第2話 僕は僕を分割払いにする
現金がなくなると、人はだいたい二回は同じ失敗を繰り返す。
一回目は「気づかないふり」で、二回目は「もう遅いふり」だ。
僕はいま、その二回目の途中にいた。
スマホの画面には、督促メールの件名が縦に並んでいる。
「【再送】お支払いの確認」
「【重要】お取引のご案内」
そして、とどめに「【ご相談】今後のお支払いについて」。
「相談って言い方、やさしいよな。」
独り言をこぼしながら、僕はコンビニのATM前で残高照会のボタンを押す。
表示された数字は、ゼロではない。
けれど、ほぼゼロみたいなもので、そこに「五千円」の影がくっきりと貼りついていた。
先週、ある人物の最期の二十四時間に、僕はその金額を支払っている。
地下のバーで、ろくに考えもせずに入札ボタンを押した結果だ。
「つまり僕は、誰かの死に立ち会うために、今月の生存コストを削ったわけだ。」
冷静に言えば言うほど、バカみたいだ。
家賃の引き落とし日が近づいている。
督促メールの「ご相談」は、その前哨戦だ。
日雇いのシフトは、空白ばかり。
「……分割払いにできればいいんだけどな。」
思わず出た本音に、自分で苦笑する。
何をどう分割するのか。
お金がないなら、売るものを増やすか、細かくするしかない。
そして、僕の場合の「売るもの」は、だいたい決まっている。
脳みその中身。
◇
駅ビルのエスカレーターの前に立つ。
上りと下りが並んでいて、前回は下りに乗って地下二階まで降りた。
今日は、少しだけ迷った。
「……上りに乗ればいいだけなんだけどな。」
前にもそう思って、結局下りを選んだ記憶がある。
その記憶の中の僕は、「REM BAR」だか「RE:MEM」だかのネオンサインをくぐり、五千円で誰かの最後の一日を買った。
結果、ホームの映像と頭痛と吐き気をお持ち帰りしたわけだ。
「リトライ。」
つぶやいて、僕は下りのほうに足を乗せる。
学習能力はあまりない。
ただ、今日は目的が違う。
光から影へ。
地上から地下へ。
まっとうな人生から、その残骸を競り落とす階層へ。
そういう図式を、また勝手に頭の中で再生しながら、冷房の効いた地下二階に運ばれていく。
非常口の脇を抜けると、ネオンサインが見えた。
店名は、やっぱりうまく読めない。
僕の脳の視力の問題か、ネオンの気分の問題か。
扉を開けると、アルコールと電子機器の匂いがまじった空気が飛び込んできた。
壁一面のモニターには、今日も「誰かの人生の一部」が字幕付きで流れている。
「いらっしゃい、記。」
カウンターの奥から、いつもの声。
鹿目ルカ。
この店のバーテンダーであり、記憶オークションのブローカーであり、僕の脳みそ管理人を自称する女の人。
「まだ生きてたんだ。
先週の顔色だと、そのまま『最後の一日』ロットの続きに行きそうだったけど。」
「ギリギリ現世にしがみついてるよ。生存確認ありがと。」
スツールに腰を下ろすと、ルカは氷をステアしていた手を止めずに、視線だけこっちに寄越した。
「で? 今日はどっちコース?
また安物の他人の人生を買って現実逃避?
