【金の葡萄亭にて】
シュトラウス商会の当主フランツ・シュトラウスとの商談を終えた悠真と龍華は、彼の紹介してくれた宿《金の葡萄亭》へと向かった。
バルゼンの中心部に位置するこの宿は、木造の堂々とした建物であり、入り口にはぶどうの蔦を模した装飾が施されていて、その上には金色のぶどうの意匠が掲げられている。
「ここが《金の葡萄亭》ですか……」
龍華は扉を見上げ、興味深そうに言った。
「フランツが『信用できる宿』と言うだけのことはあるな。街の中でもしっかりした造りだ。」
悠真も建物の外観を見て、安定した財力を持つ宿であることを直感した。
扉を押し開けると、中からは木の香りとほのかな葡萄酒の匂いが漂ってきた。天井は高く、広々とした空間には柔らかい灯りが灯されている。
中央には長いカウンターがあり、数人の宿泊客が手続きをしていて、その奥にはテーブルと椅子が並び、小さな酒場のようにもなっている。
暖炉の火が心地よい温もりを提供し、旅の疲れを癒やすのに十分な雰囲気を作り出していた。
カウンターの奥に立っていたのは、恰幅の良い初老の男性だった。
整えられた口ひげと温厚そうな顔立ちが印象的で、長年宿を営んできたことを感じさせる風格がある。
「ようこそ、《金の葡萄亭》へ。旅のお方ですな?」
「ええ、フランツ・シュトラウスの紹介で来ました。」悠真が名乗ると、宿の主人は宿帳らしき帳面に目を落とし、再び二人の様子を見てくる。
「なるほど、フランツ様の使用人からお話は伺っております。私はこの宿の主人、レオ・バルモアともうします。以後お見知りおきを」
「俺は悠真、こちらは龍華だ、今晩の宿を取りたいのだが、空きはあるだろうか?」
「はい、すでにフランツ様から部屋のご用意を承り、すでに代金もいただいております」
「なんだって?もう支払い済みなのか?」
「はい、シュトラウス商会様は当宿に遠方から来られたお客様用に部屋をもっておられまして、そちらへご案内するように承っております。代金につきましても、受け取る必要ない旨を仰せつかっております。」
悠真は龍華と目をあわせると、お互いに「してやられた」という表情になった。
「さあ、旅の疲れもありますでしょう。お部屋にご案内しましょう。」
「ちょっ、ちょっと待ってくれ。当然部屋は2部屋用意してくれているんだろうな?」
レオは手慣れた様子で帳簿を開き、宿泊名簿を確認した。
「いえ、一部屋でございますね」
「……社長、一部屋ですか?」
龍華は一瞬、迷うような表情を浮かべた。
「二部屋用意していただけないだろうか?」
悠真は慌ててもう一部屋を確保しようとする。
レオは再度帳簿を開き、宿泊名簿を確認すると
「申し訳ございません、本日はもう空きがございません。しかしお部屋は十分広いですし、ベッドも大きいので、ご容赦いただけないでしょうか?」
「……社長」
龍華は顔を真っ赤にして下を向いてしまった。
「大丈夫だ、今日はお互いに疲れているだろうし、さっさと寝てしまおう」
「・・・はい・・・」
龍華はしぶしぶといった感じで了承した。
レオは満足げに頷き、鍵を一つ差し出した。
「お部屋は二階の廊下を進んだ突き当りでございます。各階には使用人も待機しておりますので、何かご入用なら、お申し付けください。」
「ありがとうございます。」龍華は鍵を受け取りも礼を述べる。
「まさか、チェックアウトの時に(ゆうべはおたのしみでしたね)なんて言わないだろうな・・・」
悠真は龍華に聞こえない声でそうつぶやいた。
階段を上がり、指定された部屋の扉を開けると、中はシンプルながら清潔に整えられた空間が広がっていた。
木製の家具が温かみを感じさせ、窓の外からは街の灯りがちらちらと見える。
ベッドは大きめ、たしかに二人で寝ても十分な広さだった。
机と椅子も備えられており、書類の整理や簡単な作業もできそうだ。
悠真はベッドに腰を下ろし、大きく息をついた。
「ふう……やっと落ち着けるな。龍華もゆっくりしてくれ。」
