序章:天使と悪魔とトイレットペーパー
カチ、カチ、カチ、と。
新築のアパートの一室、その壁にかけられた、何の変哲もないプラスチックの時計が、無機質な音を立てている。
時刻は、午前九時二十五分。
ダイニングテーブルの上には、コンビニで買ったおにぎりの残骸と、スーパーのチラシの束が、昨日と同じ配置で散らばっていた。
だが、昨日と決定的に違うことが一つ。
この部屋の住人である二人の少女が、まだ、眠っていた。
「…………」
先に、金色のまつ毛が、ぴくりと震えた。
タレ目がちの大きな瞳が、ゆっくりと開かれる。
アスエルは、自室の猫足ベッドの上で、完璧な静止状態から、音もなく上半身を起こした。
そして、壁の時計を一瞥する。
午前九時二十六分。
「…………あら」
ふわりと、彼女はベッドから降り立つと、スリッパの音も立てずに、隣の部屋のドアを、そっとノックした。
コン、コン。
「……ステラ。起きていらっしゃいますか? もう、九時半ですわよ」
返事はない。
ただ、部屋の奥から、健やかすぎる寝息が聞こえてくるだけだった。
「…………(青筋)」
アスエルの完璧な笑顔が、わずかに引き攣った。
彼女は、もう一度、今度はノックではなく、ドアノブに手をかけた。
ガチャ。
「――ステラ。起きてくださいまし。本日の『計画』、全て『破壊』されますわよ」
「ん……あァ……?」
黒のスチールパイプで組まれたロフトベッドの上から、燃えるような赤い髪が、鳥の巣のように飛び出した。
ステラは、鋭いツリ目を(無理やり)こじ開け、枕元の時計を見る。
午前九時二十七分。
次の瞬間、彼女は、重力も無視したかのような勢いで、ベッドから飛び起きた。
ガッシャーン!!(ベッドのはしごを踏み外す音)
「いッ……てェ……! クソが!」
「あら、お目覚めですの」
「お目覚めですの、じゃねえだろ! なんで起こさねえんだよ、アスエル!」
ステラは、床に尻餅をついたまま、昨日着ていたパーカーを掴み、怒鳴りつけた。
「まぁ。三回、起こしに参りましたわ」
アスエルは、部屋の入り口で、優雅に腕を組んだ。
「一回目は『うるせえ、後五分』と。二回目は『あたしの『創造』の邪魔すんな』と。三回目には、貴方、無意識に枕元にあった空き缶を『改良』して、私に投げつけようとなさいましたでしょう?」
「……ッ! 覚えてねえよ、そんなモン!」
ステラは、顔を真っ赤にして立ち上がると、アスエルを突き飛ばすようにして部屋を飛び出し、洗面所へと突進した。
凄まじい音を立てて顔を洗い、歯を磨き(一分もかかっていない)、再びリビングへと飛び出してくる。
「チッ! 早くしろよアスエル! 間に合わねえだろ!」
「あらあら。全ての『原因』は、貴方の寝坊ですのに」
玄関でステラは、スニーカーに、乱暴に足を突っ込んだ。
「ほら行くぞ、アスエル!」
「待ってステラ!」
アスエルは、ロングスカートの埃を払いながら、ゆっくりと(しかし、ステラより遥かに速く)玄関でブーツを履き終えた。
「……あ?」
ステラは、ドアノブに手をかけたまま、固まった。
パーカーのポケット、ジーンズのポケット、尻のポケット。全てを探るが、目的の『ブツ』がない。
「おい!」
彼女は、地上の生活で、最も重要な『装備』の名を叫んだ。
「財布持ったか!?」
「…………」
アスエルの、おっとりとしたタレ目が、スッと細められた。
完璧な笑顔のまま、その声のトーンだけが、地獄の底のように、低くなる。
「……ステラ。本日は、何曜日ですの?」
「あ? ……月曜だろ」
「そう。そして、本日の『生活費』の当番は、どちらでしたかしら?」
「…………あっ」
ステラのツリ目が、カッと見開かれた。
そうだ。
月曜日は、自分の番だった。
「ぁあ! そうか! 悪い、先行っててくれ! すぐ取ってくる!」
ステラが、慌てて玄関を上がろうとした、その背中に。
「――いいえ」
アスエルの、冷静な声が、突き刺さった。
アスエルは、自分のカバンから、既に、くたびれた(しかし、中身は厚そうな)長財布を、取り出していた。
「もう、時間がありませんわ。私が出します」
「お、おう……悪いな、アスエル!」
「ええ。ですから」
アスエルは、ドアを開け放ち、地上の眩しい光の中へと一歩踏み出しながら、ステラに向かって、完璧な、この世の者とは思えぬほど、美しい笑顔を向けた。
「これで、貸し、一つですわよ?」
「うぐ……ッ!」
ステラは、その笑顔に、自分の故郷の、どの天使長よりも恐ろしい「圧」を感じながら、忌々しげに、その後に続いた。
「借りは、必ず返す! 行くぞ!」
「ふふっ。望むところですわ」
二つの影が、アパートの階段を、地響きを立てて(ステラ)と、音もなく(アスエル)、猛烈な速度で駆け下りていく。
目指すは、駅前の『激安スーパー・アザブ』。
本日の『九時半タイムセール』の開始時刻まで、あと、一分を切っていた。
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午前九時三十一分。
『激安スーパー・アザブ』の自動ドアが、ウィーン、と開く。
そこに、二つの影が、滑り込んできた。
「はぁ……っ、はぁ……!」
「……ふぅ。間に合いましたわね」
ステラは、肩で息をし、アスエルは、涼しい顔で髪を直している。
だが、安堵したのも、束の間だった。
店内は、既に、戦場と化していた。
地上の『ルール』を熟知した、歴戦の主婦たちが、カートを武器に、目当ての『獲物』へと殺到している。
「チッ! BBAどもが、速え……!」
ステラが、悪態をつく。
「ステラ、二手に分かれますわ」
アスエルのタレ目が、戦士のそれに変わった。
「私は、入り口すぐの『卵(98円)』を『確保』します。ステラは、奥の『日用品コーナー』を『制圧』して」
「……おう! 任せろ!」
「ご武運を」
「テメェもな!」
二人は、アイコンタクト一つで、人混みの中へと、別々に突っ込んでいった。
ステラは、猛獣のような俊敏さで、客と客の間をすり抜け、カートの隙間を飛び越え(ようとして、おばちゃんに怒鳴られ)ながら、一直線に、店の最奥部へと向かう。
彼女の脳裏には、今朝のチラシに、赤マジックで、これでもかと丸が付けられた、あの『ブツ』の姿だけが、焼き付いていた。
『――本日限り! お一人様一点限り! トイレットペーパー(ダブル・18ロール)! 98円!!』
(クソが……!)