それとも、いよいよ自分の人生を質屋に入れに来た?」
「二択が相変わらずひどいな。」
「現状分析ってやつ。」
彼女の言う「現状」は、だいたい当たっているから困る。
「……今日は、売りに来た。」
そう口に出した瞬間、グラスの中の氷が、からん、とちいさく鳴った。
ルカの手つきは崩れない。
けれど、指先の力がわずかに強くなって、爪の先が白くなっている。
「ほう。」
短い相づち。
それだけで、店の空気が半トーン暗くなる。
「あんたさ。」
「ん。」
「先週、何買ったか覚えてる?」
「『ある人物の最後の一日』。スタート価格五千、競争相手ゼロ、落札者バカ一名。」
自虐混じりに答えると、ルカはため息をひとつ、氷と一緒に混ぜた。
「中身のほう。」
「……ホーム。」
言葉にした途端、あの映像が喉の奥までせり上がってくる。
濡れたコンクリート、電光掲示板、見覚えのある地名。
向かいのホームに立っている誰か。
その先に進もうとすると、いつも頭の奥で電流が走る。
「そこまでにしときな。」
ルカが、グラスの水面を指で軽く弾いた。
揺れた水面が、ホームの光と一瞬だけ重なって、またほどける。
「他人の『最後の一日』抱えたまま、自分の記憶削るとかさ。
二種類の自傷行為を同時にやろうとしてるみたいなもんだよ。」
「褒めてる?」
「けなしてる。」
はっきり言われた。
◇
「で、何を売るつもり?」
水を一口飲んだタイミングで聞かれて、僕は少しだけむせた。
「まだ……決めてない。」
「今日のあんたの残高じゃ、適当に選んで出すほど余裕ないよ。」
ルカは、カウンターの下からタブレット端末を引き出す。
画面には、常連客の「記憶残高」とロット履歴が簡易的に表示されるシステムがある。
僕の名前の横には、笑えないグラフが並んでいた。
「ほら。」
棒グラフのいくつかは、すでに色が抜けている。
そこには、「甘口ロット:学生時代の一夜」「苦口ロット:失敗した面接の記憶」など、過去に売った記憶のタイトルが並んでいた。
「そこで指さして笑うの、やめてくれない?」
「笑ってないよ。苦笑い。」
「一緒だよ。」
ルカは、画面をスワイプしてから僕を見た。
「ルール、復習しとく?」
「ルール?」
「『売っちゃいけない記憶』の基準。」
ルカには、独自の線引きがある。
この店の規約というより、彼女自身のポリシーとして。
「まず、一番分かりやすいやつ。」
指を折りながら、彼女は言う。
「家族の顔がちゃんと写ってるやつは、原則アウト。」
「原則、って言うなよ。」
「次。『最初の〜』と『最後の〜』がタイトルにつきそうなやつ。
初恋、最初のキス、最後の別れ、最終面接。これも基本アウト。」
「世の中の記憶の半分くらい死んでない?」
「だからこそ、生かしとくんでしょ。」
三本目の指が立つ。
「あと、『謝りに行けない相手』が出てくる記憶。」
その言葉だけで、胸のどこかがちくりとした。
白い廊下。
モニター音。
「ログが——」
頭の奥で、封印されている何かが軋む。
「今の顔。」
ルカがじっと僕を見る。
「そのカテゴリーは、もう売ってるでしょ、あんた。」
「……さあ。」
惚けてみせると、ルカはあえてそれ以上突っ込んでこなかった。
代わりに、ストローの包み紙をくるくる丸めて、灰皿に放り込む。
「今日はさ。」
彼女は少しだけ声のトーンを落とした。
「『それなりに大事だけど、なくても死にはしない』くらいのラインで選びな。
でもね。」
「うん。」
「そういうのが一番、高くつくんだよ。」
◇
候補は、いくつか頭に浮かんだ。
たとえば、大学院時代の研究発表の日。
小さな会議室で、スライドをめくりながら、汗をかきつつ話した記憶。
終わったあと、知らない教授に「面白い発想ですね」と言われて、内心浮かれていた夜。
あるいは、昔の同僚と飲みに行った居酒屋。
安い焼き鳥と薄いハイボールと、まだ崩壊していない未来の話。
それから、誰かの送別会。
紙コップの乾杯、使い捨ての紙皿、テーブルの上のコンビニケータリング。
古いジャケットの背中を、窓越しの夜景が縁取っていた気がする。
「……その顔は、だいたい一個に絞れてないやつだね。」
「バレる?」
「バレる。」
ルカはグラスを拭きながら、僕の表情をチェックする。
「どれにしても、『仕事してた自分』周りだね。」
「まあ、そのくらいしか売り物になる思い出がないとも言う。」
「仕事関係は、結構リスク高いよ。
履歴書書くとき、『あれ? 俺ここ何やってたんだっけ』ってなるから。」
「今さら履歴書書く予定、そんなにないし。」
言った瞬間、自分で少しだけ傷ついた。
「……じゃあ。」
