第二話:路地裏の『天使』と『悪魔』
【次元の狭間】
ステラは堕ちていた。
清らかなヘブンの光も、忌み嫌う天使たちの声も、もう届かない。
そこは、色も音も、上も下も存在しない、完全な「虚無」だった。ただ、儀式によって与えられた「堕天」の指向性だけが、彼女の身体を凄まじい速度で「下」へと引きずり込んでいく。
(……チッ。これが堕天か。思ったより、あっけねえな)
全身を締め付ける圧迫感に顔を歪めながらも、ステラの口元には笑みが浮かんでいた。
解放感。
息苦しい「善」からの、完全な逃亡。
(待ってろよ、地上……。悪い奴らがいっぱいいるっていう、あたしの居場所……)
彼女が目指すのは、「地上にいる悪い奴ら」と合流すること。その一点だった。
どれくらい堕ちたか、時間感覚も麻痺し始めた、その時。
「……あ?」
虚無の暗闇。その「下」の方角から、針の穴ほどの、小さな光が昇ってくるのが見えた。
それは、ヘブンの神聖な光とは明らかに違う、どこか温かみのある、清らかな青い光だった。
(……なんだ、ありゃ? 堕天の邪魔か?)
ステラは、迫りくる光に眉をひそめた。
---
アスエルは昇っていた。
混沌としたヘルのマグマも、嘲る悪魔たちの声も、もう聞こえない。
そこは、ステラが感じたのと同じ「虚無」。ただ、儀式によって与えられた「昇天」の指向性だけが、彼女の身体を優しい浮遊感で「上」へと導いていく。
(……まぁ。これが昇天ですの。思っていたより、静かですわね)
全身を包む無重力感に、アスエルは安堵のため息をついた。
安らぎ。
息苦しい「悪」からの、完全な離脱。
(待っていてください、地上……。良い方々がたくさんいるという、私の憧れの場所……)
彼女が目指すのは、「地上にいる良い人」と出会うこと。その一点だった。
どれくらい昇ったか、感覚が曖昧になり始めた、その時。
「……あら?」
虚無の暗闇。その「上」の方角から、インクを垂らしたような、小さな影が堕ちてくるのが見えた。
それは、ヘルの混沌とした影とは明らかに違う、どこか荒々しさを秘めた、濁った灰色の影だった。
(……なんですの、あれ? 昇天の妨害かしら?)
アスエルは、迫りくる影に、わずかに首を傾げた。
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お互いが目指す「地上」という中間地点に向かい、堕ちるステラと、昇るアスエル。
二つの対極的なエネルギーは、この何もない虚無空間で、一直線に引き合っていた。
「チッ!」
「まぁ!」
気づいた時には、遅かった。
回避する間も、身構える暇もない。
ドンッ!!
虚無の中で、音が鳴った。
堕天の灰色の光と、昇天の青い光が正面から激突する。
「「がっ……!?」」
天使の「創造」の力と、悪魔の「破壊」の力。
正反対の属性を持つ二人がぶつかった瞬間、凄まじいエネルギーの反発が起こった。
それは、混ざり合うことのない、ただただ強烈な「拒絶」の衝撃波。
二人の身体を包んでいたそれぞれの儀式の光が、衝突のショックで弾け飛ぶ。
堕天の軌道も、昇天の軌道も、ここで完全に破壊された。
「う、あ……っ!」
「きゃ、ああ……っ!」
進むべき道筋を失った二つの「異物」を、次元の狭間が放置するはずがない。
虚無の空間が、まるで傷口を塞ぐかのように急速に収縮し、二人を「外」へと押し出そうと圧力をかけてくる。
(な、なんだこれ……っ! 弾き出される……!?)
(あ、あそこ……!空間が、裂けて……!?)
二人が衝突した一点。
そこだけが、まるでガラスが割れるように、バキバキと音を立てて裂けていく。
裂け目の向こう側から、ヘブンにもヘルにも存在しない、五色雑多な、やかましいほどの「生」の光と音が溢れ出してきた。
いい奴も、悪い奴も、ごちゃ混ぜに存在する世界。
『現世』
「「―――っ!!」」
抵抗する術もなく、ステラとアスエルは、その空間の裂け目へと、二つのボールがまとめて弾き出されるように、猛烈な勢いで吸い込まれていった。
---
【現世・日本・とある路地裏】
ガシャーンッ!!