悠真のその言葉に龍華は頷くと、離れたベッドに腰を下ろす。
「異世界に来てから、いろいろありましたからね。」
「そうだな・・・しかし今日は自分の力不足を痛感させられたよ・・・」
「社長・・・あれはしかたなかったと思います・・・。フランツ様は王国全土に根を張る豪商です。しかもここは異世界です、くぐった修羅場も平和な日本とは比べられないほどでしょう。」
「そうだな・・・」
「ここで反省していても仕方ありませんよ、フランツ様のほうが上手だったと認めて、これから日本の・・・いえ、社長の商売を見せつけてやりましょう!」
「ああ、もっとこの世界のことを研究して、俺たちに何ができるのか、そして最終目的であるこの世界の平和とやらをどうやって成すのか考えないとな!」
「どちらにせよ情報収集が当面の目標ですね!しかし今日は疲れました・・・そろそろお風呂でも入って寝ましょう」
「そうだな・・・、そういえばこの部屋にお風呂とトイレって・・・?」
「そういえば見てませんね・・・まさか?」
「もしこの世界の文明が中世ヨーロッパ程度だとすると・・・」
「私が聞いてきますので、お待ちください!」
そういうと龍華は足早に部屋を出て行った。
しばらくすると血相を変えて戻ってくる。
「社長!!」
「まさか・・・?」
「はい・・・お手洗いは各階に1か所で共同、お風呂は無いそうです・・・」
「嫌な予感が的中したな」
「もし地球と同じような歴史だとすれば、衛生面が最悪だった頃ですからね・・・」
「近々シュトラウス商会に風呂とトイレのアイデアを話し合おう・・・」
「最優先ですね!」
その後、龍華がタライにお湯をもらってきたので、それで体を拭くことにした。
「お湯をもらいに行ったとき、ついでにトイレを見てきたのですが」
「便器すらない」
「便器すらない」
二人は完全にシンクロしたようにそう言うと笑い始めた。
「社長、笑っている場合ではありません。明日シュトラウス商会に行って最優先で提案しますよ!」
龍華の声のトーンが本気を感じさせる。
それから、龍華が体を拭き終わるまで、異世界での情報収集を兼ねて宿のロビー横にあるバーに行くことにする。
宿のロビーを抜けると、そこには落ち着いた雰囲気のカウンターが広がっていた。
暖かみのある木製の内装に、間接照明の柔らかな灯りが落ち着きを醸し出している。壁際には棚があり、様々な酒瓶が並んでいた。そのラベルには見覚えのない文字が並んでおり、それが異世界に来たのだという実感を改めて湧かせる。
カウンターの奥で忙しなくグラスを磨いているのは、猫人族の女性だった。
鮮やかな灰色の毛並みと、ピンと立った耳が特徴的で、尻尾がカウンターの下で揺れている。
年の頃は十代後半から二十代前半といったところか。
猫のように大きな瞳が好奇心に満ちており、カウンターに座った悠真を興味深げに見つめた。
「にゃっ、いらっしゃいませ! 旅の方かにゃ?」
元気な声とともに、彼女は微笑んだ。耳がピクピクと動いているのが愛らしい。
「そうだな。こっちに来たばかりで、ちょっと土地勘がないんだ。新しい土地に着いたらまずは酒を味わってみようかと思ってな」
悠真がそう言うと、彼女は興味を引かれたように目を輝かせた。
「ほほう、なかなかいい心意気だにゃ! それなら、おすすめのエールを用意するにゃ!」
彼女は軽やかに動きながら、木樽から琥珀色の液体をグラスへと注ぎ始めた。ほんのりと香ばしい香りが立ち上る。
「これは〈ルーガル・エール〉って言って、バルゼンの名産品だにゃ。コクがあって香ばしくて、旅人にも人気のお酒にゃよ!」
彼女は満足げに胸を張り、悠真の前にグラスを差し出した。
悠真はゆっくりとグラスを持ち上げ、香りを確かめた。麦の深みとほのかな甘みが混じる芳醇な香りが鼻をくすぐる。
そしてひと口、喉を通る瞬間に豊かな風味が口いっぱいに広がった。
「……これは、なかなかイケるな」
悠真は満足げに微笑んだ。
日本のビールとは違い、苦みが少なく、麦の甘みが際立っている。
