場合、『考えだしたら売りに行く』モードになるのが、一番まずい。」
言っていることは分かる。
分かるけれど、頭の奥のむず痒さは、簡単には引かない。
ノートの新しいページに、「初恋(他人)」と書く未来の自分の姿が、ちらっと見えた気がした。
◇
休憩室からカウンターに戻ると、バーの客入りは、さっきより少し落ち着いていた。
甘口ロットの時間帯が終わり、渋めの人生が並び始めている。
スツールに座ると、隣に先客がいた。
さっき、オークションで僕と競り合ったスーツの男だ。
間近で見ると、年齢は四十代後半くらいだろうか。
髪にはうっすらと白いものが混じり、眼鏡の奥の目は、やけに静かだ。
「いやあ、見事でしたね。」
突然、丁寧な声が横から聞こえた。
「……え?」
「初恋ロット。
最後の一手でさらっていくところ、非常に芸術点が高かったですよ。」
「芸術点で入札してないんですけど。」
つい反射で返すと、男は小さく笑った。
「失礼。
私は、こういう場面をどうしても『作品』として見てしまうもので。」
ルカが、さりげない距離感でこちらにグラスを置く。
「御影さん、あんまり煽らないでね。
あんたがそういう言い方すると、本当に美術館か何かの話みたいに聞こえるから。」
「煽っているつもりはないのですが。」
男——御影と呼ばれたその人は、穏やかに首をかしげた。
「御影 圭一郎と申します。
こちらでは、少々古い客でして。」
丁寧に名乗られてしまったので、僕も曖昧な会釈を返す。
「忘井 記です。」
「ええ、存じています。」
即答された。
「……どこで?」
思わず聞き返すと、御影はグラスの縁を指でなぞりながら言った。
「ここでは、名前よりも、落札履歴のほうが先に人となりを教えてくれますから。」
「人となりが、どんどん薄くなっていってる気がするんですけど。」
「薄いキャンバスほど、上から何度でも塗り直せるという見方もできますよ。」
言葉は優しいが、内容はあまり安心できない。
「初恋ロット、気分はいかがですか。」
御影が、興味深そうにこちらを見る。
「……胃が、重いです。」
正直に答えると、彼は満足そうにうなずいた。
「それは何より。」
「何より?」
「初恋というのは、本来、消化に良いものではありません。
何十年経っても、ときどき胃に戻ってくるくらいで、ちょうどいい。」
「それを他人のを借りてやってるって、だいぶ悪趣味じゃないですか。」
「悪趣味と芸術の境界は、案外曖昧なものですよ。」
御影は、モニターにちらりと視線を向ける。
「あなたは今、『他人の初恋』を体験した。
しかし、その一部は、もうあなたの中で『自分の過去』として整理され始めている。」
図星だった。
階段の踊り場。
プリント。
モザイク顔。
ホーム。
それぞれの断片が、「どこかで一度は自分も経験した光景」みたいな顔をして、脳内に居座り始めている。
「記憶というのはですね。」
御影は、グラスを軽く揺らしながら続けた。
「額縁のない絵画みたいなものです。
どこからが作品で、どこからが壁なのか、はっきりしない。」
「はあ。」
「それを、こうしてカプセルに閉じ込めて売り買いすると、
『ここからここまでがロットです』と、雑に枠を描くことになります。」
「雑って言った。」
「最初から完璧な額縁があるわけではない、という意味ですよ。」
御影は、言葉尻をやわらかく修正してみせる。
「たとえば、今日あなたが落とした『初恋』。
本来、その一日は、他の無数の記憶と混ざりあって存在していたはずです。
その前の日の倦怠や、その後の日々の後悔と一緒に。」
「うん。」
「それを都合よく切り取って、『ほろ苦いところだけ』商品にした。
甘口ロットの常套手段ですね。」
「……それだけ聞くと、だいぶ安っぽいスイーツみたいだな。」
「問題は。」
御影は、少しだけ声のトーンを落とした。
「その切り取られた『初恋』の断片が、あなた自身のどこに貼り付くか、ということです。」
「どこに……?」
「自分の初恋の上に重ねるのか。
それとも、空白の場所に、最初からあったかのように嵌め込むのか。」
僕は、さっきルカに聞かれた質問を思い出す。
――あんた、自分の初恋、ちゃんと覚えてる?