「いッ……てェ……!!」
「……あら……?」
けたたましい金属音と共に、二つの影がゴミ袋の山へと突っ込んだ。
ステラは、背中からゴミの山に叩きつけられ、衝撃に顔をしかめる。
アスエルは、幸か不幸か、ステラの上に着地する形となり、きょとんとした顔でゆっくりと目を開けた。
「…………」
「…………」
視線が、交錯する。
燃えるような赤髪の、鋭いツリ目の少女。
陽光のような金髪の、柔和なタレ目の少女。
「……んだ、テメェ……」
先に口を開いたのは、下敷きにされたステラだった。
「……そちらこそ、どちら様、ですの?」
アスエルは、目の前の少女から放たれる、自分とは明らかに異なる「匂い」に、わずかに眉をひそめた。
西日に照らされた薄暗い路地裏。
積み上げられたゴミ袋の山の上で、二人の少女は互いを見つめ合っていた。
下敷きになったステラは、全身に走る鈍い痛みと、鼻をつく生ゴミの悪臭に顔を歪める。
上に乗ったアスエルは、状況が掴めないまま、優雅に(しかしステラの腹の上から)半身を起こした。
「いッ……!てめ、重いんだよ!どけ!」
「あら、ごめんなさい。でも、下にいらっしゃる貴方が動けばよいのでは?」
「あァ!?」
ステラが怒鳴りながら身を起こそうとした、その瞬間。
二人は、同時に「違和感」に気づいた。
(……翼が、ねえ?)
ステラは、自分の背中を無意識に探った。
堕天の儀式で拒絶されたせいか、あるいは衝突のせいか、天使の象徴であったはずの翼が、その痕跡すらも消え失せている。
同時に、目の前の少女を見る。
(……角も、尻尾もありませんわね)
アスエルもまた、自分の身体に魔族特有の部位が失われていることに気づき、そして目の前の少女を見つめた。
堕天と昇天。
故郷の属性を捨て去る儀式は、皮肉にも、お互いを「人間」の少女と何ら変わらない姿に変えていた。
だが。
「…………」
「…………」
身体的特徴が失われても、その「本質」までは消せなかった。
ステラの鼻腔を、生ゴミの悪臭を突き破る、強烈な「匂い」が貫く。
それは、ヘブンの清らかな「徳」の香りとは全く違う。万物を分解し、混沌へと誘う、底知れない「破壊」の匂い。
(……こいつ……!)
同時に、アスエルの五感も、目の前の少女から放たれる「空気」を捉えていた。
それは、ヘルの混沌とした「核」の気配とは似ても似つかない。眩いほどの「秩序」と、無から有を生み出さんとする、強烈な「創造」の気配。
(……この方……!)
「……テメェ」
ステラのツリ目が、獲物を捉えた獣のように細められる。
「悪魔、だな?」
「……あら」
アスエルのタレ目が、優雅な弧を描く。
「天使さん、ですわね?」
刹那。
路地裏の空気が、ゴミ袋の悪臭ごと凍りついた。
「「…………」」
ヘブン側:「そんな悪い奴は地獄にしかいないね」
ヘル側:「そんな良い奴は天国にしかいないね」
故郷で叩き込まれた、絶対的な価値観。
お互いは、忌み嫌うべき、対極の存在。
「……何の用だ、悪魔」
ステラは、アスエルを睨みつけたまま、ゆっくりとゴミ袋の山から立ち上がった。その右手に、近くに転がっていた空き缶が吸い寄せられるように集まり、眩い「創造」の光を帯び始める。
「あたしの邪魔しに来たってんなら……」
「……邪魔?」
アスエルもまた、音もなく立ち上がる。その左手は、ステラの足元のコンクリートへと静かに向けられた。
「ふふっ。何の勘違いをされているのかしら、天使さん。……もしかして、私を『追って』、こんな場所まで?」
アスエルの指先が、コンクリートの表面に触れるか触れないかの位置で、静止する。
彼女が「破壊」を命じれば、ステラの足場は次の瞬間、ミクロの塵と化すだろう。
一触即発。
だが、先にその緊張を破ったのは、ステラのぶっきらぼうな一言だった。
「ハッ、追うだァ? 自意識過剰なんだよ、カス」
「……カス?」
「あたしはな、『堕天』してきたんだよ。テメェらの仲間にでもなりに行こうと思ってたところだ」
「…………え?」
アスエルのタレ目が見開かれた。
「『堕天』……? ヘブンを……捨てた、と?」