喉ごしもスムーズで、適度な炭酸が心地よい刺激を与える。
「でしょでしょ? にゃふふ、あなた、なかなかいい飲みっぷりにゃ!」
猫人族のバーテンダーは楽しげに尻尾を揺らしながら、悠真のリアクションを観察している。
「名前を聞いてもいいか?」
悠真が尋ねると、彼女はにこっと笑って答えた。
「わたし? わたしは〈ミャリナ〉! ここの看板バーテンダーにゃ!」
「ミャリナか。いい名前だな」
「にゃふふ、ありがとにゃ!」
そんなやりとりをしていると、体を拭き終わったのか龍華が合流した。
龍華はカウンター越しに店内をじっと観察していた。
彼女の前には、透明度の高いワイングラスが置かれ、中には鮮やかな赤色の液体が揺れている。
「そちらは?」
「こちらは〈ルビーベリー・ワイン〉にゃ。ちょっと甘めだけど、疲れが取れるにゃよ」
「……悪くないわね」
龍華は一口飲み、静かにグラスを置いた。
その表情には、どこか満足げな色が浮かんでいる。
「ところで、ミャリナ。この街で何か面白い情報はないか?」
悠真はエールをもう一口飲みながら、さりげなく情報を引き出そうとする。
「にゃにゃ? 面白い情報か……ふむ、最近だと、ギルドの方で妙な依頼が増えてるにゃ。魔物の動きがちょっと変にゃのよね」
「魔物の動き……?」
悠真と龍華は顔を見合わせた。
ミャリナはさらに声を潜めるようにして続ける。
「詳しいことは、ギルドの上の方しか知らないけどにゃ。でも、森の中で行方不明になった人が増えてるとか……」
「なるほど……」
悠真はエールを飲み干しながら、異世界に来たばかりとはいえ、すでに波乱の予感を感じていた。
「ま、せっかくのエールにゃ! 難しい話はほどほどにして、ゆっくり飲んでいくにゃ!」
ミャリナは快活に笑いながら、カウンターの向こうでグラスを磨き続けた。
悠真は新たに注がれたエールを手に取り、龍華と軽くグラスを合わせる。
「さて、異世界での一杯目に乾杯といこうか」
「ええ、社長」
龍華と交代で部屋に戻り体を拭き終わった悠真がロビー横のバーで再びと龍華と合流し、客室へと戻ってきた。
部屋の中央には、大きめのベッドが一つ。
「……なるほど、何度見てもベッドは一つだな・・・」
悠真は静かにベッドを見つめた。
悠真は額に手を当て、ため息をついた。
「……まあ、仕方ない。俺は床で寝るよ」
「いえ、社長が床で寝るなんてありえません。私が床を使います」
「お前、床で寝たら明日のコンディションに響くぞ。異世界での行動は体力勝負だし、ここは俺が遠慮する」
「そういう理屈なら、社長も同じです。交渉の場でも戦場でも、判断力の低下は致命的ですから」
「……龍華、少しは俺に譲る気はないのか?」
「社長こそ、少しは私に譲る気はないのですか?」
睨み合う二人。互いに一歩も譲らない。
「……くそっ、どうする?」
「分ければいいのでは?」
「……分ける?」
「ベッドを半分ずつ使いましょう。これならどちらも快適です」
「……そういうものか?」
「当然です。まさか社長、変なことを考えていませんよね?」
「……考えてない」
「本当に?」
「……たぶん」
「たぶん、とは?」
龍華はじっと悠真を見つめる。冷静な視線だが、どこか警戒しているようにも見えた。悠真は思わず肩をすくめる。
「冗談だ。分かった、ベッドを分けよう」
龍華は満足げに頷くと、手際よく枕を二つに分け、シーツを整えた。
「では、半分ずつ使用しましょう」
「……了解だ」
二人はベッドの端と端にそれぞれ横になり、静かに天井を見上げた。
「……なんだか、妙な感じだな」
悠真が呟くと、龍華も軽くため息をついた。
「……ですね。異世界の最初の夜が、こんな形になるとは思いませんでした」
「まあ、これも経験のうちか……」
そう言いながら、悠真は目を閉じる。隣では、龍華の静かな呼吸が聞こえる。
「……社長」
「ん?」
「おやすみなさい」
「……ああ、おやすみ」
静寂が訪れ、異世界最初の夜が静かに更けていった。