僕は、さっき頭に浮かんだ光景の中から、一番輪郭のぼやけているものを選んだ。
会議室。
紙コップ。
古いジャケット。
それが何の会だったのか、自分でもうまく言葉にできない。
「そういう、『説明できないけど色だけ覚えてる夜』が一番危ないんだけど。」
ルカはそう言いながら、それ以上止めなかった。
「タイトル、こっちで考えとく。
カテゴリは……苦口寄り甘口かな。」
タブレットに何かを打ち込みながら、彼女は淡々と進めていく。
「価格帯は?」
「これだけ削るなら、借金の利息二ヶ月分くらいはカバーできるでしょ。」
「分かりやすい単位だな。」
「残念ながら、脳みその価値も市中金利に連動してんの。」
◇
オークション会場の奥、診察室への廊下は相変わらず静かだった。
薄暗い照明と、足音を吸収するカーペット。
壁には、意味の分からない抽象画。
これから削られる記憶たちの墓石かもしれない。
案内スタッフに連れられて部屋に入ると、先週と同じような機械が待っていた。
リクライニングチェアと、頭を固定するフレーム。
手元の端末に、今日のロット情報が映っている。
タイトル:
「ある夜の送別会(仮)」
仮、という単語が、やけに薄情に見えた。
「では、今日は『自己記憶の部分抽出』ですね。」
白衣の女性医師が、タブレットを見ながら確認する。
声は落ち着いていて、事務的な優しさがある。
「一応確認ですが、この記憶が、現在のお仕事や生活に直接必要だと感じますか?」
「現状、特に仕事はしてないので。」
「そうでしたね。」
あっさりだった。
「ただ、抽出後に、『つじつま合わせのための再構成』が脳内で起こる可能性があります。
送別会に行ったこと自体を忘れるわけではなく、『ああ、そんな会もあった気がする』程度に薄まるかもしれません。」
「それ、ほとんど忘れてるって言いません?」
「言いません。法的には。」
医師の微笑みは、ルカの皮肉と同じ種類のものだった。
「では、鎮静を入れていきます。
売りたい場面を、なるべくはっきり思い浮かべてください。」
ヘッドセットが頭に固定される。
こめかみのあたりに、ひんやりした金属の感触。
目を閉じる。
暗闇の向こうに、さっき選んだ夜を探す。
——狭い会議室。
長机に並んだ紙皿。
冷めた唐揚げとポテト。
紙コップに注がれた、安いスパークリングワイン。
誰かが笑っている。
誰かが泣いている。
古いジャケットの背中。
その背中に、何か伝えようとして、結局言葉が見つからなかった自分。
「……。」
胸の奥がざわつく。
そのざわつきを、機械が拾っているのが分かる。
ざらざらしたノイズが、頭の中をなぞっていく。
——白い天井。
規則的な電子音。
違う映像が割り込んできた。
「ログが残らないと——」
かすれた声。
どこかで聞いたことのある、けれど思い出したくない声。
「そこじゃない。」
自分で自分に言い聞かせる。
「今日は、その夜だけ抜いてもらうんだ。」
送別会。
紙コップ。
未練と安堵が入り混じった空気。
白い天井は、そこにはない。
——ノイズが、少しだけ弱まる。
時間の感覚が、またあいまいになっていく。
抜かれているのか、自分から手放しているのか、区別がつかない。
最後に浮かんだのは、紙コップ越しに見た誰かの口元だった。
何かを言っていた。
たぶん、大事なことを。
言葉は、もう聞こえない。
◇
気がつくと、視界が暗い布で切り取られていた。
「……おはようさん。」
布の向こうから、聞き慣れた声。
「今日はちゃんと起きたね。先週よりマシ。」
「先週の基準、低すぎない?」
まぶたを開けると、休憩室の天井が見えた。
白い天井。
さっき頭の中に浮かんだ白い天井と、ゆっくり照合する。
医療機器の電子音は、鳴っていない。
「ここ、どこだっけ。」
口をついて出た言葉に、自分で少し驚く。
「休憩室。抽出終わったあと、しばらく寝てた。」
ルカが椅子に座り、腕を組んで僕を見下ろしていた。
足元には、例のビニール袋。
今日は出番がなかったらしい。
「どう? 軽くなった?」
「頭?」
「残高。」
彼女がタブレットをひらひら振る。
「そっちは重くなってるだろ。」
「借金への道のりとしては、ちょっとだけ戻った感じ。」
上体を起こすと、頭がふわりと軽い。
さっきまであったはずの何かが、薄くなっている。
「……あの夜のこと、どこまで覚えてる?」
ルカが、少しだけ間を置いてから聞いた。
「あの夜?」
「送別会のやつ。」
僕はしばらく天井を見つめる。
「会議室で、紙コップで乾杯して……誰かが泣いてて……。」
そこまでは出てくる。
「誰が泣いてたかは?」
「……。」