空白。
白い天井。
途切れ途切れの電子音。
「ログが——」。
御影が、こちらの表情を観察するように目を細めた。
「失礼。
少し話が饒舌すぎましたね。」
「いえ。
たぶん、僕のほうが饒舌になりかけてたので。」
「それは良い兆候です。」
御影は、グラスを置いた。
「人は、自分でも所有権があいまいな記憶ほど、よく語りたがるものですから。」
「所有権、ね。」
「ええ。
あなたが今脳内で抱えている『初恋』は、もともと誰のものだったのか。
それを決める権利は、誰にあるのか。」
「出品者、とかじゃなくて?」
「出品者は、作品を手放した人です。
作者とは限らない。」
言い回しが、だんだん美術館の音声ガイドみたいになってきた。
「じゃあ、今のあれは、僕の初恋って名乗っていいんですか。」
少しだけ意地悪な気持ちで聞いてみる。
御影は、ほんのわずかに口元を緩めた。
「名乗ることは自由です。
ただ、そのたびに、元の持ち主のどこかの胃が、少しだけ重くなるかもしれませんね。」
「元の持ち主が、今も覚えてるとは限らないでしょう。」
「覚えていなくても、痕跡は残りますよ。」
彼の視線が、一瞬だけ僕のこめかみあたりに向いた。
ヘッドセットが載っていた場所だ。
「あなたのそれも、そうですが。」
「僕の、それ?」
聞き返しかけたとき、ルカがわざとらしく咳払いをした。
「御影さん。」
「はい。」
「うちの常連の胃と頭を同時にいじめるの、ほどほどにしといてね。」
「いじめているつもりはないのですが。」
御影は素直にグラスを引き、立ち上がった。
「今日は、挨拶代わりということで。
——記さん。」
僕の名前を、ゆっくりと区切って呼ぶ。
「あなたのコレクションは、なかなか興味深い。
また、経過を教えてください。」
「経過報告する義務、ありましたっけ。」
「義務ではありません。
好奇心という名の、緩い契約です。」
よく分からない言い残し方をして、彼は会場の奥へと消えていった。
ルカが、大きく息を吐く。
「……あの人の比喩、体に悪いんだよね、だいたい。」
「さっき、名前出しかけてたよね。」
「出しかけて、やめた。」
「なんで?」
「今、説明すると、『説明しすぎ』になるから。」
ルカは、カウンターの布巾で、何もこぼれていない場所をわざと丁寧に拭きながら言った。
「とりあえず今日はさ。」
「うん。」
「家に帰ったら、ノートに『他人の初恋は胃もたれがする』って書いときな。」
「メモのセンス、僕と同レベルじゃない?」
「未来のあんたが見たときに、少しでも笑えば、それでいいの。」
少しでも笑える未来が、どこかに残っているなら。
それは、それなりに贅沢な願いかもしれない。
◇
部屋に戻って、ノートを開く。
前のページには、「ホームの夢」「送別会(?)」「穴:スプーン」と、過去の自分の暗号が並んでいる。
新しいページの上に、ペンを置いた。
初恋(他人)
胃もたれ
しばらく迷ってから、もう一行、書き足す。
穴:名前
ペン先が紙をひっかく音が、やけに大きく聞こえた。
名前が、出てこない。
僕自身の初恋の相手の名前も。
今日インストールした「誰かの初恋」の相手の名前も。
両方まとめて、「穴」のラベルで処理している自分に気づいて、少しだけ笑う。
「……つまり僕は、他人の初恋の後始末まで、分割払いでやろうとしてるわけか。」
声に出してみると、どこかで誰かが同じことを言ったような気がした。
白い天井。
遠くでくぐもって鳴る電子音。
ホームの風。
紙コップが触れ合う音。
全部が、ほんの少しずれて重なっている。
どれが誰の記憶で、どれが自分の過去なのか。
今日の僕には、やっぱり完全には区別がつかなかった。