「そうだ。……テメェこそ、何の用だ。まさか、ヘブンの連中みてえに、お説教でもしに来たのか? それとも、わざわざ地上まで『破壊』しに来たか?」
「……いいえ」
アスエルは、ステラの足元に向けた左手を、ゆっくりと下ろした。
そして、この世界に来て初めて、心の底から微笑んだ。
「私も、貴方と同じですわ」
「……あ?」
「私は『昇天』してまいりましたの。あの息苦しい場所から……逃げて」
「…………は?」
今度は、ステラが目を点にする番だった。
「創造」の光を帯びていた右手の空き缶が、カラン、と力なく地面に落ちる。
「……『昇天』?」
「ええ」
「……あのクソみてえなヘルから?」
「はい。……随分と、故郷に詳しいようですわね?」
「…………」
「…………」
路地裏に、再び沈黙が落ちた。
だが、先ほどまでの殺意に満ちたものではない。
気まずく、拍子抜けした、何とも言えない沈黙。
「……チッ」
ステラは、ガシガシと乱暴に赤髪をかきむしった。
「……なんだよ、それ……」
「と、いますと?」
「あたしは! 『悪い奴』とつるみたくて、わざわざ堕天してきたんだぞ!」
「私は! 『良い人』と出会いたくて、わざわざ昇天してきたんですのよ!」
「よりにもよって、地上に着いた途端に出会ったのが、忌み嫌うべき『悪魔(天使)』とか、どういう冗談だよ!」
「本当に、魔王様も、意地が悪いとしか思えませんわ……!」
二人は、顔を見合わせた。
そして、同時に、ふう、と深いため息をついた。
「……ったく、調子狂うぜ。最悪の場所で、最悪の相手に会ったと思ったら……まさか、同類かよ」
ステラは、一番マシそうなゴミ袋に、ドカッと腰を下ろした。もう、どうでもよくなっていた。
「『同類』……。ふふっ、確かに。言葉は悪いですけれど、私達、『家出』してきた、ということですものね」
アスエルも、ステラから少し距離を置いた、比較的キレイなブロック塀に、そっと腰掛けた。
「……いいか、悪魔」
ステラは、西日を睨みながら言った。
「あたしは地上でやりてえことがあんだ。テメェに構ってる暇はねえし、故郷にチクる気もねえ」
「あら。それはこちらの台詞ですわ、天使さん」
アスエルも、ビルの隙間から見える空を見上げた。
「私にも、地上で果たしたい目的がございますの。貴方と争うのは、時間の無駄というものですわ」
「……じゃあ、決まりだな」
ステラは立ち上がり、パンパンと服……とは言えないボロ布に近い儀式用の衣装についた埃を払った。
「一時休戦だ。あたしはテメェに手を出さねえ。テメェもあたしに手出しすんな」
「ええ。望むところですわ」
アスエルも、優雅に立ち上がる。
こうして、天使と悪魔の、歴史上最も不本意で、最も奇妙な「停戦協定」が、西日差す路地裏のゴミ捨て場で、ひっそりと結ばれたのだった。
一時休戦、とは言ったものの。
二人の間に流れるのは、気まずい沈黙だけだった。
ビルの隙間から差し込んでいた西日は、すでにその色を濃い紫紺に変え始めている。路地裏の悪臭に、どこかの飲食店から漂ってくる、胃を刺激する(しかし二人にとっては未知の)香ばしい匂いが混ざり始めた。
ぐうぅぅ…………
静寂を破ったのは、情けない腹の音。
音の発生源は、ステラだった。
「…………ッ」
ステラは、自分の腹を睨みつけながら、顔を真っ赤にする。
「な、なんだよ! 文句あんのか!?」
「いえ、別に何も」
アスエルは、口元を袖で隠しながら、くすくすと笑った。
「ヘブンでは『徳』がエネルギー源だと伺っておりましたが、地上ではそうもいきませんようですわね」
「……うるせえ。テメェだって、そのうち腹減んだろ」
「ふふっ。私は『核』が源でしたから。でも、確かに、この身体……地上に適応したのか、何か『エネルギー』を欲している感覚はありますわ」
「……チッ」
ステラは、忌々しげに立ち上がった。現実問題として、このまま路地裏で夜を迎えるわけにはいかない。
「……おい、悪魔」
「アスエル、と申します」
「……アスエル。テメェ、地上のこと、どれくらい知ってんだ?」
「あら。奇遇ですわね、天使さん。私も今、同じことを伺おうと思っておりましたの」
「ステラだ。……まあいい。あたしはヘブンの書庫で、地上のことは一通り学んできた。ここでの『常識』は理解してるつもりだ」