ステラは、奥歯を噛み締めた。
(あたしが、天使長の『お説教』から逃げる時より、速え……!)
(だが、負けねえ……! あの、通常価格398円の悪魔に、今月も、あたしらの『城』のインフラを、脅かされてたまるか……!)
日用品コーナーの角を、ドリフトするように曲がる。
視界に、目的の『棚』が、入った。
「…………」
そして、ステラは、固まった。
棚は、既に、空だった。
あるのは、『ご好評につき、完売しました』という、無慈悲な、白い『札』だけ。
そして、その棚のすぐ横で。
一人の、小柄な老婦人が、まるで『勝利のトロフィー』のように、あの、紫色の花柄がプリントされた『98円のトイレットペーパー』を、誇らしげに、自分のカートの『一番上』に、そっと、乗せているところだった。
「……あ」
ステラの、鋭いツリ目が、信じられないものを見るかのように、見開かれた。
(……狩られた)
全身から、力が抜けていく。
怒り。
いや、それよりも、深い、深い『絶望』。
(……嘘だろ……。この、あたしが……ヘブンで『創造』の力を……)
彼女の握りしめた拳が、ギリギリ、と音を立てる。
(……天使が……たかが、地上の『紙』ごときに……!)
その瞬間、ステラの周囲にあった、安売りの『柔軟剤(詰め替え用)』の棚が、彼女の無意識の『創造』の力の影響を受け、ミシミシ、と、音を立てて(勝手に)『改良』されそうになった。
「――ステラ」
その、緊迫した棚の前に、ふわり、と、影が差した。
アスエルだった。
彼女の右手には、見事、『確保』された『98円の卵(赤玉)』が、輝いていた。
「あら。ステラ、どうしましたの? 『獲物』は?」
アスエルの、無邪気な(……それゆえに、残酷な)問いかけが、ステラの『理性』の、最後の一本を、へし折った。
「……無え……」
ステラは、うつむいたまま、絞り出すように言った。
「……無えんだよ……!」
「まぁ」
「クソッ! クソがぁぁぁ!」
ステラは、子供のように、その場に立ち尽くした。
「あいつら! あたしが、昨日から『創造』し続けていた、『完璧なタイムスケジュール』を……!」
「(あ、棚が、棚が、また……!)」
アスエルは、ステラの背後で『柔軟剤(フローラルの香り)』から『柔軟剤(最高級ゴールドの香り)』に『改良』されかけている棚を見て、小さく咳払いをした。
「――ステラ」
アスエルは、そっと、ステラの肩に手を置いた。
「……んだよ! 慰めか!? いらねえよ! 負けは、負けだ……! これで、今月も……あの、クソ高い『通常価格』で……!」
悔しさに、ステラの声が、震える。
「大丈夫ですわ」
アスエルは、ステラの耳元で、悪魔のように、優しく、ささやいた。
「こういう時のために、私は昨日、『労働』の帰りに、駅前の『ドラッグストア・ムツキヨ』の『価格』も、完璧に『調査』済みですの」
「……は?」
ステラが、顔を上げる。
「あちらは、本日『ポイント十倍』デー。実質『198円』」
アスエルは、完璧な笑顔を浮かべた。
「……確かに、この『98円』という『神の奇跡』には劣りますが、合理的な『次善策』ですわ」
「……おま……」
「ふふっ」
アスエルは、そのタレ目を、優雅に細めた。
「私の『破壊』の美学は、無駄な『出費』を、何よりも嫌いますから」
「…………」
ステラは、数秒間、アスエルの顔を、じっと見つめた。
そして、プイッ、と、そっぽを向いた。
「……テメェ、そういうとこだけ、マジで『悪魔』だよな……」
「あら。最高の褒め言葉、ありがとうございます」
アスエルは、まだ、地団駄を踏みたくてたまらない、という顔をしている「親友」の腕を、そっと掴んだ。
「さあ、ステラ。卵が割れる前に、帰りましょう。『城』に」
「……おう」
こうして、天使と悪魔の、地上における、ささやかな(しかし、重要な)『戦い』は、今日もまた、続く。
秩序と混沌、創造と破壊。
そんな、大層なイデオロギーとは、何の関係もない、ただの『98円』のトイレットペーパーを巡る、ちっぽけで、しかし、切実な日常。
――これは、そんな二人の「問題児」が、地上で「本当の居場所」を見つけるまでの、壮大な(?)家出の物語。