口を開きかけて、空白がそこにあることに気づく。
顔が、浮かばない。
声も、浮かばない。
ただ、「泣いている誰か」がいたという、形だけの輪郭だけが残っている。
「……まあ。」
僕は無理やり笑ってみせる。
「つまり僕は、自分の思い出のエキストラだけを残して、主役を削ったわけだ。」
「うまいこと言ったつもり?」
「半分くらい。」
ルカの表情は、あまり笑っていない。
「その主役、誰だったか思い出そうとすると?」
「頭の奥が、ちょっとむず痒くなる。」
さっきまでの、電流みたいな痛みではない。
代わりに、触れたらくすぐったいような、気持ち悪いような感覚。
「それが、『穴』。」
ルカはさらっと言う。
「空いてるって自覚できるうちは、まだいいんだけどね。」
「そのうち、なんも感じなくなる?」
「感じなくなったときには、たぶん私があんたをここまで連れて来られなくなる。」
さらっと言うには、だいぶ重い話題だった。
◇
借金の一部を振り込んだ帰り道、僕は商店街を歩いていた。
スマホの残高表示は、さっきよりはマシになっている。
ただ、その数字を見るたびに、さっき削った夜の紙コップがちらついた。
「分割払い、完了。」
小さくつぶやく。
人生のある夜を、一括で払い戻して、借金は少しだけ減った。
でも、たぶん利息のほうが早い。
コンビニの前を通りかかると、ふと、懐かしさのようなものが胸をかすめた。
このコンビニに、誰かと来たことがある気がする。
夜遅くに、くだらないお菓子を買って、会議室に戻って——
そこで、思考がつるりと滑った。
「……ん?」
なんとなく店内に入り、棚を一周してみる。
ポテトチップス、カップ麺、紙皿、紙コップ。
どれも見覚えがある。
けれど、それは「コンビニに来たことがある人間」としての一般的な既視感なのか、
それとも、何か具体的な夜の断片なのか、判別できない。
レジ前で立ち止まり、財布を出す。
「いらっしゃいませ。」
店員の声。
「……あの、スプーンってどこにあります?」
気づけば、口が勝手にそう聞いていた。
「スプーンですか? そこの横の……」
指さされた先には、プラスチックのスプーンとフォークと割り箸。
僕は、なんでスプーンを探していたんだろう。
買い物かごには、何も入っていない。
「すみません、やっぱいいです。」
会釈して店を出る。
外の空気が、さっきより少し重く感じた。
「……スプーン、使ったっけ。」
送別会の夜。
紙皿、紙コップ。
何かをよそっていた記憶が、ぼんやりと浮かんでは消える。
そのとき、耳の奥で、電車のブレーキ音みたいなものが鳴った。
ホームの映像が、一瞬だけフラッシュバックする。
湿ったコンクリート。
電光掲示板。
見えない誰か。
借りた「最後の一日」と、売った「途中の一夜」が、頭の中で少しだけ交差したような気がした。
「……やめろ。」
誰にともなく、小さく言う。
記憶を売って、その金で借りた記憶の副作用をやり過ごそうとしている。
そんな構図が、だんだん自分でも分かってきた。
「つまり僕は、頭の中のローンを、頭の中の分割払いで返そうとしてるわけか。」
そのローンの元本が何なのか、僕はまだちゃんと直視していない。
◇
その夜、部屋でひとり、ノートを開いた。
たまに思い出したように、僕は古い癖で日付と一言メモを書きつける。
三日前には、「ホームの夢」とだけ書いてあった。
今日は、その下にペンを走らせる。
「送別会(?)」
「?」をつけた時点で、もうそれは僕の中で完全な過去ではない。
ページの隅に、さらに小さく書き足す。
「穴:スプーン」
自分で読んでも意味が分からないメモだ。
でも、きっと未来の僕が見たときには、何かのフラグとして機能するかもしれない。
ページを閉じる。
部屋の静けさの中で、ふと、自分の口癖が減っていることに気づいた。
今日は、「つまり僕は」を、いつもよりあまり使っていない。
まとめようとすると、抜け落ちたところに触れてしまうからかもしれない。
「……高くつく、か。」
ルカの言葉を思い出す。
五千円で買った誰かの最期。
利息二ヶ月分と引き換えに失った、自分の途中の一夜。
どちらが高かったのか。
どちらが安かったのか。
計算するための数字が、そもそも足りていない。
僕は電気を消し、暗闇の中で目を閉じた。
ホームの音と、紙コップが触れ合う音が、遠くで微妙にずれて鳴っている。
それが、誰の記憶のどの部分なのか。
今の僕には、もう完全には区別がつかない。
ただひとつ分かっているのは、たぶんこれからも、僕はこうして少しずつ自分を分割払いにしていくのだろう、ということだけだった。