「まぁ! 私もヘルの禁書で、地上での『生活』については完璧に予習してまいりましたわ」
お互い、フン、と鼻を鳴らす。
自分の方が「地上」に詳しい。そんな、家出少年少女特有の、根拠のないプライドが二人を包んだ。
「じゃあ話が早えな」
ステラは、腕を組んで言った。
「まず、この世界で生きていくには『カネ』と『住居』がいる。違うか?」
「ええ、その通りですわ。まずは安全に暮らせる『寝床』を確保するのが最優先事項。そして、そのためには『通貨』が必要不可欠」
「ハッ、わかってんじゃねえか」
完璧な意思疎通。
お互いの知識に間違いがないことを確認し、二人は(わずかに)安堵した。
「……で、だ」
ステラは、少し言い淀んだように視線をそらすと、咳払いをした。
「……その『住居』なんだが……。まあ、家出してきたばっかだしな。……当面は、『同棲』で手を打つしかねえだろ」
「…………同棲?」
アスエルのタレ目が、ぱちくりと瞬いた。
「あら? 『どうせい』、とは?」
「あァ!? テメェ、そんなことも知らねえのかよ!」
ステラは、待ってましたとばかりに、アスエルを指差した。
「だから言っただろ! あたしは完璧に予習してきてんだ! いいか? よく聞けよ?」
彼女は、人差し指を立て、得意げに「地上の常識」を語り始めた。
「地上ではな! 『地上にいない種族』……つまり、あたしらみたいな天使とか悪魔とかはな! 『同棲することが多い』んだよ! これは常識だ!」
「…………まぁっ!」
アスエルの顔が、一気に輝いた。
彼女は、感動したかのように両手を胸の前で握りしめる。
「ご存知でしたの!? ステラ! 私も、私もそれ、禁書で読みましたわ!」
「お、おう。……だろ?」
「ええ! 『宇宙人』だとか、『異世界人』だとか、そういう『地上にいない種族』は、互いの正体を隠し、助け合うために、まず『同棲』から始めるのが『地上のルール』なのだと!」
致命的に間違った知識が、奇跡的なレベルで合致した瞬間だった。
二人は、自分たちの「家出」が、地上のルールに完璧に則っていることを確信し、強く頷き合った。
「……ケッ。まあ、そういうこった」
ステラは、照れ隠しのようにそっぽを向いた。
「(最悪だ。よりにもよって悪魔と二人きりとか……)まあ、でも、地上の『常識』なら仕方ねえ。家賃(?)とかも折半できるしな。合理的だ」
「(まぁ、よりにもよって天使とご一緒とは……)ええ、本当に合理的ですわ。私達のような『異物』が、まず二人で助け合う。それが地上の流儀ということですものね」
こうして、「一時休戦」は、二人の共通認識に基づき、「一時的な共同生活」へと、なし崩し的に格上げされた。
「……で」
現実に戻ったステラが、路地裏の出口を顎でしゃくった。
「その『カネ』はどうすんだよ。『住居』借りるにも、タダじゃねえんだろ」
「あら。ご心配なく」
アスエルは、にっこりと微笑むと、儀式用の衣装の懐にそっと手を入れた。
そして取り出したのは――ゴロン、と音を立てそうな、ヘルによくある純金の塊だった。
「…………」
さすがのステラも、一瞬、言葉を失う。
「……テメェ、マジか」
「ええ。こういう時のために、少々『持ち合わせ』がございますの。ヘルの金は純度が高いと評判でしたから」
「……ハッ」
ステラは、鼻で笑うと、今度は自分が儀式用のボロ布のポケットを探った。
「あたしだって、馬鹿じゃねえよ」
そして取り出したのは――路地裏のわずかな光を乱反射させ、眩い輝きを放つ、ヘブンによくある完璧なカットが施された大粒のダイヤモンドだった。
「あら……」
二人は、お互いの「手持ち資金」を値踏みするように一瞬見つめ合ったが、すぐに視線を外した。
「……行くぞ、アスエル」
「ええ、ステラ」
「まずは、こいつを『カネ』に変える。『換金所』だったか? 書庫で見たぞ」
「まぁ、奇遇ですわね。私も、そういう場所の目星はつけておりましたの」
どちらが先に歩き出すでもなく、二人は同時に、路地裏の暗がりから、ネオンが輝き始めた「地上」の雑踏へと、その第一歩を、共に踏み出した。




